第9話
揺れが止まった。車から降ろされ、歩いていく。ここがマンションの駐車場ならば、と僕は妻の手を離れ歩いてみた。踏み慣れた硬さのコンクリート、この次に入り口の段差が3つ、手を伸ばすとエントランスの扉の取手。
妻が僕の手を取り、鍵を開けてくれた。エレベーターで8階に登る、はずだった。上昇が止まらない。少し長く重力を感じた後、妻に手を引かれる。
風が通り抜けていく……。
お、く、じ、ょ、う
僕は妻の意図が何もわからず首を傾げた。
手を引かれて歩く。
そして。
か、わ、い、そ、う
僕は再び首を傾げた。
あ、な、た
僕は……絶望のあまり笑うしかなかった。
再び心が雲に包まれる。きっと視覚と聴覚を失ったことを、妻に可哀想と思われたのだ。何故だ、身体の回復は喜んでくれたではないか、いや、僕の勘違いだったのか、確かにおめでとうと、伝えてくれたはずなのに。
「そんなこと言わないでくれよ」
そう口にしたと思う。
ど、う、し、た、ら、い、い、
わ、た、し、
そう、そうだよな、僕は妻がいなければ何もできない身体になったのだ。それは事実である。意思疎通もまともにできない。
「君は、僕が邪魔に感じる?」
ち、が、う
もう、いい、もういい、僕はこのまま死のうと思った。そのためにここに連れて来てくれたのだろうし。
「わかった」
屋上の縁へと向かって歩き始めた。
その歩みを、妻がやや乱暴に腕を引き、止める。
わ、た、し、も
どうして?
「どうして?」
わ、た、し、も
繰り返した。
あぁ、寂しさでも感じていてくれているのか。それはありがたいな。もうヤケな気分になっていた僕は2人で一緒に飛び降りればいいのだろうと考えた。
妻は僕を強く抱きしめた。そして僕の胸元に顔を埋めたまま、話した。振動が伝わってくる。その振動は、今までも何度か体験したものですぐに何かわかった。
あいしてる
何を今更。僕を憐れみ、屋上に連れてきて、これはもう死ねと言っているようなものではないか。また手のひらに、
わ、た、し、み、え、る
き、こ、え、る
う、ら、や、ま、し、い
あ、な、た、が
意味がわからなかった。視覚と聴覚が失われたことを「羨ましい」とは。妻は続けた。
お、な、じ
し、あ、わ、せ
も、う
つ、た、え、ら、れ、な、い
3、/、5、し、か
なるほど。五感のうち僕には3つしか残されていないのだ。だから、幸せを5分の3しか共有できないと言いたいのであろう。僕は頷く。
あ、な、た、は
そ、れ、が、す、べ、て
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