12

 夜は何が食べたいか尋ねると、『おにぎり』と幼い声が答えた。

「お昼におにぎり食べたでしょ?」

苦笑して愛実あいみが答える。


「じゃあ、オムライス!」

「オムライスかぁ……ちゃんとサラダも食べる?」

愛実の提案に、懐海なつみが少しムッとする。


「サラダ嫌い。ポテトサラダなら大好き」

「ママはナツミにお野菜食べて欲しいなぁ」

ナツミが困った顔をする。

「お野菜……筑前煮なら好き。あとはチンジャオロースなら好き」

「チンジャオロースは昨夜食べたよね ―― オムライスに筑前煮?」

「うん! 筑前煮!」

「それじゃ、お味噌汁も作ろうね」


「何のお味噌汁?」

不安そうなナツミに

「お豆腐とネギとワカメ。それからホウレンソウと小松菜とキャベツも入れようかな」

と答えると、可愛い顔でナツミが考え込んだ。


 キャベツは好きだけど、ほうれん草は苦手。でも大好きな豆腐も入っている……頭の中でどうしようか迷っているのがナツミの表情に出ている。迷った挙句『作って』とニッコリ笑った。


 筑前煮を煮ている間に味噌汁を作り、それからナツミの分だけオムライスを作る。オムライスの横にプチトマトを乗せてあげると『かわいい!』とナツミがはしゃいだ。


 明日の土曜日は幼稚園も休みだ。一日一緒にいられる休みの日を、愛実が楽しみにしていることにナツミも気が付いている。明日はお休みだから、ママ、嬉しいでしょ、とニッコリする。


 保育園には行かせなかった。ナツミと一時いっときでも離れるのが苦痛で、愛実が思いきれなかった。ナツミはナツミであり、懐空かいあではないのだと頭の中で判っていても、ナツミがいなければ、懐空もいなくなりそうで怖かった。


 だからと言って家に閉じ込めておくわけにはいかない。近くの公園に連れて行くことはあった。それなりに愛実にもナツミにも友達ができたけれど、その子どもたちが幼稚園に行くようになれば、ナツミにも集団生活が必要だと愛実も思った。ナツミは楽しそうに毎朝登園したけれど、最初のころは我が身が引き裂かれるような痛みを覚えた愛実だった。


 さすがにそんな状態は長くは続かなかったが、ずっと一緒にいられる休みを喜ぶのはナツミよりも愛実だった。


 そんな愛実にナツミが時々不思議なことを言う。―― ママは誰を待っているの?


 最近では言わなくなったけれど、パパのためにママのところへ来たのに、ナツミにはなんでパパがいないの? と真面目な顔で聞いてくることもあった。そんな時、愛実は黙ってナツミを抱き締めるしかできなかったが、とんでもないことをしたのではないか、と後悔の念が心に渦巻いた。


 懐空かいあのためを思って彼のもとを去った。それは間違いだった?


 でも、今更戻れない。懐空は着実にキャリアを重ね、出せば売れると言われる作家のひとりとなった。その懐空に結婚していない女、しかも十二も年上の女との間に、もうすぐ五歳にもなる娘がいるなんて世間が知ったら何と言われるか。


 意地悪な見方をする人ならば、娘の年齢をみて、新人賞の受賞が決まった懐空が愛実を捨てたと思うだろう。愛実が邪魔になったんだと言うだろう。


 どんなに売れても生活スタイルを変えず、実家で母親と二人暮らし、身持ちが硬く堅実と言われる懐空の評判が地に落ちることになる。それは、懐空のファンから見れば裏切りに映るかもしれない。


 懐空はナツミの存在を、杉山すぎやま涼成りょうせいから聞いただろうか? あれ以来、予告なく訪れる人がいると、愛実はいつもびくびくする。ひょっとして、ここに住んでいると知られてしまったのではないか? 手段は判らない。でも、母娘ともに名前が判っているのだから、興信所を使えば知られてしまうのではないか?


 狡い、と思った。わたしは狡い。


 自分から戻るなんてできないと思い、見つかることを恐れているくせに、どこかで見つけて欲しいと望んでいる。しかも自分の存在が、懐空の立場を悪くすると知っている。望まれて戻れば、たとえ懐空が苦しい立場に立たされても、自分は彼の望みに従っただけだと自分に言い訳できる。


 ナツミの口元に着いたケチャップを拭きながら、さらに愛実は思う。


 ナツミのことにしてもそうだ。懐空を守るため、と理由をつけて、結局は子どもから父親を奪っただけではないのか? 思い出したように時々この子は口にする。パパはいつ帰ってくるの?


 うちにパパはいないでしょ、と言ってもママは忘れちゃったの? と不思議そうな顔をする。


 夢でも見たのかとは思うけれど、そのうち言わなくなるとは思うけれど、本当にそうだろうかと、愛実の心は揺れる。ひょっとして、ナツミはすべてが判って言っているのではないだろうか? そう思うたび愛実は、そんな馬鹿なと自分で打ち消す。


 ナツミを抱いて初めて知った。自分の子は無条件で愛しいのだと。誰も皆、愛されるために生まれてくるんだと思った。自分の子にさえ愛を持てないのだとしたら、少なくともそれは子どもに起因するものじゃない。親のほうに懊悩の種があるのだ。


 そうしみじみと感じた時から、愛実は悪夢に悩まされなくなった。逃れたくても逃れられない暗い影、それがどこかに消えたと感じた。


 今、愛実が涙を流すとしたら、それは懐空に会えない寂しさからだ。


 自分の幸せは、懐空とともにあると、実感していた。心の底から信頼できる存在、安心して愛情を求められる存在の懐空が、安心して愛を傾けられるナツミをわたしにくれた。すべてが懐空に繋がっている。


「ママの指輪、今日も光ってるね」

 ナツミがニコニコしながら愛実の指を見た。室内灯が反射して愛実の手元をきらめかせていた。

「そうね、綺麗でしょ?」

愛実の返事にナツミが『うん』と頷いた。


 ナツミを寝かしつけてからパソコンに向かい仕事をしていた。テープリライトの仕事は、以前のように多くは稼げなかったけれど、納期の長いものを真由美が回してくれるので、子育てに支障なく続けていくことができた。食べるのには困らない。けれどこの先足りなくなるのは判っている。ナツミの教育費が今のままの稼ぎでは完全に不足する。ナツミが学校に行くようになったら仕事を増やそうと思っていた。


 録音の聞き逃しをしないよう、愛実は仕事の時はヘッドホンをしている。だからSNSのメッセージに気が付かなかった。電話の着信でスマホが点滅し、やっと気が付いた。ヘッドホンを外してスマホを確認すると、電話は真由美まゆみからだった。慌てて受信する。


「ごめん、仕事してて気が付かなかった」

「そんなとこだと思ったわ。いくらメッセージを送っても、全然返信がないんだもの」

真由美はそう答えたが、少し不機嫌に愛実は感じた。


「ねぇ、あみ。あなた、杉山涼成すぎやまりょうせいって知ってる?」

「作家でしょ? 恋愛小説で人気の作家さん」


 動悸どうきが真由美に聞こえないかとびくびくしながら愛実が答える。なぜ、杉山涼成のことを真由美がわたしに聞くのだろう?


「まさか、ナツミちゃんの父親、なんてことはないわよね?」

「な……なに言いだすのよ?」

笑って見せたけれど、不自然ではなかった?


「なんで、そんなこと思ったの?」

真由美から話の主導権を奪い、何とか隠さなければ、と思った。問い詰められて秘密を暴露してしまいそうだ。


 すると真由美が

「今日ね、テープリライトを頼んでる中に『樋口ひぐち愛実』はいないかって聞かれたのよ」

「杉山涼成に?」

ますます動悸が激しくなる。


「ううん、うちの文芸部の人。なんでも杉山先生が、ポロッとそんなことを言ったんだって。知り合いの娘さんが行方不明でね、って」

「知り合いの娘さん?」


「しかも、四歳くらいの女の子がいる、っていうのよ。あみに間違いないって思った」

「……」


「でも、あみ、あなた、お父さんは亡くなったって言ってたわよね? お母さんが杉山先生の知り合い?」

「母とは全く連絡を取ってないから……父が亡くなった時に少し顔を見ただけ」


「そっか……それじゃあやっぱり、杉山先生とあみのお母さんが知り合いなのかしらね。本当に杉山先生とあみは無関係なのね?」

「少なくともナツミの父親ではないわ」


 なんて私は馬鹿なんだ、と思ったが、声は元に戻せない。こんな言い方をしたら、父親ではないなら何? と聞かれてしまう。


 真由美が愛実の言葉に少し黙る。やはり愛実の返事の中にある秘密の匂いに気が付いたのか?


「そっか……あみがナツミちゃんの父親を隠すから、誰なんだろうってずっと引っかかってたのよ。職業も年齢も言わない。きっと言えば判ってしまう人で、あみの存在が世間に知られると拙い人なんだって」

「うん。ごめんね、心配かけて……こんなに良くしてくれているのに、何も言えなくて」


「……あみ、ナツミちゃんの父親、わたし、判ったような気がする」

「え?」


「もし、わたしの考えがあっていたとしても言いふらしたりしない。だから教えて。ナツミちゃんの父親は大野おおの懐空かいあね?」

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