25
「うーーーん、自分の気持ちに気が付かなかった、ってこと? いつも素っ気ない態度だったよね」
すると由紀恵が杉山に向かい合う。
「ううん、判ってたの、最初から。でも、同時にあなたがわたしに関心なんかないってことにも気が付いてた」
「いや、それは……」
「あなたにはわたしが寂しそうに見えたのでしょう? だから声をかけてくれた。優しさでね」
ふっと杉山が笑う。
「お見通し、と言いたいところだが、少しだけ違う」
そして苦笑いしながら、聞いても怒るなよ、と由紀恵に言った。
「いや、うん、わたしは確かに子どもだった。大人になり切れていなかった。今もそうかもしれない ―― それはともかく、海を見ている由紀恵に、なんだか見守られているような気がしていた。母親を感じたんだ。最初は由紀恵が言うように、寂しそうだなってのもあった」
「母親?」
「わたしが物心つく前に母が病死していることは知っているだろう? 毎日、海岸に立つキミを見て、母親ってあんな風に子どもを見守るんだろうな、って思った。そしてキミはわたしが駆け寄って声をかけると笑顔を見せてくれた。母親が子どもに向ける笑顔ってこんななんだろうなって。それに、その笑顔は、わたしをとても喜ばせ、慰めてくれた。でもね、これと言って話題が思い浮かばない。それで明日も来るかって聞いた。で、来るという返事に、なんだろう……安心した」
「ふぅん、ってことは
それに杉山は答えない。ニヤッと笑っただけだ。
その様子にとうとう
「それで? 僕に聞かせたい話はそんなだった?」
懐空の言葉に杉山が咳払いする。
「そうだね、キミからしたら、それがどうした、って話だろうね ―― でも始まりはここなんだよ」
長い話になる、お茶を
杉山の年齢なんか考えたことがなかった。でも、由紀恵よりも十四も下だと知った。二十の杉山に三十四の由紀恵、由紀恵が杉山を離れたのは年齢差を考えたからだと思えた。でも、それ以外にも何かあるのじゃないか?
湯呑が配られ、一息つくのを待って杉山が話を再開する。
「台風が近づくある日、わたしは友人たちと海を眺めていた。波が荒れて、今日はダメだと思った。片付けて帰るしかないって思い始めていたころ、由紀恵が来た。そして自分の初恋の人は台風の日に海に挑んで
そうか、この人は、今もその彼を待っているんだ、そう思った。この人はこの海に
「一瞬の
何とか波に乗り、ボードに立った。岸でわたしを見守る由紀恵が
「これで由紀恵は僕のものだ ―― 早く戻って好きだと由紀恵に言おう……」
次の瞬間、大きなうねりにバランスが崩れ、あっという間に水底へと引き込まれた。ボードがぐんぐん沖の深みへと引っ張られる。リーシュが足首に痛いほど食い込んで、そこから下が千切れてなくなるんじゃないかと思った。どちらが上で下なのか判らなくなり、息ができない苦しさに
「気が付いたら友達が泣きながらわたしを呼んでいた。由紀恵は怖い顔をして、馬鹿、とわたしを
「ホンっと馬鹿! もうダメだって見ていて思った。また海に取られてしまう、って思った……
口を挟んだ由紀恵は、その時のことを思い出すと怒りが収まらないのだろう。怖い顔で杉山を睨みつけている。うっすら涙ぐんでいるように見える。
あんなに海の近くに住んでいながら、由紀恵が
それなのに、海の傍に住んだのはなぜだ? 初恋の人を今も待っている? いや、それは違うように感じる。杉山が言うように由紀恵はもう、初恋の人に縛られてはいないだろう。
「すぐに親元に連行されて、しばらく軟禁状態だった。兄がすごい剣幕でね。二度と海には行かさないって言われた。事が事だけに仕方ないんだけれど、まぁ、わたしは悪ガキでね。隙を見て家を抜け出した。兄は頭を抱えたことだろうね」
杉山がゆっくりと
「で、その足で由紀恵に会いに行った。必ずあの海で待っている。思った通り由紀恵はそこにいて……わたしは由紀恵の手をとり、由紀恵はわたしのその手を握りしめた。どこに行く? と聞いたら、そのまま私の手を引いて、由紀恵は自分の部屋にわたしを連れて行った。夏休みが終わるまで、そこで過ごした」
「えっ? いきなり?」
思わず懐空が驚くと、杉山と由紀恵が顔を見かわす。
「熱病みたいなものかもね。熱に浮かされて。ほかのことが見えなくなっていたの。お互いにね」
と、由紀恵が言えば、
「そう言う割にキミは、毎日ちゃんと仕事に行ってた」
と杉山が笑う。
「仕事なんか休んで一緒にいて、って頼んでも休んでくれなかった。仕方なくわたしは留守番だ。サーフィンはやめてしまっていて、時間を持て余してた。晩飯を作るのが日課になってたなぁ」
「カレーが多かったわね」
「キミが美味しいって言ってくれたからね」
「ほかが美味しくなかったのかも?」
杉山が舌打ちし由紀恵を睨みつける。それに由紀恵が笑顔で応える。思わず懐空はコホンと咳払いした。
「あー、でも、夏休みはいずれ終わる」
慌てて杉山が由紀恵から視線を外し、話を元に戻す。
「大学が始まってからは、金曜日に由紀恵の家に行き、月曜日に東京に戻る生活になった」
夏休み中どこにいた、と兄に散々怒られた。それでも、平日は家に帰り、大学にもちゃんと行っている様子にそれ以上は何も言われなかった。
「でも、わたしの知らないところで事態は動いていたんだ」
ある日、大学から帰ると珍しく父がわたしの部屋に来た。街にクリスマスイルミネーションが見え始めた頃だった。同じ家に住んでいたけれど、めったに顔を見ない父だ。どうしたんだろうって思った。今更、夏の事故を蒸し返して説教でもするのか、と思った。でも違った。
「由紀恵と言う女性には身を引いて貰った。学生の身分で女に
わたしを持て余した兄が父に相談したのだと思う。わたしは、由紀恵に何をした、と、父に食って掛かった。すると親父は世間知らずの馬鹿者が、とわたしを一喝した。
「一か月前、相場より多い手切れ金を渡した。この金で一か月のうちに、
それでも信じないわたしに父はこう言った。
「確かに最初は彼女もウンとは言わなかった。でも、息子を誰かの代わりにしないで欲しい、と言ったら、判ってくれた。おまえも心当たりがあるんだろう? そんな関係は、お互いを不幸にするだけだ」
どうやら父は由紀恵のことを調べたらしい。そんなんじゃない、と言うわたしに、おまえは
杉山は、今度は深い溜息を吐いた。
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