Salmon Rush Day ーピンクの鮭が遡上する川でー

春泥

一 ラッシュ氏はカフェに行った

 気持ちの良いお天気ですね、とウェイトレスが言ったのだった。

 彼はカフェに居る。大通りに面したテラス席で、食後のコーヒーを楽しんでいる。


 いや、別に楽しくはない。

 いや、楽しい。


 メインディッシュはサーモンだった。

 カフェは人の往来の活発な通りに面している。テラス席の端に陣取った客と、行き交う人々との間には、特に境界線があるわけではない。ただ歩道に侵食したテーブルや椅子、それに腰かけ小指を立てて冗談みたいに小さいコーヒーカップを口に運ぶ紳士淑女等を踏みつけて通るわけにもいかないので、歩行者は邪魔な障害物を迂回するしかない、そんな暗黙の了解の上に成立している脆弱な空間、いつ均衡が破られてもおかしくない危うい世界に彼は身を投じ、賑やかな通りに面したテラス席で、食後のコーヒーを楽しんでいる。


 いや、別に楽しくはない。

 いや、楽しい。


 メインディッシュはサーモンだった。

 彼はサーモンが嫌いだ。

 

 いや、特に嫌いなわけではない。

 いや、嫌いだ。


 人通りが激しい。通行客が彼に襲いかかるつもりであればほんの数歩踏み出せばよく、彼が店内に逃げ込もうとする場合は、途中に立ち塞がるテーブルを二卓に椅子三脚、蹴散らすか左右に避けるかしながら進まなければならない位置に彼は陣取っている。


 いや、彼は逃げたりしない。

 いや、逃げる。


 気持ちの良いお天気ですね、と彼女は言った。ラッシュさん。テラス席はいかがですか、と。

 断ってもよかったのだが、表の明るさのせいで薄く翳って見える店内には新聞――今時紙の新聞だ!――を広げた壮年男性が奥のテーブルに着いていて、彼を落ち着かない気分にさせた。眩しいぐらいの光に包まれたテラス席は、いかにも開放的で、その時の彼の気分に相応しく思えた。

 そうだな、そうしよう。と彼は言い、往来の人々との距離が近すぎる屋外のテーブルへと案内された。

 そうだな、そうしよう。と彼は言ったのだった。

 昨晩の女はいまひとつだった、と彼は思う。


 いや、なかなかだった。

 いや、よくなかった。


 酔っぱらっていたこともあり一体いくらで合意したのかが思い出せず、相応と思われる金額にいくらか上乗せして、事が済んだのにまだベッドにぐったりと横たわっている彼女に突き出したところ、彼女の眉がきりきりと吊り上がった。

 なんなの、これ

 まさか安すぎるということはないだろうに、と肩をすぼめる彼を尻目に、彼女はすばらしい手際の良さで衣服を身に着けると、ドアを叩きつけて出て行った。彼女は商売女ではなかったのだと気付くまでしばらくかかった。

 無料ならば、文句を言うのは筋違いだったと彼は少し反省した。


 いや、少しも反省はしていない。

 いや、反省した。


 女に金を払うか払わないかは大した問題ではなかった。

 昨晩彼は、ホテルのバーに足を運んだ。ホテルのバーというのはなるべく安全に高額な報酬を受け取りたい女性の仕事場になっていることが多いわけだし、彼は頭頂部が禿げあがり腹の突き出た自分が若い女にとって魅力的に映るのは、ある程度金を持っていると認識された場合に限ることを自覚していた。だから、若い女の方から声をかけてきた場合、金目当てなのだと考えるのが自然だ。

 しかし、それは少し自虐が過ぎたようだ、と彼は思う。

 夕べの女のことなどを思い出したのは、カフェで彼を給仕したのがウェイターではなくウェイトレスだったからだ。ただしウエイトレスの彼女はまだ二十代で、メリハリのある細身のボディを清潔感溢れる白黒の制服に短いエプロンで覆っているのに対し、昨日の女は、派手なドレスに豊満過ぎて垂れ気味な肉を無理に押し込んだ四十歳前後だった。それでも彼よりは二十ほども若いのだが。

 そうだ、そういう商売をする女にしては歳が行き過ぎていた、と彼は回想して思う。少なくとも、ホテルで客を引くなら、もっと若くなければ。一体なぜ自分はあの女を娼婦と決めつけたのか。

 前菜は甘くマリネした細切りの野菜と、特製ドレッシングをたっぷりかけたサラダに、チーズを添えた……なんだったかな、と彼は思い出そうとしばし集中して考えるが、結局諦めた。加齢による諸々の機能の衰えに抗うことは、とうの昔にやめていた。日常の些細な事柄や、時に取引相手の名前といった重要な情報まで度忘れするようになったが、それは薄くなった髪が透けて頭頂が見えるようになっていることを初めて発見した時ほどの衝撃と痛みをもたらさない。


 いや、もたらす。

 いや、もたらさない。


 諸々忘れていくというのは、どちらかといえばギフト、神からの恩寵ではないかと彼は考える。だが、オードブルの内容を忘れても、メインがサーモンだったことは覚えていた。

 彼はサーモンが嫌いだ。


 いや、特に好きではないというだけ。

 いや、嫌いだ。


 魚を魚臭いからという理由で嫌うのは理不尽だろうか。いや、臭みの強い獣肉を敬遠する人間は大勢いる。魚が臭いからという理由で嫌っても特に問題はないはずだ。

 しかし、つい十五分ほど前にこの大通りに面したテラスのテーブルに運ばれたサーモンを、彼は堪能した。それはひとえに、客の健康など一切気にしないと心に決めているらしいシェフによるバターをふんだんに使ったレシピによる功績である。彼の健康はこの一皿によって若干損なわれたが、夜軽めに食べることにすれば、大した問題ではない。彼は美食家ではなかったが、健康で長生きするために粗食を受け入れるタイプでもなかった。それでも、薄く黄色味を帯びた濃厚なソースの中に浮かぶ魚臭くないサーモンには、背徳的な罪深さを感じざるを得なかった。

 本日のランチはサーモンがお勧めです、と彼をテラスのテーブルに案内したウェイトレスは言った。

 彼女から受け取ったメニューを広げ、メニューを目で追いながら、彼は突如重い疲労に包み込まれたように感じた。コンスタントに住居を変える彼だが、通算すればこの国に住んでいた期間は長い。もはや第二(もしくは第三)の故郷ともいえるのだが、それでもその時の彼には、外国のカフェでメニューを読む行為が酷く億劫に感じられた。

 では、それを貰おう。彼はそう言ってメニューを閉じると、ウェイトレスに渡した。笑顔を残して去っていく彼女の後姿を眺め、ぴったりした黒いズボンに包まれた形のよい臀部に見とれていると、その男が目に止まった。一瞬、彼と目が合ったが、男の方がすぐに視線を逸らした。彼はしばらくその男を凝視した。先ほど彼が店内に入って来た時に新聞を広げていた男とは別人だった。もっと色が黒く、がっしりした体格で、若い。薄暗い店内で、浅黒い皮膚の男は背景に溶け込んでみえる。携帯電話を片手に熱心に見入っている、今風の若い男。


 いや、若くない。

 若くはないが、年寄りでもない。


 彼はいつもランチアワーで店が本格的に混雑し始める前、十一時頃昼食をとることにしていた。そして夕飯は四時から五時の間。その時間から早々と営業を始めている店は限られるので、ディナー時の選択肢はランチの時よりも狭まる。

 滞在場所を頻繁に変えるのと同様に、同じ店に頻繁に通いすぎないことが重要だった。ウェイター達に顔を覚えられないようにすること、彼が店の常連だなどと噂されないことが。

 とはいえ、今の時代は、たった一度きりの訪問でも、それが有名人ならば、たちまちSNSで宣伝され、世界中に知れ渡ってしまう。現在の彼は幸いにも忘れられた存在であるから、そのような心配はほぼなくなった。しかし、だからといって、手放しで安心することもできない。

 気持ちの良いお天気ですね、と彼女は言った。ラッシュさん、テラス席はいかがですか、と。

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