第二部 戦闘篇
1 自衛隊
「部隊は当該地域における警備行動を速やかに実施し、予測される暴徒の襲撃からこれを防護せよ」
それが彼の与えられた当初の作戦命令だった。無論、下級隊員である彼に行動の全容が知らされるはずもなく、その上意下達の理不尽さも彼が所属する組織、自衛隊の職責の一部である以上、甘んじて受け容れざるを得ないのだ。もっとも昨日辺りからニュース番組を賑わせている騒動を知らぬ者はいないはずで、それに絡んだ命令であることは容易に想像が付いた。早々に治安出動待機命令が出されたことからも隊員達の間では右派寄りで知られる首相が自衛隊創設以来初となる治安出動発令という既成事実を作りたがっているのではないか、と実しやかに囁かれている。どちらにしても先行した任務になることは間違いなく、水野武臣一等陸尉を中隊長とする彼と彼の所属する旧中央即応集団──現在は再編された陸上総隊直轄の普通科中隊約百五十名は大型バス四台に分乗し、九六WAPCこと九六式装輪装甲車や
そこから数えて三十日が経過した現在。この時点で常備自衛官約二十四万人に即応予備自衛官、予備自衛官、予備自衛官補併せて約五万人を加えた陸・海・空の各自衛隊は実質その三分の二の兵力を失っていた。内訳は戦闘による死亡や行方不明が最も多く全体の約八割を占め、残る二割は現場放棄や召集拒否といった敵前逃亡に類する行為に当たる。殉職者は当然のことながら陸上自衛隊の中でも他国の軍隊における歩兵に相当する職種(自衛隊では兵科ではなくこう呼称される)の普通科隊員が主たるものであるが、他にも海上、および航空自衛隊内で多数の犠牲者を出したことが特筆される。この理由としては海上自衛隊の場合、災禍発生当初、知識の乏しい中での護衛艦等による市民の避難及び医療設備による治療が行われたことにより、艦内で感染が蔓延。そのまま艦単位での損失に繋がったことが挙げられる。一方、航空自衛隊では陸上自衛隊駐屯地に比べて基地防御が手薄だったことが災いし、施設内にゾンビの侵入を許したことで被害の拡大を招く事態が数多く見られた。二〇〇一年の九・一一米同時多発テロ以降、航空自衛隊内でも関連施設へのテロやゲリラ攻撃が懸念されており、その対応策として平成二十三年に茨城県の百里基地に「基地警備教導隊」という航空総隊隷下の直轄部隊が置かれた。二等空佐の隊長以下四十名程度からなるこの隊は各基地を巡回し、基地毎に防衛の問題点を浮き彫りにすると共に基地警備隊の指導を行っていたが、発足間もないことや規模の小ささから充分な成果を上げらないまま今回の事態に直面したことになる。ついでに言うと、航空自衛隊とはいえ実際に航空機やヘリを操縦するパイロットはごく一部であり、大半は整備補給や基地業務に携わる地上要員が占める。彼らの地上戦での錬度はもちろん戦闘専門職種と比べるべくもない。
こうした中で比較的損害が軽微だったのは戦車を中心とする装甲車両で構成される機甲科と、普通科の中でも
このような状況は一九六〇年代から七〇年代にかけてアメリカが経験したヴェトナム戦争に酷似していた。陸軍特殊部隊グリーン・ベレーや世界最強と謳われたアメリカ海兵隊、当時としては近代兵器に当たるジェット戦闘機や攻撃ヘリなどを次々と投入したにも関わらず、人民の中に紛れ込みそれを盾とするヴェトコンの戦術に翻弄され続けた。結果的にアメリカ軍は味方以外の動くものは全て敵という焦土作戦に打って出たが、これも大した成果は上げられず一九七三年のパリ協定を経て時のリチャード・ニクソン大統領はヴェトナムから実質的な敗北宣言である撤退を余儀なくされたことは歴史の教科書が教える通りだ。仮にアメリカ軍のやり方に効果があったとしても、言うまでもなく自衛隊にそのような民間人に犠牲を強いる非人道的な作戦行動が取れるはずもない。結果、年間五兆円に達する経費に支えられた国内最大の防衛組織はその能力を如何なく発揮する機会のないまま今や満身創痍の状態に陥っていた。それにも関わらず、早くから指揮系統が混乱し組織立った統制が取れずに壊滅した警察機構に対して、自衛隊は未だに闘う意志とその機能を完全には失っていなかったのである。
遅れに遅れていた補給物資が漸く届く、という知らせを受けて、部隊内に久しぶりに活気が戻るのがわかった。武井絵梨香は立場上、若い陸士達のように手放しで喜ぶというわけにはいかなかったが、沈んでいた空気が明るくなるのを見るのはやはり悪い気がするものではない。
「やあ、軍曹。やっとお目当てのものが到着するそうだね」
約一ヶ月の駐留任務の間にすっかり顔馴染みとなった年配の職員がそう声をかけてくる。絵梨香はその言葉に苦笑しながら答えた。
「だから軍曹じゃなく陸曹だって何度も言ってるじゃないですか。自衛隊にそんな階級はありません」
まあ、この職員がそう呼ぶことも理解できないわけではない。外の人間からすれば軍曹も陸曹もさほど変わりはないのだろう。現に今も、そうだった、悪い悪い、と頭を掻いているがどうせ明日になればきれいさっぱり忘れてまた同じことを繰り返すに違いない。
ここは国内に凡そ六千五百ヶ所ある変電所の一つで、扱う電圧の区分から超高圧変電所と呼ばれる施設だ。通常、発電所で作られた電気は送電ロスを抑えるために五十万ボルトや二十七万五千ボルトといった非常に高い電圧をかけて送られる。これを十五・四万ボルトに変電するのが超高圧変電所で、そこからさらに一次変電所、中間変電所、配電用変電所などを経て一般家庭に届く頃には百ボルトまで変圧されることになる。実は国内の変電所は九十九パーセント近くまでが無人化されており、技術員が常駐し監視している施設はここを含めごく少数しかない。それだけに重要な設備であり、仮にこの変電所が停止すれば三県に跨る電力会社管内の約六十パーセントが停電すると説明を受けていた。そうならないようにするのが絵梨香達の使命である。当初の予定では二個中隊規模凡そ二百四十名で警備に当たる手筈だったが、度重なるゾンビの襲来で、現在はその数を半分まで減らしていた。各地に散った他の部隊も似たような有様で増員もままならず、生き残った隊員を三十名前後からなる四つの小隊に急遽再編成することで何とか急場を凌いでいる。その中で絵梨香が所属するのは倉橋健吾二等陸尉が率いる小銃小隊だ。本来、
建物内の階段を上がりきったところで屋上に通じるドアを開けて外に出ると、いつもの殺風景な光景が絵梨香の視界に飛び込んできた。元々はコンクリートが向き出しの何の変哲もない場所であるが、今は敷地内で最も見晴らしの良いことから昼夜を問わず監視に使われている。そのため四方に照明と暗視装置付きの固定双眼鏡を配し、一部にはフェンスの前に土嚢を積んでミニミ軽機関銃が据えられていた。ここで今から八時間後の午後十時まで周辺を哨戒するのが倉橋小隊における武井班(分隊)こと絵梨香達の役割だった。
「弾なんか跳んでこないのに、掩体なんて必要なんですかね?」
絵梨香の隣に並んだ若い隊員の一人である井上二等陸士が積み上げられた土嚢を前にしてそう疑問の声を投げかけた。確かに相手は普段、自分達が想定しているような他国の兵士ではなく、映画や漫画で見かける動く死体のゾンビだ。銃を撃ってくるとは思えないし、屋上なので障害物で足止めをする必要もない。井上の疑問はもっともと言えるが、上官としては、さあ、で済ませるわけにもいかなかった。
「ゾンビは撃たなくても味方は撃つのよ。誤射や跳弾がないとも限らないでしょう。それを防ぐためだと思いなさい」
軽く考えた末にそう答える。もちろん、まったくの出鱈目だ。実際は日頃の習い性で何も考えずに構築したに過ぎないだろうと踏んでいる。それでも疑問を呈した井上は、そういうことか、と素直に納得した様子で頷いたのでそれ以上は考えないことにした。
「わかったならさっさと持ち場に着く」
絵梨香は部下である隊員達に発破をかけ、自分は交代する班で最上位である顔見知りの二等陸曹と二言三言引継ぎの言葉を交わした後、胸に提げた小型の通信ボックスを操作した。これは従来、現場指揮官のみが携行することの多かった野外無線機に代わり、今回全員に配備されることになったアドホックネットワーク(個々の端末が中継器を兼ねて通話可能範囲を拡げるシステム)対応のウェアラブル無線機と呼ばれる通信端末だ。
「屋上班より
送受信切り替え時のザッというテールノイズに続いて、了解した、という倉橋の声が八八式鉄帽、テッパチと呼ばれるヘルメットに装着されたヘッドセットから響く。鉄帽とは言うものの、実際はケブラーを使った
元よりそれを志していたわけではない。新隊員教育の時にたまたま射撃の優秀さが教官の目に留まり自衛隊体育学校を薦められ、ライフル射撃でオリンピックの出場を目指すことになったのだ。ちなみに先程交代した二曹とは体育学校時代の同期で、彼も狙撃手であり、元バイアスロンの選手だった。残念ながら絵梨香は学内での選考争いに破れてオリンピック出場はならなかったものの、その腕を買われて本部の狙撃班に加わることになった。
そんな人に代わって敷地内に点在するのは無人の戦闘車両である。八二式指揮通信車を筆頭に、八七式偵察警戒車、九六式装輪装甲車、
「ところが、そうでもないみたいですよ」
「? どういうこと?」
「そういえば空自の連中、どうやら本気でバラマキ作戦やるつもりのようですよ」
「バラマキって、例の空中投下?」
「ええ。活躍の場がなくて連中も焦ってましたからね」
絵梨香も噂だけなら聞いたことがある。殆ど活動らしい活動もなく甚大な被害を蒙った航空自衛隊が、何とか挽回の機会を得るため起死回生の策として打ち出した作戦だと言う。その内容は、要するに非常食や支援物資をひとまとめにして
「リベレーターってことにならなきゃいいけど……」
「何ですか、それ?」
リベレーターとは第二次世界大戦中にナチス・ドイツ占領下にあったヨーロッパの
「味方殺しの武器ね……そんなのがあったんですか。さすがに空自では銃は入れないみたいですけど。どうせなら民間人にも使わせりゃいいのに」
その言葉に絵梨香は苦笑いを噛み殺すしかなかった。木村にしても本気で言っているわけではないだろう。銃社会のアメリカならいざ知らず、大半の者が銃に触れたこともない日本でそんなことをすればどんな事故が起こるかプロである彼が想像できないはずがないからだ。
その事情通の木村陸士長が一〇式の車長である的場二曹についても何やら知っていることがあるとなれば気にならないわけがなかった。聞いたところによると、と彼は話の先を続けた。
「積んでいるのは新型の徹甲弾ばかりらしくて、対人っていうか対ゾンビには不向きな装備みたいです。上が戦車戦にしか興味がなくて対人仕様の多目的弾の開発が後回しにされているって噂はどうやら本当だったみたいですね」
「キャニスター弾(対人用散弾型砲弾)はどうなの?」
「ケースショット(キャニスター弾の別名)を陸自は採用してないですよ。九〇式の
「なら、車載機銃か。キャリバー50と七四式?」
「ええ、そうです。でも、殆ど使ってないらしいです」
「どうして? 民間人を巻き込まないため?」
「それもあるみたいですが……それよりも轢き殺した方が手っ取り早いからって。あいつらどこまでもまとわりついてきますからね。振り落としてミンチにする方が楽だったそうです。まあ、機関銃手が車外に出るのもヤバイですから。RWS(=Remote Weapon System、遠隔操作式無人銃架)でもあれば別でしょうけど。おかげでオカズ缶が喰えなくなったって嘆いてました」
オカズ缶とは自衛隊で支給される
「そういうことがあって機甲科は一時廃業したみたいで……っと、一匹発見。左奥の林。距離約二百」
話しながらでも双眼鏡から目を離すことのなかった木村がそう告げる。リラックスしたように見えても職務に手を抜くような人間でないことは先刻承知済みだ。だからこそ、この程度の会話なら容認できるのである。もっとも規律に厳しい村井辺りならそれでも許さないだろう。絵梨香の方針は、各々がやるべきことさえやっていれば細かいことは気にしない、だ。その期待通りの働きをした木村が告げた方向へ銃口ごと視線を転じると、敷地の左手にある林の奥に三、四十代と思われる男のゾンビを確認する。
「こっちに向かって来るみたいね」
「そうですね。どうしますか?」
木村がそう訊ねるのには理由があった。この距離で絵梨香の狙撃の技量なら頭部を撃ち抜くのはわけないが、既に判明している事実として死体を作るとそれを目当てに他のゾンビが集まることが懸念された。かといって、このまま見逃せば変電所内に侵入してくる恐れがある。それにこの後に予定されていることを考えると、今、一個の死体が増えたところで大差はないと思われた。そこまでのことを瞬時に計算して絵梨香は周囲に他のゾンビの姿がないことを確認し、木村に死体処理班を要請するよう命じる。すると、後方で二人の会話を聞いていたらしいミニミ軽機関銃手の井上二士から声がかかった。
「排除するなら自分が撃ってもいいですか?」
機関銃での精密射撃がまったく不可能なわけではない。実際、狙撃銃では届かない超長距離狙撃を重機関銃の射程を活かして行われた例もあるくらいだ。それに陸上自衛隊では元々六四式小銃や六二式機関銃にスコープを着けて
「ミニミじゃ弾の無駄。こっちに任せて」
そう答えると、絵梨香は床にどっかりと腰を下ろした。低く積んだ土嚢を台座にして銃を構えると、立てた両膝に肘を置いて左右の腕の支えにする。その際、右手はグリップに軽く添える程度にしておく。隣では木村が、死体処理班の準備ができた旨を告げた。
狙撃とは簡単に言えば、弾丸が飛ぶ軌道と目標の位置を一致させることだ。これは近距離だろうが長距離だろうが変わりはない。撃ち手に関わるあらゆる装備と技術はそのためだけにあると言っても過言ではなかった。ただし、弾は直線的に飛ぶわけではなく、空気抵抗と重力の影響を受けて曲がる。つまり、撃ち出された銃弾は銃身がやや上向きに設定されていることから最初浅い角度で高度を上げ、次第に空気抵抗によって失速して地面に落下していく。この放物線はさらに銃の癖や状態、弾の種類や火薬の調合、風、湿度、気圧などの気象条件、撃ち手のバイオリズム、地球の自転によるコリオリ力といったものにも左右されるので、常に一定ではない。また、狙いにおいても銃口から直に覗くわけではないため、銃身の軸線と照準器を通した視線には必ずズレが生じる。そのズレを調整するのが零点規正やゼロイングと呼ばれる作業だが、これは任意の距離で誤差が最小になるよう照準を合わせるもので、例えば絵梨香の持つM24では三百メートルでゼロインしているため、それより距離が短い今のような場合、着弾点はやや上方に逸れることになる。遠くになればその逆だ。狙撃手はこうした様々な条件を考慮した上で正確な射撃ポイントを選定することに心血を注ぐわけだが、絵梨香に言わせればそれ以外に存在価値がないのが自分達ということになる。何故なら狙いを定めた後はあらゆる意思や思考は射撃を阻害する要素にしかならないためだ。それは撃つという行為そのものも例外ではない。一般に正しい射撃姿勢と言われるものは、まずストックのパット(床尾)をしっかりと鎖骨から脇の下にかけての筋肉の窪みに押し当てて脇を締め固定し、次にチークピースという部分に頬を密着させて、パットの喰い込みを意識しながら顔を沈み込ませる。この時、ストックがずれるようならパットの押し付けが甘いということだ。左手はフォアエンドやハンドガードを支えるのだが、この際、肘がなるべく機関部の下に来るようにして開き過ぎないように注意する。長時間の姿勢維持で疲れないコツは筋肉ではなく、骨と骨の組み合わせで支えるように意識すること。この状態で体の力を抜き、照準器が自然に覗ける位置に来ることが理想的な形だ。覗けていなければ銃の調整が合っていないことになる。要は余分な力を入れずに銃を固定でき、それを長く続けられる姿勢がベストということで、これは
そして何よりも重要なことは、余分な力を一切銃に伝えないということだ。寒夜に霜が降る如く、とは如何に静かに引き金を絞るかを形容した古くから狙撃手の間に伝わる言葉だが、これこそが至難の業と言えよう。今まさに絵梨香はそれを実践すべくターゲットをスコープ内に捉え、ボルトを引いて薬室内に初弾を押し込み、ボルトハンドルのすぐ後ろにあるセーフティーを
「命中確認」
スポッティング・スコープを覗いていた観測手の木村が、目標への着弾を認めて口にした。さすがに拍手こそ起こらないが、おお、という感嘆の吐息が周囲から洩れ聞こえる。地上では早速、死体処理を担当する班がたった今、絵梨香が斃したゾンビに向かっていた。彼らが素早く死体にガソリンを撒いて火をかけることで、他のゾンビの誘引を防ぐのである。その作業が完了するまで見守って無事建物内に戻るのを確認したのち、絵梨香はスコープから顔を上げた。セーフティーの位置をSに戻すと、ボルトハンドルを持ち上げてロックを解除しボルトを目一杯後ろまで引き出す。すると、撃ち終わった薬莢はエキストラクターという爪に引っ掛けられて抜き出され、エジェクターという突起にぶつかり跳ね飛ばされることで、エジェクションポートから排莢される。それと同時に空となった
そうした一連の動作の合間に、誰かが口にした、さすがは姐さん、という言葉を耳ざとく聞き付けた絵梨香は、声がした方を振り返るとドスを利かせて言った。
「その呼び方、止めろって言ったはずだけど。私はまだ二十六で、姐さんなんて呼ばれる歳じゃない。今度言ったら後ろ弾喰らわすわよ」
慌てて隊員達は視線を逸らして、周辺の監視に戻る。やれやれ、と溜め息をつく絵梨香に向かって、報告を終えた木村が笑いながら話しかけた。
「二十六なら若い奴らにとっては充分に姐さんですよ」
若い奴ら、と言われては絵梨香も返す言葉がない。そういう木村もまだ二十一か二になったばかりのはずだ。他の部下達に至っては軒並み二十歳前後の者が多かった。彼らの大半は、高校や大学を卒業して任期制隊員として採用された者達だ。自衛官になるには幾つかのコースがあるが、彼らの場合はまず定数外(つまり自衛官として認められず階級もない)の自衛官候補生として各部隊隷下の教育隊に配属され、凡そ三ヶ月間に渡る新隊員前期教育を受ける。ここでは主に生活面から武器の扱いまで自衛官の基本を学ぶ。前期教育を修了すると、晴れて正式な自衛隊員として二等陸士に任官され、再び約三ヶ月間の後期教育へと進む。後期教育ではそれぞれ決定された職種毎に分かれて、その分野の専門知識を教え込まれることになる。そうして一般部隊に配属されたのが、現在の彼らだ。陸上自衛隊の場合、一任期は二年なので、実質的な部隊勤務は残りの一年半となるが、任期満了後は契約を更新するかの選択が可能であり、契約を更新した場合は特に問題さえ起こさなければ陸士長までは順当に昇任できる。この陸士長として一年以上良好な成績で勤務し部隊内等で実施される選抜試験に合格することでなれるのが陸曹候補生で、今の木村の立場がこれに当たる。制服には通常の階級章に加え金色の桜花をあしらった「陸曹候補者徽章(乙)」を着けるが、当然戦闘服にそんなものはない。その後、部隊内の履修前教育を経て陸曹教育隊において六ヶ月の教育を受けた者が三等陸曹に昇任する。ここからが職業自衛官の始まりであり、原則定年まで働く資格が得られるのだ。ただし、陸曹候補生選抜試験はかなり狭き門で、受験回数も限られるため、任期制自衛官が職業自衛官になるのは凡そ一割ほどと言われる。しかし、これを突破しなければいずれは辞めなければならないわけで、概ねそれは四任期終了と同時に訪れるのが慣例だ。
これとは別に最初から曹になることを前提に非任期制隊員として採用されるのが一般曹候補生と呼ばれるものだ。絵梨香が入隊したのもこれである。一般入隊よりも試験は難しいものの、入隊後は直ちに二士の階級が与えられ、六ヶ月後に一士、一年後には士長に昇任し、最短で三年以内に三曹になれることから任期制隊員よりも出世は早い。もっとも一般曹候補生といっても無条件に曹になれるわけではなく、試験もあれば昇任が見込まれなければ退職を勧告されることもあるという厳しいものには変わりない。
こうした流れとはまったく異なるのが、幹部候補生である。これには防衛大学出身者であるB課程、一般大学卒で試験に合格した一般幹部候補生であるU課程、部内選抜試験合格者であるⅠ過程、准尉または曹長の中から試験によって選考された三尉候補者であるC課程、さらに一般幹部候補生とは別に医学系の大学から医官の道へ進むコースなどがあり、採用時には自動的に曹長(幹部候補生ではない者の上位の曹長)の地位が与えられ、幹部候補生として一定期間の教育を受けた後、一般幹部候補生は三等陸尉に昇任する。つまり、四十代五十代で曹という自衛官が少なくない中、最短なら二十二歳で仕官になるというエリート達なのだ。小隊の中で言えば、部内幹候で一般幹部候補生から仕官になった今年三十六歳の倉橋二尉がこれに該当する。
そもそも一般社会と違い、身分の乖離が激しく出世の頭打ちがはっきりしているのが自衛隊、というよりも軍事組織の性だ。そのため、長くその階級に留まる者が出て来るのは当然で、新しく入った者と混在するのは致し方がないと言える。この小隊の例で言うと、二士からの叩き上げで三十年近くのキャリアを積み上げた大ベテランである四十八歳の村田と、二十四歳の篠原は同じ二曹である。さらに下士官としては最上位の曹長である富沢は三十三歳、その下に位置する絵梨香に至っては射撃という技能のおかげもあり二十六歳で一曹と比較的早い昇任を遂げた方だ。従って、階級上は父親ほど年齢の離れた村田に絵梨香は命令を下す立場にある。もっともそれはあくまで建前で、現場レベルにおいて昇任したばかりの若い士官がベテラン下士官に居丈高に振る舞うなどまずあり得ない。どこの軍隊でもそうだが、若手幹部を鍛え上げ現場をまとめるのはベテラン下士官達と相場が決まっているからだ。で、あるからして絵梨香はもちろんのこと、富沢や倉橋さえも村田には一目を置いている。
その皆から、おやじさん、と呼ばれ敬われる村田の声が、ヘッドセットから聞こえた途端、絵梨香は反射的に背筋を正した。若手隊員達からは姐さんと恐れられる絵梨香でも、村田には頭が上がらず、一瞬でも気を抜いたことが咎められたと勘違いしたのだ。だが、その声は絵梨香達に向けられたものではなかった。
「こちら北側監視班。
「
それを聞いて絵梨香は木村と共に、屋上の北に移動する。しかし、そこからでは
「屋上監視班より
「屋上監視班、了解。
「こちら北側監視班。中MATの使用を許可願います」
中MATは陸上自衛隊が装備する対戦車ミサイルの一つで、正式には八七式対戦車誘導弾と言う。セミアクティブ・レーザー
(おやじさん、やる気だな)
無線交信を聞いて絵梨香は即座にその意図を見抜いた。
多くの仲間を失った上に、ひと月近くも身動きができずに隊員達の鬱憤は限界近くまで溜め込まれていた。それは当然、部隊の士気にも影響する。これから始まる重要な作戦行動を前にして、このままではその遂行に支障が出る恐れありと考えられたものと思われる。わざと派手な攻撃を行うことで隊員達の憂さ晴らしと士気を鼓舞するのが狙いだと絵梨香は気付いたのだ。ベテランならではの配慮と言えよう。
恐らく、それは上にも伝わったのだろう。
「
僅かな間の後、そう返信があった。
「北側監視班。了解。終わり」
交信が終了して、絵梨香達も慌しく準備に取り掛かる。間もなく来るお客とは、補給物資を積んだ輸送ヘリ、CH─47チヌークのことだ。敷地内は高圧電線が張り巡らされてヘリが近付くのは危険なため、事前に着陸地点はすぐ脇の
「制圧射撃なんか意味はないからな。ちゃんと狙って頭に当てろよ」
木村がミニミを扱う井上達にそう声をかけて回る。本来の機関銃の使い道である面の攻撃ではゾンビを止められないことは先の戦闘でわかっている。点による各個撃破が必要なのだ。
絵梨香が念のため銃のチェックをしていると、若い隊員達の激励を終えた木村が戻って来て、自分の装備を確かめながら言った。
「曹長達、大丈夫ですかね」
作戦は装甲車両が周囲を固め、ヘリが到着したと同時に選抜された隊員達が七三式中型トラックに乗り込んで着陸地点に向かい、手早く補給物資を積み変える、というシンプルなものだ。その現場指揮を任されたのが富沢だった。木村が言っているのはそのことだ。
「心配ないわよ。あの人がヘマするとは思えないもの」
富沢は絵梨香から見てもまさしく現場叩き上げの、これぞ生粋の自衛官と呼ぶべき男だった。自衛隊唯一の空挺部隊である第一空挺団に所属し、新隊員教育隊の助教として出向していた中での任務参加で、普通であれば絵梨香達と行動を共にするような相手ではない。優秀な自衛隊員の証と言えば誰もが思い浮かべるのは俗に言うレンジャーだろうが、ひと口にレンジャーと言っても様々な種別がある。よく精鋭部隊と勘違いされがちだが、自衛隊におけるレンジャーとは個人が有する資格のことだ。実は近年になって漸く旧中央即応集団隷下の
「それもそうですね」
木村も思い出したように同意して頷く。彼にとっても富沢は雲の上の存在なのである。
「でも、これで漸く乾パン生活から解放されそうで助かりますよ。来る日も来る日もあれじゃあ、気が滅入るところでしたから」
もちろん、乾パン以外の食事もあるにはあるのだが、そちらは変電所職員に優先的に回しているため、どうしても隊員達に皺寄せが来るのは致し方がないことではあった。
「中隊長達だって食事は同じなんだから文句は言わない」
これは事実だ。小隊長の倉橋二尉はもとより、この部隊の指揮官である伊藤三等陸佐も曹士達とまったく同じ物を口にしていた。そうでなければ現場指揮官は務まらない。少なくとも補給物資が届けばその貧しい食生活は多少なりとも改善されるはずである。
その時、突然に建物全体を揺るがすような地響きを感じた。激しい爆発音に続き、北側の防衛線の先から濛々と黒い煙が立ち昇る。北側監視班の手により中MATが発射されたに違いなかった。それが合図だったかのように、遠くからヘリのローター音が聞こえ出し、次第に大きくなっていくのが絵梨香にも伝わった。
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