第34話
「やれ! なぜやらんのか。どうなっておるのだ、呪は効いている筈なのにっ」
哉親がどれだけ妖をそそのかしても、触手達は源晶を攻撃しない。
彼の唱える経が恐ろしく清らかで、その音波の前に妖は無力になってしまうのだ。
源晶は触手がうようよと漂っている中を、畏怖もなくずんずんと老木の元まで歩いてきて、妖に囚われて動けない珠子達の前に立った。
「惇長殿もお久しゅう。この桜に呼ばれて来てみれば、驚いたことになっていますね」
「貴方が来ている方が驚きだ」
「お前達……皆を降ろしてください」
源晶がゆっくりと老木を撫でた。
すると惇長や他の者にまとわりついていた触手が全て退き、成時は倒れ付し、彰親も膝をつけられた。
珠子も苦しい妖の縛めから開放され、惇長に抱きかかえられた。安心はできたが、身体のだるさと高熱の気持ち悪さは相変わらずで、ぐったりと惇長にしな垂れかかった。こうしているのがやっとだ。
「昨年の秋に石山を出て、近江の伊吹山の観音寺に居りましたが、つい最近こちらの美徳殿が、右大臣家の桜について聞いていらっしゃると耳にしまして、それで詔子殿の法要をかねて早めに参ったのです」
「……徳の高い僧が、昨年いらしたと聞いておりましたが、貴方でしたか」
美徳が折られた右腕を庇いながら立ち上がった。彰親が走り寄ってきて様子を調べ、自分の袖を裂いた。そして真っ直ぐに折れている枝をその部分に当て、ぐるぐると裂いた布を巻きつけて応急処置をした。
「お、お兄様……」
「痛いが慣れている。それよりその身体では辛かろうが琴を……」
美徳は折れていないほうの手で右大臣家の琴を取り、珠子の前に差し出した。
哉親がそうはさせまいと妖に取り上げろと命じたが、源晶の読経と、彰親と美徳の結界に阻まれた。もう安全だ。珠子は顔を横に降った。
「でも、翠野は壊されてしまって……」
「大丈夫です」
源晶が励ました。そして先程から自分を睨んでいる惇長を見た。
「惇長殿がその懐におしまいになっている笛を、そして姫と琴を弾けば、それでよろしいのです」
金属を叩くような音が頭上で響いて、珠子は竦みあがった。
義行が太刀で結界を破ろうとして、何度も何度も叩いているのだ。
しかし、三人で張られた結界はびくともせず、義行は哉親を叱り飛ばしていた。焦った哉親がどれだけ怒鳴ろうとも、桜の妖はだらだらと地面をうねるだけでもう何もしようとはしない。
「枯野と翠野は兄と妹と言われていますが、本当は恋人同士だったのです。姫を想う惇長殿と惇長殿を想う姫が心を一つにすれば、必ず妖に施された封印を打ち破れます。琴の音は人の声、笛の音は人の息、二つとも五行では金、桜は木そのもの。この老木は地に還りたがっている。浄化と消滅を望んでいます」
それは彰親にも美徳にもわかっていた。彰親が言った。
「右府に繋がる方々は、いったい何を隠していたのですか?」
「右府の家の反映は神代の世代から続く、この桜の霊力を借りたものでした。前右府は、荒くれの権化の様な方でしたが、一族の為に桜をいつまでも犠牲にできないと案じるような、心根はとてもお優しい方でした。詔子姫の早世で余計に強く思われたようです。先の政変は源と藤原の争いで、源が勝ちましたが、それは前右府がこの桜の力を借りなかったせいでもあります。借りていればおそらく藤原が勝っていたでしょう」
「何もかもが初耳で作り話めいている、が、そういう事にしよう」
惇長が苦々しく言ったが、源晶は小さく笑っただけだった。
先程の政変の罪状が、ほとんど左府ごり押しだった事は誰の目にも明白で、惇長はそれの反発もあって二の宮立太子に反対していたのだ。
惇長は、懐からはみ出していた、院から賜った笛を取り出した。
珠子は震える手で琴の弦に手を這わせる。人前で包まれるように惇長に密着してしまうのが、珠子は恥ずかしく顔を赤らめた。皆が注目しているのと高熱で指が震え、とても演奏に集中できない。惇長がそんな珠子に耳元で囁いた。
「案ずるな。貴女は身体が弱っている、なんなら目を瞑って弾けばよい」
「そんなのおかしな音になります……」
「安心しなさい。音のよしあしで、妖が調伏できないなんてことはないでしょう」
惇長の笛が、鳥がいななくような鋭い音色を出し、珠子の枯野が癒すような旋律を奏で始めた。
枯野の清浄な音は珠子がこの琴を弾いた時と変わらず、ともするとあの時以上の澄んだ音色だった。多少調子が狂っていても、妖への効果は変わらないようで、妖は次々と消えていく。そして触手が消えていくたびに、老木に桜のつぼみが膨らんでいった。
「……やっと咲く様だ」
美徳が安心したように呟いた。
結界の外では相変わらず義行が喚いている。哉親が顔を赤くして懸命に呪を口走っているが、笛と琴の音の威力は凄まじく全てを圧倒していた。
(うれしい……)
珠子は惇長といられるのが幸せだった。触れ合うのは本当に久しぶりだ。心が通じ合うよう喜びは、言葉では言いつくせない甘い悦楽だ。
また数本の触手が消えた。
笛と琴の旋律は、哉親によって悪しきものに変えられてしまった桜を、見る見る元の美しいものに戻していくのと同時に、封じている呪を破壊していく。
「見えた」
桜の木の根元の土が盛り上がり砕け散った後に、真っ黒に腐食した筒が現われた。
彰親がそれを手に取り、ためつすがめつ眺めた。
「これが桜の木の力を封じているものでしょう。しかし……」
触手は全て消え、老木の桜も普通に蕾をつけて咲こうとしている。
彰親はその筒に、つい最近掛けられた呪符を発見して絶句した。
それには他者に対する呪いが、桜の命と繋げられていた、呪いの言葉に書かれている、”冬宮珠子”の文字。
「これは!」
唐突に琴の音色が途切れた。
「珠子。しっかりしなさいっ!」
惇長が笛をおろし、辛そうに呼吸を繰り返す珠子の身体を揺さぶった。
哉親の哄笑が響いた。
「はははっ……ざまを見ろ冬の宮めっ! 己だけが良い思いをできると思ったら大間違いだ」
「貴様、何を言っている」
狂ったように笑う哉親に、美徳が振り返った。
「よーく聞け。彰親がかけた詔子を甦らせる反魂の術。この哉親が書き変えさせてもらった」
「何」
「桜と詔子と珠子の命を結び付けてやった。ははははっ、桜が死ねば珠子も死ぬ。俺は優しいからなあ……、三人一緒に極楽に行けるようにしてやったぞ。彰親がかけたのは、肉体に死霊の魂を居候させるもの。男の精を毎月注ぎ、それの効果で一年だけ死霊と話が出来る、一年が過ぎたら死霊は女から離れるというものだったがな。そんななまぬるいものはいかんなあ……ははははっ! はっはっは……っ」
「貴方という人は、なんということを!」
彰親が怒りの余り哉親の胸倉を掴んだが、それでも哉親は笑い続けている。
「馬鹿だなあ彰親。冬の宮は俺の妻を不幸に陥れた男なんだぞー。そいつの娘も俺の娘を押しのけて公達を弄ぶ尻軽女。そんな女を退治できるんだから喜ばんか」
「何を馬鹿な! 解きなさい、死に至らしめる呪は成就しても必ず術者に跳ね返るっ」
「祖父晴明の術が跳ね返るものかぁ。女は桜を殺す琴を弾いたんだ。桜は死にたいんだからこの機会を逃すまいよー」
哉親は狂っていた。それは義行も同様で、こちらは魂が抜けたように土の上にへたりこんで宙を見つめ、ぶつぶつ言っている。二人とも企てに失敗して気が触れてしまったようだった。
源晶が美徳に目配せし、美徳も頷いた。
ここは右大臣邸なので、右府に許しを請うて人手を呼ぶことにしたのだ。
桜の妖は珠子以外には無害だし、怪異は治まっている。
「惇長様……」
珠子はひどく疲れていた。
なんとなく開けた目に、遥かに遠くの雲が開けて、太陽の光が差すのが見えた。
さっきの哉親が叫んだ自分に掛けられた呪いは、珠子の耳にすべて聞こえていた。
「話さないように。今彰親が呪いを解く方法を考えています。陰陽頭と彰親は共に晴明に学んだのだ。方法はあるはずだから……」
惇長の腕の中は相変わらず温かだった。珠子はここが好きだ。
薄く笑った珠子の頬に、まだ性懲りもなく雪が降っていた。
桜が咲こうとしている時に未だにしつこく降り続ける雪は、どことなく頑固な惇長に似ているような気がした。
珠子は声を絞り出した。
「惇長様……、おっしゃいましたよね。醒めない夢を見せてくださると」
「……ああ、言った」
「沢山見せていただきました。零落した私が知りえなかった、美しいものを……、惇長様に、沢山」
「…………」
二人の横で、美徳と彰親と源晶三人が、しきりに呪いを解く方法を模索している。
成時は騒ぎを聞きつけて現われた右府に事情を説明し、気が触れた義行と哉親を家人達に引き渡していた。
ざわめきが大きくなっているのに、二人の周りではひどく静かに雪が降っているのだった。
「思えば……あと少しで一年でした」
「それは無効だ。美徳に暴かれた時にすべては無効になった」
「……夢は必ず醒めねばなりません」
「珠子?」
「詔子様の望みを叶えるために契約を続けておりました。どうやら……叶いそうです」
「気を確かにせよ。ふやけた陰陽師の呪など、あの三人に任せたら直ぐに打ち破れる」
指先の感覚が薄れてきて、珠子はぼんやりと、ああ、やはり死ぬのだなと思った。
見上げる桜の老木の桜の蕾が次々に開いていくのが見える。それは珠子の魂を糧に開いているのだろうか。そして桜は咲いた途端にすぐに散り始めた。
はらはらと、花びらが二人に降り掛かった。
「……私を殺してください」
「ふざけるな。できようはずがあるまい」
そう言った惇長の手首に、あのおぞましい黒の触手が巻きついた。
驚いて周囲を見ると、桜の花びらが降る中で黒の触手が甦り始めている。
「私が死なないと……桜はまた悪い妖になって人を襲ってしまいます……。だから、」
「そんな事ができようはずもない」
「……このままじゃ桜も詔子様も……、惇長様も、お屋敷の人達も………」
最後まで言えず、惇長に珠子はきつく抱きしめられた。
珠子の肩に惇長が顔を埋め、その耳元に熱い息がかかった。
「珠子」
「……お願い」
「珠子……貴女を愛しているんです。貴女を今失ったら、これから先私はどうやって生きていけばよい……!?」
それは珠子にしか聞こえない、熱い想いの吐露だった。
告白はほとんど吐息にまざって掠れてしまい、近くにいる三人は全く気づかない。
珠子は、本当にこれは夢だと思った。惇長が自分を愛しているなんて言うはずがないのだ。彼が愛しているのは詔子だけなのだから……
でも、最後の夢がこんな幸福なものでよかったと思う。
「……どうか惇長様の手で、夢を終わらせてください」
珠子が力なく惇長の頬に触れると、惇長は近くの地面に落ちていた自分の太刀を片手で拾い上げた。その両目には、初めて見る惇長の涙がとめどなく流れていた。
惇長の動きに気づいた彰親が走り寄ってきて、惇長の手から太刀を奪おうとしたが、惇長はそれを振り払って珠子の首筋に当てた。
珠子はぶるぶる震えている惇長の手に、自分の小さな手を両方重ねた。
「痛いのは嫌なので……、一気にお願いします」
「心配ない」
珠子が力なく口だけで微笑むと、泣きながら惇長も笑った。
そして────。
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