【九.罪を暴いた代償と贖罪】

「ただいま……って、返事はなしか。ま、これもいつものことだがよぉ~」

 彼は実に一週間ぶりに家へと帰ってきた。

 もちろん職場の上司には、有休の申請を執り行い、その場で認められた。もし他の忙しい部署なら、有休の申請をすれば即座に苦虫を潰したような上司の顔と汚らしい嫌味言葉の一つでも吐きかけられるだろうが、生憎と彼は疎まれてる存在だったので、むしろ笑顔で了承された形となっていた。もうそこまで行くと、わざとらしい笑みですら、いっそのこと清々しい。

「はぁーっ」

 本当ならば今頃、事件の聞き込みや書類整理に追われているはずなのに、何故か平日の朝から家に帰ってきたことに対して、妙な違和感を抱いてしまう。

 その証拠に安堵よりも先に気が抜ける溜息が出てしまった。日頃よりタバコ煙と上司に対する嫌味を除けば、吐き出すものはなにも無かったかもしれない。普段から飲み込むコーヒーの苦さとともに、滅入る気持ちすらも腹の中に流し込むことで、どうにか終焉なき事件との毎日を過ごしてきた。

 それがここに来て、どうだ? 何もできずに立ち止まってしまうとは、我ながらなんとも情けなくなり、溜め息以外を吐き出すことができない。

 また今にして思えば、平日の陽が高いうちに家に戻ること自体、いつぶりのことなのか、自分の記憶を思い返してみても頭の片隅にすら残っていなかった。

 テレビがある居間に顔を出し、誰も居ないことを確認すると、今度はその足で台所に向かってみる。

「よっ」

「あら、アナタ? こんな朝早くに家に戻ってくるだなんて、珍しいこともあるものね。もしかして、仕事で何かあったの?」

 そこには愛すべき妻が何やら料理をしているようだった。

 刑事の妻だけのことはある。通常なら平日の朝、家に寄り付かないはずの夫の姿を見て、職場で何かあったことを瞬時に理解したのだ。

 自分なんかには勿体無いほど、良くできた妻だった。

「いや、な。まぁ今の仕事が一段落したから、久しぶりに休暇を取ってみたんだ。ほ、ほら、課長からも有休をあまり取らず、いつも突き上げを食らってたから、どうせならまとめてと思って、な。申請したらすんなりと通っちまってよ、どうせなら……と、その足で家に帰ってきちまったんだよ」

「そうなの? なら、暫らくは家でゆっくりできそう?」

「ああ、一週間……いや、二週間くらいは休めそうだ。既にその分の有休の申請もしてあるしな。確か、今年は一度も使っていないはずだから、四十日丸々は残っているはずだ」

 さすがに男としての変な見栄が邪魔をしてしまい、妻にも本当のことは言い出せなかった。

 けれども妻は、そんな夫の心情を汲み取るように、聞き出すような真似はせず、いつ仕事場に復帰するのかだけを聞くと、安堵の表情でテーブル椅子に座るよう頷いてみせる。

 ちょうど今は息子の朝食と弁当を作っていた最中だったのか、肉とタレの焦げる香ばしい匂いが鼻奥を擽る。

「なぁ……母さん。アイツ……受験勉強の方は順調にやっているのか?」

「なぁ~に、そんな突然、藪から棒に。そんなに気になるなら、降りてきたときに直接聞いてみたらいいでしょ」

「う、うーん。それもそう……なんだけど、な」

 どこかぎこちない夫婦の会話に、自分でも違和感を覚えずにはいられなかった。

 本心ではもっと気の利いた言葉を投げかけたり、普段はしないような花束の一つでも買ってくれば良かったと、今更ながらに激しく後悔してしまう。

 トントントン。軽やかに階段を降りてくる足音が聞こえてきた。

「あっ……父さん。帰ってたの? なんだ、珍しいね」

「ああ、まぁ……な」

「お父さんねぇ~、珍しく休暇を取ったんですって」

 さっそく息子と父親との会話に詰まりを見せていると、妻が尽かさず、合いの手を入れる。

 こうしてさりげなく話題を息子へと振り、どうにか父と息子との会話を円滑にしようと、間を取り持ってくれている。

 やはり自分には過ぎた女房だと思った。

「な、なぁ、どうせだったら、みんなでどこか旅行でもいかないか? 今の季節だと、沖縄なんてのも暖かそうだよな?」

「あっ、ごめんね父さん。友達との約束もあるし、それにその……受験勉強もあるからさ」

「……いや、いいんだ。突然誘った父さんが悪いんだから、そんな謝るな」

 息子はもう一度だけ「ごめん」と謝り、朝食を足早に済ませると、そのまま親子らしい会話が生まれることなく、学校へ向かった。

 勇気を振り絞り、なんとか息子とのコミュニケーションを取ろうと頑張ってみたものの、その想いは空回りしている。

「あーあっ、せっかくのチャンスだってのに、振られちゃったわね」

 妻がそう一言、軽い口調で私に向かい、言葉をかけてきた。

 確かに傍目から見ても、袖にされたのは明らかである。

 これが犯罪を犯した犯人相手ならば、如何様にも手はある。

 だが、そんな百戦錬磨の刑事といえど、家族を前にしてはただの一人の父親にすぎない。

 また普段から家族としての団欒や揃って食事する機会にも恵まれず、ただ父と子、その関係だけで繋ぎ止められているように感じた。

 これがもし他人であったら、とっくに縁が切れている。

 家族だから、父と子、夫と妻、その関係性でしか繋がっていないのかもしれない。

(これも仕事仕事っと、何十年と家族を犠牲にしてきた報いなんだろうなぁ)

 そこでふと、A-17事件を引き起こした少年達の家庭と自分の家庭とを比較し、共通点があることに気づいた。

 昨今の日本社会では、家族が家族としての体を成しておらず、子も親を親として見ていない。親の名前を呼び捨てにしたり、父親のことを『~君』、そして母親のことを『~ちゃん』などと呼ぶ子供も珍しいことではない。

 またそれに対して親までも同調する形で叱り付けることもなく、自分の子供を呼び捨てにせず、『~君』『~ちゃん』などと、まるで友達の距離感で接することがあるらしい。

 そこには親と子としての家族の関係性ではなく、学校のクラスメイトと同じ接し方なのだ。なんとも希薄とも言うべきか、それとも親しい間柄だと、褒めるべきなのか、よく分からない。

(子が子ならば、親も親というわけか……。だが、その子を育てたのも、また親だという……結局のところ、子の不始末は親のせいというわけなのか? それで子供に殺されても仕方ないってのか? だが、それを止める手立てはあるのかよ?)

 自分が改めて過程を省みない結果、今のこの状況が生まれていることを自覚する。

 そしてそれは、A-17事件における家庭と同じ状況なのだと感じるようにもなっていた。

 犯罪が起きるきっかけは、得てしてなんてことはない日常から生まれるものである。

 ちょっとした不満や言動、世の中が自分の思うとおりいかない、などといった自分勝手な思い込みから、将来に絶望し、自暴自棄となって犯罪に走る傾向が見られた。

 それは何も決して他人事とはいえず、自分の身近なところでも起きる可能性である因子は存在している。

 あとはその気持ちがダムの決壊のように溢れ出して、事件を引き起こすか、それとも理性的感情において嗜めるか、ただそれだけの違いにすぎない。

 そしてそれは何も未成年だけの行動に限らない。

 事件を起こす犯罪者達のそのほとんどが、『無職』『派遣』『フリーター』『アルバイト』『パート』などの社会的にも失うものがまったくない立場にある人間達なのだ。

 それに最近だと、就職活動も業訓練もしないで家に閉じこもっている『ニート』なる新たな言葉まで、生まれてしまっている。

 これらのカタカナ表記である言葉の大本の発端は、日本国内の政治家達の発言を通して、社会的に広がりを見せている。

 また政治家達も海外の政治家達が生み出した言葉を巧み利用することで、国民から自分達に抱いている社会不満を逸らす目的も含まれていたのである。

 カタカナ表記で職業や今の現在自分が置かれている立場を言い表すと、なんだか自分が偉くなった気分になるそうだ。

 またその言葉によって、今現在自分が迫られている現実的問題から目を逸らすことができるのかもしれない。

 フリーター、アルバイト、パート……それらを正しい日本語で述べるならば、低賃金労働者である。

 ニートに到っては、プー太郎や穀潰しという言葉が当てはまることだろう。

 彼らは、今自分が置かれた立場について、自らの行いでそうのようになったとは一切思わずに、他人が、そして社会が自分達のことを世の中から排除、貶めているものだと錯覚している。

 これはとても恐ろしいことだ。なんせ、犯罪者予備軍とも言える社会不満を抱えた者達が世の中に溢れかえっているのだ。

 いつ、その社会的な火薬庫とも思える人々の心に火種が灯されるのか、誰にも分からない。

 自分は公安警察という立場上、これまで幾度となくそのような些細なきっかけから、犯罪に走る人を見てきた。

 もちろん自分なりには精一杯、“これから起きるであろう事件”を未然に防いでもきた。

 けれども、その原因たる因子――彼らが抱いている社会不満を取り除かなければ、永遠に終わりなど来るはずがないのだ。

(俺はこの社会が悪いとは思わないが、努力しても報われないことを身を持って知っている。だからこそ、犯罪に走る者達の気持ちが分からないわけでもない。だがな、それをしちまった後、一体どうなるっていうんだ? 一時とはいえ、自分の気持ちが晴れるのか? それとも社会が変わるだなんて、本気で思っていやがるのか? そこに自分の居場所が無くてもいいっていうのか? それじゃあ、自分の居場所を社会に求めていたっていうのに、本末転倒もいいところじゃねえかよ……)

 刑事が犯罪の原因たる犯罪者の気持ちに対し、理解を示すことで事件解決の糸口を探り当てることがある。

 だが、その代わりとして、その刑事の心の片隅に、犯罪者達と似たような気持ちが芽生えることがある。

 そしてそれは無意識下で、少しずつ大きくなっていくのを自分自身でも自覚していた。

 それを自分自身で自覚していれば、自制心や理性で抑えることができるが、もしも彼らと同じく心を蝕まれてしまっていたら、どうなるのであろうか?

「あーっ、やめだやめだ。今の俺は休暇中なんだぞ。なんでさっきから仕事のばかり、頭に思い浮かぶんだ。ほんっと、いい迷惑ってものだな」

 既に誰もいなくなった台所のテーブルで、そんな独り言を呟いてしまう。

 息子は学校、妻は友達と買い物に出かけてしまっていた。

 あとに残されたのは、ただ何の目的もなく家に居残ってしまった自分一人、そして目の前に用意されている、すっかり冷めてしまった朝食だけだった。

 ゆっくりと朝食を食べ終えると、本当にすることが何も無くなってしまった。

 せっかくの休暇だからといっても家で何をするわけでもなく、またこれといった趣味なども持ち合わせていない、つまらない自分という存在に改めて気づいてしまう。

 自分はこれまで刑事としての仕事だけをしていれば、それだけで良かった。何も考えず、ただ犯罪やこれから起きるであろう事件のことだけを考えればよかったのだ。

 これといって家族と普通の家族がするような会話するわけでも、また大型連休で有休を取って旅行するわけでもなく、犯罪者または犯罪者予備軍の人間を追い掛け回すことで、日々の退屈を凌いでいた。

 だが、こうして有休という名の一時の休みを得たことで、自分が自分たる存在意義と、その理由が無いことを思い知るだけだった。

 これは何も自分だけのことに限った話ではない。

 長年に渡り家族を省みず、仕事をしてきた会社員などが退職してしまうと陥る病らしい。

 それは言わば、一種の鬱病のようなものと言われている。

 それまで一生懸命、家族のために尽くして働いてきたにも関わらず、退職してしまえば家に自分の居場所はなかったのだ。

 今更家族旅行をしようと持ちかけても、友達が、約束が、などと二言目には断られてしまい、結局仕事を通して得られたものといえば失望感と孤独だけである。

 また仕事人間だと、趣味と呼べるような趣味も得られず、ただ家で何もせず過ごすほか道はない。

 その点だけで言い表すならば、彼らもニートと呼ばれる若者と同じであり、無気力な日々をただ惰性で過ごしているにすぎないのかもしれない。

「俺もとうとう連中の仲間入りしちまったわけ……か」

 誰に聞かせるだけでもなく、そうしみじみとした感慨深い言葉がつい口を付いてしまう。

「ふぅーっ」

 そして口からドーナツ型のタバコ煙を吐き出し、台所の天井とともに、煙が消えていく様を眺めるのだった。


 ――ふと我に返ってみると、何故か俺の目の前に白衣を着た若い医者が座っているのが目に付いた。

「……こ……こは?」

 口の中が異様に乾き、擦れた声なき声で、どうにかその言葉が出る。

「おや、ようやく気づかれましたかね?」

「アンタ……その見た目から見るに医者……なんだよな?」

「ええ、そうですよ。貴方はどうしてここに座っているか、分かりますか?」

 そう医者らしき若者に声を問いかけられ、俺は周りを見回してしまう。

 見れば、そこは本ばかりの部屋で、どことなく冷たく澄んだ空気が澄み渡っていた。

「…………ここは病院か? なんで、俺は病院なんかに来てるんだ?」

 瞬間的に、ここが病院の一室であると嫌でも理解してしまう。

 そして先程まで感じていた喉の渇きが潤うような錯覚を覚え、既に口から出てくる言葉に違和感はなくなっていた。

「貴方が来院した当初の目的は、精神的な心の病を患ってしまい、私の元へ辿り着いた。貴方が初めてここへ来院された際、最初にそう言われましたけど、ご自身で覚えていらっしゃらないのですか?」

「精神的な心の病……俺が?」

「先程は心の病とは言いましたが、あまり深刻には捉えず、言わば人生相談みたいなものだと思ってください」

 自分が医者だからと、患者に対して、あまり不安な気持ちを抱かせないようとの気遣いから、そのように言ってくれたのかもしれない。

 どうして精神病院なんかに来て、医者に相談をしていたのか、自分でも分からなかった。

 だが、医者である彼の言葉を鵜呑みにするのなら、俺は何度か通院としてこの病院を訪れていたことになる。

 それなら何故、そのことを俺自身は何も覚えていないのだろうか?

 自分でも、そこのところがよく理解できなかった。

「俺は……何か事件を起こしたのか?」

「…………」

 その問いかけに、若い医者は何も答えようとしなかった。

 たぶん、きっと、俺は何か良からぬことを仕出かしたんだと思う。

 それもこんな精神病院なんかに来るような、余程大きな事件を……。

「言ってくれ……変な遠慮はせずに……頼む」

 俺は自分が何を仕出かしたのか、知りたくて、つい急かすような言葉が口をついた。

 次に目の前の若い医者が口にすることに、自分自身でも驚きを隠せないと思う。

「貴方は……人を殺めたんです……それも二人も……」

「俺が……人を……二人も殺めた……だって?」

 彼の言葉を繰り返す形で、どうにか自分の頭で、その言葉の意味を噛み締め、必死に理解しようと努力する。

 だが、俺はまだそんな彼の言葉を理解してはいなかった。

 何故ならそれは、自分が人を殺してしまったという事実を理解したくなかったからである。

 しかもどうやら、その犠牲者は二人のようだ。

 俺が今し方、脳裏で思い浮かべてしまった人数も二人。

 つまり、それが意味するところは……。

「お、俺には妻と息子が一人いるんだ……無事……なんだよな? な? な? そうだと言ってくれよ先生っ!」

「…………」

 必死に自分がしたという現実を受け入れたくなくて、そう言葉にして目の前で俺のことを見据えている若い医者が言葉を否定してくれる瞬間を待ち侘びた。

 だが、彼は何も言葉を口にしようとはせず、ただ黙って俺の顔を見つめるだけだった。そして嫌でも理解してしまう。

 自分の妻と息子がどうなったかということを――。

「そう……か。俺の妻と息子はもう……ぐっ……すっ……がっ……ずっ」

 目から溢れる涙を必死に堪えようとしたが、感情が溢れ出してしまうのと同じく、見っとも無くも嗚咽してしまう。

 本当なら真っ白な床に倒れ込み、行き場のない怒りと悲しみから泣き叫びたいところなのだが、何故かそれができなかった。

 椅子に座り、啜り泣きをして、必死に顔を伏せ、涙を流すことしか出来ない。

 それと同時に、空虚な気持ちとともに、何故か心では悲しいという感情が生まれることはなかった。

 一見、心と体の分離している錯覚を自覚し、自分が自分ではないようにも思えてしまう。

 最愛だった妻と子供を、自らこの手で殺めてしまい、それなのに俺は何も覚えていないのだ。

 まるで誰かに今の今まで心と体ごと乗っ取られてしまい、絶望と後悔の念を抱かせるため、今頃になってこの体へと帰されてしまったかのようである。

 だが不思議なことに、その誰かが何者なのか、俺は知っていた。

 それは俺がよく知る人物で、俺は彼自身になろうとしたことがある。

 その人物の名は……。

「――――カシワギハヤヒト」

 そう、奇しくもA-17事件の加害者である未成年の少年達が口にした、犯人像と一緒だった。

 これまで彼らが何故、その名を口にしたのか、理解し得なかったが、今の自分なら、よく理解することができる。

 それは、その名を口にすることで、自らの罪から逃れる。そのために自分を事件を引き起こす動機及びきっかけを生んだ人間の名を口にしていたに違いない。

 自分も彼らと同じく彼の名を口にし、自分ではない誰か、“別の自分”が妻と子供を殺したのだと、無理無理に自分の心を騙し、納得させようとしている。

 そのことを自分でもよく理解しているからこそ、カシワギハヤヒトなる名を口にすることができたのだ。

 彼らと自分とは、一種の加害者であると同時に、事件の被害者を演じきろうとしていたのである。

 そのための手段が、あの二冊の本『完全犯罪者の作り方』と『ただ一人だけの完全犯罪者』なのだ。

 また精神異常者を装えば、社会的に、また法的に罪を免れるだけではなく、自分自身の心までも騙しきることで、自らこの手で家族を殺めてしまったという現実から逃れようとしていたのだ。

 何も決して他人のせいにしたわけじゃないが、それでも自分が自分として生きるため、そうせざるを得ない、言わば一種の生存本能の一つなのかもしれない。

 人間の心は何か大きな負担を感じてしまうと、本人の意思とは関係なしに無意識下で記憶や感情、時には人格までも封じ込めてしまい、あたかも別人のような振る舞いを見せることがある。

 これまでA-17事件を模倣してきた少年達も、また私も意図的にそれを誘発させることで、自分を自分では存在として扱い、無関係を装うとしていたに違いない。

 それは自分と同じく演じているからこそ、理解できる感情だった。

「そう……か。俺は……もう一人の彼だったんだな。なぁ、本当はそうなんだろ……“カシワギ先生”?」

 俺は目の前に座っている若い医者――カシワギ先生に、そう尋ねてみるが、彼は何も答えなかった。

 彼の顔は、A-17事件を意図的に引き起こしたとされる著作者、カシワギハヤトの顔に瓜二つだった。

 見覚えがあるはずだ。

 なんせ事件の資料に添付されていた写真と同じ顔なのだから。

 今の今まで気が付かなかったが、“彼ら”はただ一人の人間ではないのかもしれない。

 それこそ、何人何十人何百人……という彼が、“私”としてこの世には存在するのだろう。

 今の俺と同じく、あの少年達の瞳にも同じように彼の顔が映りこんでいたに違いない。

 自分が自分であることを辞めたそのときに――。

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