13 終わりなき世界
空が乳白色に染まり始め、周囲がほんのりと明るくなってきたにも関わらず、千秋は工場の床に俯せに寝転んだ自分の身体がどうなっているのかを認識することができなかった。首から下の輪郭が突然、ぼやけてしまったかのように曖昧に感じる。手足がまだ繋がっているのかさえ判然としなかった。ただ、背中越しに伝わっていた生温かい感触が急速に冷えていくのはわかった。あるいはそれは本当の温度の変化などではなく、単に何も感じなくなっただけかも知れない。同時に先程までの耐え難い痛みがいつの間にか消えていることにも気付く。それで自分はもうすぐ死ぬのだと千秋は理解した。
他人の死にはあれほど執心したのに、いざ自身の段になると、さほど興味が湧かないのは何故だろうと千秋は疑問に思った。もっと劇的なものを期待し過ぎていたのだろうか。実際には毎晩ベッドで眠りに就くのと大して違わない。朝になって目醒めるか目醒めないかの差があるだけだ。少なくとも千秋にはそう思えた。もっともそんな些末な感想が意識を占めたのはほんの数秒間で、すぐに当人の頭の中からは霧散してしまったが──。
ふと思い出して傍らにいたサチエはどうしているのかと、唯一そこだけは動かせた首を横に傾け、もし生きていれば一度くらいは優しくしてやろうと口を開きかける。
「あんたは逃げ──」
逃げろ、と言おうとして半ば声にならず、血の塊を吐き出しただけだったが、そこには誰も居ないことを目にする。どうやら自分が撃たれたのを尻目に、さっさと逃げ出した模様だ。サチエにしては素早い反応だったと言える。
(何だ、やればできるんじゃない)
これまでの愚鈍な態度は無害を装うための擬態に過ぎなかったのだろう。自分も朝田もすっかり欺かれていたというわけだ。いずれ飽きたら捨てる気だったのが、逆に見放されたのは自分の方だと知って千秋は無性に可笑しくなった。まるで何かの童謡に出てくる身の程知らずの御姫様のようだ。まあ、逃げたところで自由になったゾンビに追い回されるのが落ちであろうが。
(良いんじゃない? それでも生き延びられるものならせいぜい長生きしてみなさいよ)
若干の皮肉と些かの期待を込めて、千秋は胸の裡でそう嘯いた。それが十五歳を目前にした少女が最後に洩らした独語だった。
フル・オートで撃ち尽くした弾倉を手早く新しいものに取り換えて、智哉はもう一度マウントベース上のスコープに視線を戻した。標的だった少女の姿は意に反してそこにはなく、ガラスの砕け散った窓枠の原形だけが映る。撃たれた弾みで死角に倒れ込みでもしたのだろう。とはいえ、確かめるまでもなく致命傷を与えたという手応えはあった。そのうち死体は残っていれば検分するだろうが、今はそれよりもゾンビの様子の方が気になる。自らが下した裁定の結末を見届けるべく智哉は踊り場から身を乗り出して通りを眺めた。これまでとは打って変わって、ゾンビの動きが慌ただしくなっていた。掣肘が解かれ、本来の獲物を前にした行動に立ち返ったことは一目瞭然だ。やはり、あの少女がゾンビを操っているという推測は間違っていなかったと見える。こうなれば残りの連中は放って置いても差し支えあるまい。ゾンビが勝手に後始末をやってくれるに違いなく、わざわざ危険を冒してまで対峙する必要はなくなったということだ。だが、それは同じ災いが絵梨香の身にも降りかかることを意味する。そのことは防ぎようがないと自覚しつつも急いで彼女の下に向かおうと階段を下りかけた矢先、出し抜けにどこからか銃撃を受けた。咄嗟に手摺を背にしてその場にしゃがみ込む。狙われたのは上からのようで足許に着弾が集中する。そういえば屋上にも奴らの仲間が残っていたことを思い出し、自身の軽率さに軽く舌打ちする。やがては屋上にもゾンビは押し寄せるだろうが、さすがにこの短時間でというわけにはいかなかったようだ。あるいは既にそこまでの経路を封鎖したのかも知れない。それならそれで少しでもゾンビを惹き付けておくのに役立つので良しとしよう。ただ、発見されたことで身動きが取り辛くなったのは確かだ。幸いにして角度が悪いのか、それ以上撃ってくる様子はないものの、この上さらに二階で陣取っていた奴まで参戦してくるようなら窮地に立たされるのは避けられそうにない。絵梨香や旅館の窮状を考えれば一刻も早くこの場を立ち去りたかったが、それもままならないとなれば尚のこと焦りが募る。それ故に足許から狙われる心配が杞憂に済みそうだったのでホッとする。手摺の隙間から慎重に下の階を覗き込んだところ、室内を活発に彷徨き回るゾンビの姿が垣間見えたからだ。僅かな間していた銃声も今はもう鳴り止んでいる。どうやら二階に居た奴はゾンビに無力化されたものと見て間違いなさそうだ。
(屋上の男も放って置けばいずれそうなるだろう。問題はそれまで悠長に待っていられないということか)
かといってまともに撃ち合う気もなかったので、上空に向けて出鱈目に三連射程の牽制をしておいて、怯んだ隙に一気に階段を駆け下りるという選択をする。それはどうやら狙い通りにいったらしく、反撃を受けることもなく下まで辿り着いた。あとは屋上からの射線に注意して、建物の陰など死角を伝って行けば良い。
そのようにして比較的見通しの良い場所まで出ると、智哉は周囲を窺った。連中が立て籠もっていた工場の一階は、ゾンビが殺到した証として出入口付近の窓ガラスが全部割られ、道路側も似たような塩梅だった。さらにその先に視線を移すと、交差点の向こうで車体にもたれるようにして横たわる人影を目撃した。絵梨香であることは疑いようがない。眠っているみたいにも見えるが、周辺のゾンビが何の反応も示していないことから、既に事切れているのは明白だった。手には拳銃らしきものが握られているので、逃げ切れないと悟って自身による幕引きを図ったのだろう。間に合わなかった、というのは少々語弊のある悔恨だ。どの途、助け出す手段はなかったのだから。だからといって、それが慰めにならないこともまた事実である。唯一の救いは彼女がゾンビにならずに済んだという程度だが、それすら虚しい言い訳に過ぎない。
(結局、絵梨香には助けられてばかりだったな)
せめて遺体の回収くらいはしてやりたいが、直ちには不可能だった。このまま放置しておいてゾンビに喰い散らかされるのを見るのは忍びない。だが、今は一刻も早く宿に戻って生きている者達の安全確保を優先すべきだろう。
絵梨香を置き去りにすることに大いに後ろ髪を引かれつつ、智哉は引き返すことを決意する。その道すがら宿の現状を把握しようと無線に手をかけた。
「岩永だ。聞こえていたら誰か応答してくれ」
仲間が無事であることを祈りながら、そう呼びかける。すると、間髪を入れずに返事があった。聞き慣れたその声に智哉は我知らず安堵する。
「美鈴です。聞こえています。……そちらは御無事ですか?」
無事だから連絡できていると言えそうだが、それを指摘するのは野暮というものだろう。向こうもわかった上で訊ねてきているに相違ないのだから。だが、そう思ったにも関わらず智哉は返答に一瞬窮した。絵梨香の死を伝えるべきかどうか迷ったのだ。もっとも隠したところですぐに知れることだし、下手に生存を誤認させてあらぬ危険を招く恐れがないとも限らない。ここは正確に情報を共有すべきだと判断して、智哉はできるだけ感情を押し殺した声で続けた。
「俺は大丈夫だ。心配ない。千秋と思われる少女も排除した。予想通りゾンビの行動は元に戻った。残りの連中は放置してある。ゾンビを御せられなくなった以上、どうせこちらが手出ししなくても助からないだろうからな。ただ一つ、残念な知らせがある。絵梨香が死んだ」
淡々と告げたにも関わらず、その瞬間、美鈴が言葉を詰まらせたのが無線機越しでも智哉には伝わった。理由は訊くまでもない。様々な逆境において絵梨香ほど身近にいて心強く感じさせる存在は他になかったからである。それはゾンビを脅威としない智哉を以てしてもまったくの同感だった。今はまだ彼女を失った大きさを真の意味で理解できているとは言い難いが、それでも尚、自分が如何に絵梨香を頼りにしていたか痛感せざるを得ない。『失くしてみて初めて本当の価値に気付く』とは、たぶん真実を言い当てているのだろう。それだけに容易に受け止められるものではなかった。
とはいうものの、落ち込んでばかりで時間を浪費していられないのも確かだった。それでは何のために彼女が犠牲になり、遺体の回収を後回しにしたのかわからなくなる。
そうした思いが通じたわけではないだろうが、美鈴の方から沈黙を破り、意外なことを口にした。
「やっぱり、そうなってしまったんですね。絵梨香さんが岩永さんを助けに行くと言い出した時、無謀過ぎると反対しようとしたんです。でも、絵梨香さんは何かを決意したような表情をしていて止めることができなかった……いいえ、本心はそれだけじゃありません。岩永さんが無事なら絵梨香さんが危ない目に遭っても構わないと思ったんです。だから強く引き留めなかった。私は卑怯な人間です。自分が望むことのためなら誰かが犠牲になっても良いと思っている。私が絵梨香さんを見殺しにしたようなものです」
それは違うぞ、と智哉は強い口調で言った。言わざるを得なかった。
「いいか、絵梨香は別に自分が犠牲になろうとしたわけじゃないはずだ。彼女なりに勝算があっての行動だったんだと俺は思う。結果的に命を落とすことにはなったが、それはその場に残っていても変わらなかったかも知れない。確実に安全で居られる場所なんてないんだからな。それはお前達だって同じだ。思い通りの結末にならなかったからと言って自己犠牲の哀れな被害者扱いするのは止せ。必死で生き残ろうと策を巡らせた相手に失礼だ。もっと上手い方法があったんじゃないかなんて後からなら幾らでも言えるさ。俺達は映画やドラマの主人公じゃないんだ。何をきっかけに命を落とすかなんて誰も知りようがない。今回はたまたま絵梨香のおかげで俺は命拾いして、そちらの救援に向かえるようになった。だからと言ってお前達が助かると決まったわけじゃない。ただ、彼女がくれた機会を無駄にしないためにも俺は救助に全力を尽くす。今はっきりしているのはそれだけだ。だからお前も絵梨香のことを思うなら最後まで諦めずに自分の意思を貫け。悲しむにしろ後悔するにしろ感謝するにしろ、全ては生き延びてこそだ。わかったなら状況を聞かせてくれ。嘆いている暇なんてないぞ」
智哉がそう言うと、三秒ほどをかけて気持ちを整理し終えたらしい美鈴が、落ち着きを取り戻した口調で求めに応じた。
「今現在、私達は一階を放棄して全員が二階以上に避難しています。その際、一部で発生していた火災も消し止めることができたので今は問題になっていません。階段は屋内に侵入された場合の手筈通り、防護扉を下ろして封鎖しました。扉付近に何体かのゾンビがいますが、直ちに破られる心配はないと思います。ただ、建物の外壁をよじ登って侵入を試みようとするゾンビがいます。幸いそれほどの数ではないので、窓際に人を配置して撃退していますが、いつまで持ち堪えられるかはわかりません。これからどうしたら良いでしょうか?」
「防げているならそのまま続けろ。できるだけ急いで戻る。いざとなったら……自分と妹の身を護ることに専念するんだ。他の者に構うな。みんなにもそう言え。各々が自分のことだけ気にかけろと」
そんなことしか指図できない己がもどかしかった。
美鈴の話を聞いた限りでは、即座にゾンビを排除するのは困難そうだ。こうなれば宿の放棄も視野に入れるべきかも知れない。念のため、いつでも脱出できるように改造冷凍車は玄関脇に常時スタンバイしてある。乗り込むのに多少の危険を伴うだろうが、この状況下ではその程度のリスクは甘受せざるを得まい。さらに全員が無事に乗車できたとしても行く宛てがあるわけではなかった。とりあえずこの場を離れることを先決としたに過ぎないのだ。あとのことは出たとこ勝負とするしかないのである。
一瞬のうちにそれだけを考えて歩みを早めようとした智哉は、ふと背後に視線を感じて何気なく振り向こうとした。直後にその方向から巨大なハンマーで殴られたような衝撃を感じて宙を舞う。全身が粉々に砕け散ったかに思えた。吹き飛ばされる寸前に智哉が見たのは、いつからそこにいたのかまったく謎の、恐らく屋上に潜んでいた奴らの一員が、既にゾンビ化した姿ながら手にした何かのスイッチらしきものを押す仕草だった。その瞳に明確な憎悪の光を汲み取った驚きを智哉が思慮する間もなく、爆風に打ちのめされ、瞬く間に意識が遠のく。目の前が暗転した。
夢を見ていた。一時期は毎夜、のべつ幕無しに現れては智哉を苦しめていた涼子の夢だった。その都度、細部の違いこそあるものの、大方は彼女が生きていて二人で恙なく暮らしているという内容に大差はない。夢の中の出来事が幸福であればあるほど目醒めた時の喪失感は大きく、こんなことが続けばいつか発狂するのではないかとさえ思えたものだ。そうした夢も女遊びを始めた頃から次第に見なくなって久しい。暫くぶりに味わう愁傷に、長い間その感覚を忘れていたことに気付かされる。こんな絶望を繰り返すくらいなら、いっそ世界など滅んでしまえと本気で願っていたあの頃の自分──。
(ああ、だからなのか……)
それが何に対してなのか、誰に対してなのかも釈然としないまま智哉はその呟きを昏睡する心中で洩らした。
次に意識を回復した時、自分が何者かから呼びかけられていることがわかった。まだ頭の中が混沌とする中、初めは無線かと思えたその声が意外と生々しいことに気付いて目を開けた途端、視界を覆うように美鈴の顔が飛び込んできて驚く。一瞬で相手を見て取ったように、美鈴は化学防護服を着ていなかった。その辺りに脱いだ形跡もない。いつの間に安全圏に連れ込まれたのかと周りを見回して智哉は更なる驚愕の淵に立たされた。
「──どういうことだ?」
気を失う直前の景色とまったく変わっていない。あれからどれほどの時間が経ったかは不明だが、ゾンビがいなくなったわけでないのはひと目で確認できた。今も数メートルと離れていないところを悠然とした足取りで闊歩している。自分が無視されるだけならともかく、美鈴がここにいて無事で済むはずがない。そうであるにも関わらずゾンビに襲いかかる様子がないことを智哉自身がやっと悟った。
「まさか……噛まれたのか?」
そのようには見えないが、ゾンビ化の進行度合いが傷の程度によって違うことは承知している。既に噛まれていたなら獲物と認知されないことにも納得がいく。だが、それはもはや手遅れということに他ならない。
「安心してください。どこも噛まれたりしていません。私がゾンビに襲われないのはたぶん岩永さんと同種の理由からです。もっとも気付いたのは今さっきのことなんですけど」
美鈴の説明は到底腑に落ちないものだった。何故なら今まで幾度となくゾンビに狙われる場面に遭遇しているからだ。あれが別の要因だったとはとても思えない。少なくともこの前までは他者と同じくゾンビの標的だったはずだ。美鈴の言う通りならある時突然、襲われなくなるということになるが……。
「俄かには信じられないな。俺に心配をかけまいと嘘を吐いているんじゃないだろうな。本当に何ともないのか? 夢の続きと言われた方がまだ信憑性があるぞ」
「夢じゃありませんよ。戸惑っているのは私もです。宿でゾンビを防いでいるうちに私だけが無視されているような違和感に気付いて。それで思い切って試してみたら、本当にゾンビに襲われなくなっていました」
美鈴は悪戯を成功させたような気軽さでそう言うが、間違っていたら命に関わることなのだ。智哉は心底呆れた。だが、美鈴はそれよりも別のことを気に病んでいた。
「もっと早くにそのことがわかっていればみすみす絵梨香さんを死なせずに済んだかも知れないのに。それが悔やんでも悔やみきれません。でも、そうと知れたおかげでみんなを避難させることができました。今は冷凍車に乗り込んで待機して貰っています。宿の方はもう長くは保ちそうになかったので。相談無しに行ったのは連絡が付かなかったから仕方がないですよね? あとは交信の途絶えた岩永さんの安否だけでした。それで捜しに来たんですけど、無事に見つかって良かった」
口振りからするとゾンビに襲われなくなった理由に心当たりはありそうだったが、今はそれを説明している時でも、追及する場合でもないということなのだろう。そう理解して智哉は別の言葉を投げかけた。
「これなら俺抜きでも充分やっていけそうだな」
別段、深い意味はなかった。単なる思い付きで口にしただけだ。だが、美鈴は思いの外、深刻に受け止めたようで、そんなことはない、と強い語調で否定した。
「それに私の体質はたぶん一時的なものに過ぎないでしょうから……」
その意味を掴みかねて智哉が疑問を差し挟もうとするより早く、美鈴が畳みかけるように言った。
「それよりも冷凍車に残して来たみんなが心配です。私は急いでこの場を離れるべきだと思いますが、構いませんか?」
智哉は無言で頷く。どこに行く、とも、誰が運転する、とも訊かなかった。
「立てますか?」
美鈴が肩を貸そうと差し出した手を、しかし智哉は取らなかった。照れたわけでも美鈴の対応が不満だったわけでもない。どうしたのかと訝しげにこちらに向けた美鈴の視線に応えるべく、智哉はわけを話した。
「さっきから下半身の感覚がないんだ。両脚ともまったく動かせない。自力では起き上がれそうにないから、どうなっているのか代わりに確かめてくれないか?」
そう話すと、美鈴は大きく目を見開き、ショックを受けた様子で口許を両手で覆った。それでもすぐに智哉の腰から下へと素早く目線を走らせ、破れたズボンを捲ってみたり、指先で軽く太腿に触れたりしながら自らにも言い聞かせるように告げた。
「ざっくりと見た限りでは軽い火傷や擦り傷がある程度で大きな外傷は見当たりません。血も大して出ていませんし、骨折もしていないようです。痛みはないんですよね? 一体、何があったんですか?」
残っていた爆弾ゾンビの爆発に近くで巻き込まれた、とだけ智哉は答えた。
「そうだったんですか。私ではわからないので日奈子さんに訊いてみます。ちょっと待っててください」
美鈴はそう言うなり、視界の外へと移動した。少し経つと無線でやり取りする声が聞こえてくる。やがて眼前に舞い戻った美鈴が、やや蒼醒めた表情で口を開いた。
「……日奈子さんが言うには、ひょっとしたら脊髄損傷を起こしているかも知れないとのことでした。確定するには幾つかのテストがいるそうですが、悪化させる恐れがあるのでここではやらない方が良いそうです。もしそうなら動かすのは危険だと言われました。きちんと固定した状態で運ばないと──」
構わないから引きずって行け、と智哉は美鈴の話を遮るように口を挟んだ。それは智哉が薄々予期していた回答に違いなかったからだ。
「どうせ待っていても助けは来ないんだ。時間の猶予もあまりないぞ。冷凍車の荷室が酸欠状態になる前にとりあえずの落ち着き先を見つける必要がある。みんなを呼吸困難で死なせたくはないだろう? それとも俺を置いて行くかだ。他に選択の余地はない」
「置いて行くなんてできません。それじゃあ、何のために捜しに来たのかわからなくなります。でも、無理に動かしたりしたら……」
「後遺症が残って半身不随になるとでも言いたいんだろ。どの途、適切な治療を受けられたとしても元通りの身体に戻るという保証はないんだ。今は痛みを感じないからこうして普通に話せているが、それもいつまで続くかはわからん。だから今のうちに言っておく。この先の行動は全てお前が判断しろ。その結果、俺がどうなろうと恨んだりしない。足手纏いだと思えば捨てて行け。ただし……お前と妹だけは必ず生き残れよ。それで誰かを犠牲にしたとしてもお前が気に病むことはない。悪いのは責任の一切を押し付けた俺にある。だから遠慮せずに振る舞え」
「……わかりました。わかりましたからもう喋らないで。呼吸が乱れてきています」
それだけ言い残すと美鈴はどこかに姿を消した。早速、言い付けを守って捨てられたかと思ったがそうではなく、暫くして戻って来たその手にはどこで見つけたのか卓球台ほどの大きさのブルーシートが握られていた。
「これに載せて運びます。少しの間だけですから我慢してください。私一人では岩永さんを抱え切れないので、移す際には転がすことになりますけど文句は言いっこ無しですよ」
その宣言通り、智哉は丸まった絨毯の如く地面を転がされ、ブルーシートにくるまれた。肉体的な苦痛を特に感じなかったのが、良いのか悪いのかは判断が付かない。そのブルーシートを引きずる美鈴の足取りは、ゆっくりとではあるが着実に一歩一歩前へと進む力強さを感じさせた。当然、寝たままである智哉にそれを俯瞰で捉えることはできない。ただ、見上げた空の風景が少しずつ変わっていくことで実感するのみだ。
そのうち、猛烈な睡魔に襲われて智哉はウトウトし出した。不明瞭な思考が智哉に愚にも付かない疑問を抱かせる。このまま自分が死んだらどうなるのか、と。この世界において死んだ人間が辿る運命は二通りしかない。ゾンビに噛まれて奴らの一員になるか、感染することなく普通に死ぬかだ。これまでは皆と同じように過ごせていたから自分が死んでも当然、ゾンビにはならないと思い込んでいた。だが、果たして本当にそうだろうか? この時、智哉は自身が如何にゾンビに襲われなくなったのかを正確に思い返していた。自分は発症しなかったというだけで、ゾンビに噛まれたのは厳然たる事実なのである。そんな人間が死後に辿る道は誰にも予想が付くまい。もしゾンビになって無警戒の美鈴達を襲う羽目になったら──その考えに思い至って智哉は居ても立ってもいられなくなった。今のうちに警告しておくべきだと口を開きかけた時、呼吸が苦しくなっていることに気付いた。吐き出す息が荒い。慌てて美鈴に助けを求めようとするが、喉から洩れるのは声にならない呻きだけだ。いつの間にか周囲は暗闇に包まれており、星を塗り潰した夜空のような空間で唯一つ浮かび上がるスポットライトに似た輝きが瞼の裏側を突き刺すように点滅し始める。それは心臓の鼓動と同期しているらしく、徐々に速度と激しさを増していく。漆黒から光溢れんばかりの明るさへ。そうして視界がすっかりと白け切ってしまった頃、固く冷たい台座のようなものに横たえられたことが辛うじてわかった。傍らで誰かの話し声が聞こえる。それも一人や二人ではないようだ。大勢の呼びかけを煩わしい背後の雑音として聞き流しながら、智哉は自分が沼の底のような何もない世界に落ちていくのを夢見た。どこまでも深く、果てしなく、留まることを知らず、あたかも生まれ落ちる直前のように。
やがて、それすら見なくなった。
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