第3話 本当の幸せは愛の言葉と共に

 空虚な日々を送っていたある暗い雨の夜。強い雨脚にまぎれて、窓から月色の髪の少年が忍び込んできた。


「セ……セオじゃないの!」

「離れからトワがいなくなっちゃったから探し回ったよ。やっと見つけた」


 セオドアのきらめく金髪も、よく晴れた空の色の瞳も、悪戯っぽく笑う顔も、泣きたいほど求めて仕方なかったものだけれど、トワは自分の素直な感情を表すことはできなかった。


 許されている精一杯の微笑みで彼を心配する。後宮なのだから、侵入することは容易でなかっただろう。


「ここまで来るのは大丈夫だったかしら? 早く帰った方がいいんじゃない?」

「あれ。久しぶりに会ったのに薄情だなあ」


 少し拗ねた声音で不満を漏らしたあと、セオドアはじっとトワを見つめる。


「もしかして痩せた? 元気がないみたい」


 セオドアに言い当てられて驚く。誰もトワが痩せたことに気づかなかったからだ。

 ごそごそと懐から紙袋を取り出して、セオドアはトワの手に渡す。懐かしい温かさと香りに誘われて、彼女は紙袋の中を覗いた。


「焼きたてのパン」


 トワとセオドアの声が重なる。思い出の中にしかなかった幸せの味のパンを、トワは恐る恐る取り出して小さくかじった。


「美味しい……」

「それはよかった」


 久しく本音を話せなかったトワが、焼きたてのパンの感動を気持ちそのままに吐露する。どんな豪華な料理よりも美味しく食べ終わると、心からの笑顔で感謝を述べた。


「ありがとう、とっても美味しかったわ」

「うん、また持ってくるよ。でも、トワが後宮にいるなんて思いもしなかった。国王がトワを見初めたの?」

「見初めた……」


 それ以上は言葉にならず、トワは顔を伏せた。そんな彼女に対して、セオドアは矢継ぎ早に質問をする。


「組紐の高台はどうしたの? いつも着ていた和装は? もうすぐ桜が咲くからお花見しようって約束したじゃないか。後宮には桜はないよ」

「……全部燃やしたのよ。組紐の高台も、和装も、桜の木も」

「え! どうして?」


 雨の雫を払いのけたセオドアは、大きな瞳を見開き、狼狽したように声を荒らげた。トワは答えられず、最近癖になった静かで控えめな微笑みを浮かべる。


「笑っているだけじゃわかんないよ! トワ、燃やしたって本当に? 全部すごく綺麗で、僕は宝物みたいに思っていたんだ!」


(私だって宝物だと思っていたわ!)


 強い感情はセオドアにすら伝えられない。薄い笑みを刻み、ただ人形のように立ち尽くしていると、次の瞬間トワはセオドアに抱きしめられていた。


 今までセオドアはトワに触れようとはしなかった。何かを手渡すときも、彼は決して触れないように注意を払っていることを、聡い少女は気づいていた。


 苦しいくらいの力で抱きしめられ、セオドアの体温を身体中に感じる。心地よい温度にトワの凍りついた心が溶かされていくようで、黒い瞳から涙が溢れた。

 腕の中で泣き濡れるトワにセオドアが尋ねる。


「トワは今、幸せ? 違うよね?」


 幾度、心を偽った幸せという言葉が出たか、その数は定かではない。しかし今なら。セオドアの熱に溶けた今なら口にできる。


「こんなの違う……私は幸せじゃないわ!」


 これまで溜め込んだ本心を思い切り叫ぶと、それは光の奔流となってトワとセオドアの周りをぐるりと回り、高く天に昇っていった。


「そうだよね。トワにドレスは似合わない。隠しているものを出してごらん」


 セオドアの言葉に導かれるまま、隠し持っていた組紐を差し出す。縛られた心でも後宮で唯一の慰めとなった組紐は、セオドアの髪と瞳の色を想って作り上げた。


 月色と天色あまいろの二つの組紐を受け取ったセオドアは、邪気のない笑顔を見せる。


「僕の色だね、ありがとう。君にきっと似合うよ」


 そして周囲の光を身にまとい、トワの胸元を軽く押した。


「きゃっ」

「ごめんね、トワの心が操られていることに気づくのが遅れて。僕はただ、みんなが幸せだったらいいなあって願っていただけなんだよ」


 ──だから幸せって言っていたトワは幸せなんだと思い込んでいたんだ。


 耳元で囁かれて、吐息にトワの顔が熱くなる。それから、いつの間にかドレスから桜色の和装に身を包んでいることに気づいた。驚く暇もなく、セオドアが黒髪を一房掬い取り、二色の組紐を巻きつける。器用に結んで少女に笑いかけた。


「思ったとおり、トワによく似合う」

「ありがとう……」


 セオドアはトワを抱いたまま、窓の外にふわりと飛び出した。雨は上がっていて、星が夜空に瞬いている。月を大きく感じたトワは、セオドアと空中に浮かんでいることを察し、彼の胸にぎゅっとしがみついた。


 人間の手の届かない位置に浮いている二人は、地上の騒がしさに下を向く。冷たい印象しかなかった国王が目を剥いており、ローブの男──占い師が紙を持って怒鳴っていた。


「あー、うん。大体わかった」


 セオドアは嘆息を漏らしたあと、人間味を感じさせない無表情となって口を開く。地を這うような低い声は雷鳴のように轟いた。


「無礼者。私を誰だと心得る」


 まるで別人のようなセオドアの姿にトワが目を見開いていると、地上ではバタバタと国王を始めとして全員が泥にまみれながらひれ伏していた。


「心を操ったのはお前か。その偽りの誓約書を寄越せ」


 セオドアが感情を乗せない声で言い放つと、占い師の男が持っていた紙が強風に巻き上げられて、宙を浮かぶ彼の手に収まった。

 トワは怖々とセオドアの手中の紙を見やる。無理やり自分の名前を書かされた誓約書を認めると同時に、紙が一瞬にして灰になって消え去った。セオドアは大きく息をつく。


「私は建国神として民の幸せを願った。しかしながら心を操ってまで幸せを誓わせるとは論外。断じて許せぬ」

「建国神様! 私は貴方様のご意向に従おうと……!」

「黙れ!」


 ぴしゃりと占い師を撥ねつけた少年神は、怒りの滲んだ、そして諦めたような顔を見せた。


「其方らにはほとほと呆れ果てた。国王の器にない者が国を治め、臣民が姦計をめぐらす。私が見限り捨て去ったこの王国は加護を失うだろう。──大好きなトワを泣かせたことは絶対に許さないからな!」


 最後はセオドアとしての言葉で叫んで、追い縋ろうとする国王や占い師たちを憎々しげに睨みつけると、そのきつい眼差しだけで彼らは跳ね飛ばされていった。


 セオドアと宙高くに舞い上がったトワは、真っ赤に火照った顔で彼を見つめる。


「セオ、あなた……」

「今は何も訊かないで」


 トワを抱きしめてセオドアは国を捨てて飛び続ける。方角は東。そういえばとセオドアが悪戯っ子の笑みを閃かせた。


「まだお花見していなかったね。ほら」


 セオドアが手を掲げた先に桜の花びらが舞い散り、鮮やかに空を彩る。長い夜が明け始め、行く先の空は天色あまいろに染まり始めた。まだ夜空の端に輝く満月も見えて、トワの大好きな色がすべて揃う。


 向かい風が少し苦しいけれど、セオドアにどうしても告げたくて必死に彼を見上げる。きょとんと首を傾げた少年神に、美しい黒髪の少女はこの上ない満面の笑顔を向けた。


「大好きよ、セオ。とっても幸せ」

「ありがとう。僕もトワを愛してる」


 そうして光り輝く桜の花弁を身にまといながら、幸せに浸った二人は東へと飛んでいった。

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