第21話
一条に呼び出された彰親は、半刻も経たないうちに駆けつけてくれた。みるみる険しい顔になり、
「身体の中に入ったのですね。やっかいな……」
と言い、すぐさま一条に必要な道具を用意させ、それらで手早く妖を祓う処置を始めた。
「痛むかもしれません」
その言葉に違わず、彰親が噛まれた部分に呪符を貼り付け、そこへ瓶子から聖水を注いだ途端に、身体中に雷のような鋭い激痛が走り、珠子は悲鳴をあげて悶えた。
彰親は注ぐのを止めて眉間に皺を刻み、一条は震える珠子を抱きながら、彰親が呪符を貼り替えるのを不安そうに見守った。
珠子は激痛が治まるのを待って、口を開いた。
「私、どうなるの……」
「撫子の御方を病に陥れていた妖が貴方に入ったようです。このままでは……」
「宰相の君が……御方様を?」
「それは無いでしょう。彼女も仕掛けられた側です。彼女はいつから臥せっていましたか?」
「……こちらへ戻ってきて直ぐだったような」
「成程、内通者が確実に居るのですね」
「宰相の君のところに例の呪物はあるのでは? 私探して……」
「それは危険だ。それより他にも臥せっている人はいませんか?」
一条が傷口を布で巻いてくれ、仮とはいえ少し落ち着いた珠子は、一条とそれぞれの女房の名を上げていった。小式部の君、橘の君、紅梅の君、桃式部の君、安芸の君……。
彰親が帖紙を一枚取り出し、彼女達の局のありかを書くように言うと、一条が言われるままに図面を書いていく。すると意外な事実が浮かび上がった。空白の欄……右京の局を中心に皆臥せっているのだ。
「そういえば、宰相の君は右京の君からもらう薬湯が効くからとか……言っていたような」
珠子が言うと、彰親は目を細めた。
「となると、彼女……ですね。彼女は何らかの護符を持っているので罹らないのでしょう。撫子の御方の所から呪物を持ち帰って隠しているんですね。調度の点検をどのようにごまかしているのか知りませんが、成程、姫が探しても見つからないわけだ」
「でもどうして惇長様は大丈夫なのですか? 通っておいでなのに」
「女人を標的にしたものらしい。それで大丈夫なのでしょう。惇長殿に何かあれば、呪をかけた者と内通しているのがばれますから」
「どちらにしてもひどいわ。皆を巻き込んで自分は笑っているなんて……!」
右京を許せないと思った珠子は立ち上がったが、それを察した彰親が強く袖を引いて再び座らせた。
「何で止めるの!」
「世間知らずの貴女では、あの強かな女に勝てませんよ」
「そうですよ。珠子様に何かあったら、美徳様になんと申し上げたらよろしいのですか? それに惇長様だって……」
「お兄様はともかく、惇長様はなんともお思いにはならないわ」
自分でこんなふうに言うのはかなり空しい。言いながら、珠子の胸はちくちく痛んだ。
珠子の様子に気づいて、二人が何かを言おうとするのを止め、珠子はことさら明るい声を出した。
「だからいいの! あの女前から気に入らなかったのよ。何かにつけてちくちくちくちく。大体彰親様だってあの女と嬉しそうに笑ってたじゃない。殿方なんてちょっとたおやかな女の人見るとすぐに目の色変えるんだから!」
ぎろりと珠子に睨まれた彰親は、慌てて言った。
「待ちなさい。私があの女と話をするのは、あの手の女は敵に回すと面倒くさいことが増えるからなんですよ。何しろあの女の母親は今上の乳母なんです。父親もやり手の受領だし……。まったく、女人はどうしてそれはそれ、これはこれとわけられないんでしょうかね」
その言葉は、珠子より、一条の怒りの炎に油を注いでしまった。
「わかるわけございませんでしょう。珠子様には普通の愛。あの右京にはとっておきの愛だなんて、女人をなんだと思っていらっしゃるのやら! やたらと殿方はいばっておいでですが、どこから生まれたのかよーっくお考えになってくださいな」
「落ち着きなさい一条。どう見たって惇長殿は、右京なぞとっておきになどされていませんよ」
「いいえいいえ、惇長様も貴方様も珠子様をこんなふうに扱われて、珠子様がどんな思いで宮仕えされていると思われているのやら。そうですわ。撫子の御方様の仰るとおりに別の殿方を紹介したほうがよさそうですね。ええそうだわ、もうそうしましょう、ね? 珠子様」
「何を言っているの?」
珠子は突然の一条の申し出にびっくりして、自分の部屋に帰ろうとしたが、一条に引き止められてしまった。
一条は文箱から一通の文を取り出した。
「こちらね、二日前に取り次いで欲しいと戴いていたものだったのですけれど。珠子様には想う方がいらっしゃると言っても、どうしても言われて……」
『おもへども 人めづつみの たかければ 河と見ながら えこそわたらね』
(貴女を恋い慕っているのですが、人目を包む堤が高いゆえに、貴女を目にしながらも私は(河は)逢う事ができません)
「つつましいお歌でございましょ」
一条がニコニコしながら言うのを、珠子は困ったなと思いながら聞いていた。
彰親の睨むような眼差しを、見なくてもびしばし感じる。
それに大体、この歌の男は果たしてつつましいのだろうか。恋人が居るかもと思っていながら恋歌をよこすのはどうなのだろう。
薄様の紙に書かれた歌をじーっと見ていると、いざり寄ってきた彰親にさっと奪い取られた。
「この手蹟は成時の中将殿ですね。一条、お前は藤原に戻ろうと言うのですか?」
「藤原でも、成時様はお優しい方でいらっしゃいますから」
「あの方も女性関係はうるさいほうですがね」
「ほほ、詔子様の兄でいらっしゃいますもの。きっと上手く行きますわ」
「それって本当?」
詔子という言葉に反応した珠子に、一条はうれしそうに頷いた。
「詔子様のようにお優しい方でいらっしゃいましてね。お美しい方で、皇后のおはします麗景殿においでになると、女房達の声がそれはそれはかしましいんですのよ」
「そうなの」
彰親は他の男の様子を聞く珠子をじっと見ていた。
嫉妬からではなく、陰陽師の目で見ていると、生気にあふれていた珠子の顔が見る間に病の気に覆われていくのが、はっきり見えるのだ。
気を明るく持てばやり過ごせると思ったのは、やはり甘かったかと彰親は思う。
やがて、ぐらりと傾いた珠子の身体を優しく抱きとめた。そのまま抱き上げて、一条に褥を設えさせて、そこに寝かしつける。熱が上がってきたようで、息遣いが苦しげなものになった。妖が珠子の胎内で暴れ始めたのだ。
「今日中に退出しましょう。惇長殿につなぎをかけておく。一条、お前は右京に知られないように事のあらましを撫子の御方に申し上げなさい。一条戻り橋の私の屋敷の方が内裏に近いから、今夜そちらへ珠子姫をお連れする。屋敷の使いを呼んでください」
「他の女房方は如何なりましょう?」
「妖の本体がいなくなれば、若い女房達ばかりだし直ぐに癒えるでしょう。女房達の病気を後宮で流行っている風邪だと思って、迂闊だった。ひょっとすると、珠子姫に翠野が弾けなくするように、最初から妖を仕掛けるつもりだったのかもしれない」
一条は、はたと思い当たった、頻繁に右京は珠子の周りをうろついていた。右京は珠子に付け入る隙を狙っており、まさしく惇長は隠れ蓑にされていたわけだ。
「……やはり向こうの方が一枚上手でしたわ」
「こちらとて敵の正体がわかったのですから、気を落とす必要はありません。そうそう、この護符を持っていなさい、身を護ってくれる」
一条は細長い紙を自分の懐にしまうと、思案にふける彰親を微笑みながら見上げた。
「……彰親様?」
「なんです」
「珠子様がそんなに愛しいと思われるのでしたら、もっと押さねばどうにもなりませんよ。接吻だけではとてもとても」
「なんだ、見ていたのですか?」
さっと彰親の顔に朱が指した。
「幸い私の隣の局には誰もいませんでしたから、私以外は気づいておりません。ああ違います。一人だけいらっしゃいましたわ。近づいてきた足音がぴたりと止まって、やがて遠ざかっていったのですよ」
「……だからって、今のようにけしかけられると困ります。それにその人物は……」
その時、ずっと火桶の傍で丸くなっていた桜が、彰親の足元まで歩いてきて擦り寄り、甘えた声で鳴き声をあげた。それを見て、一条は袿の袖で口元を隠して笑った。
「私の隣に居た桜が動きませんでしたもの。怪しい者ではございませんでしょ。ほっほっほ。貴方様はなんと無意識に、計算高い方でいらっしゃるのでしょう。恋というものは人の本性を暴いてしまう恐ろしいものですわね」
彰親は一条の後姿を見送った後、珠子の寝ている傍に座り、熱くなっている額をそっと触った。
まるで恋を初めて知った童だ。
手馴れていると思っていた行動は、珠子を前にするとすべてが幼く見えてしまう。
見抜かれる恥ずかしさは、まるで母に悪戯を咎められたかのようだった。
夜に入ってもなお、彰親は珠子の傍に座っていた。
そこへ御簾をあげて桜の直衣(表が白、裏が二藍)を着た惇長が入ってきた。
私服での参内は特別な行事の他は普通許されていない。惇長は直衣の参内を帝より許されている数少ない人間だった。
惇長は、振り向きもせずに珠子を見続けている彰親の隣に座り、
「……これが呪物だろう」
と、手のひらほどの大きさの青銅の香炉をごとりと置いた。
「お前が言っていたとおり、宰相の局の端に置かれていた」
「珠子姫に妖が取り憑いたおかげで、皮肉な事に、これの影響で病で臥せっていた女房方は快方に向かっているようですね」
くっと彰親は笑い香炉を手に取った。
ひっくり返すと、裏側に確かに呪の文様が不完全な状態で彫り付けられていた。
特定されないように開いた部分に残りの呪いを紙に書き付けて、貼り付けられていたようだ。わずかに糊の痕があった。呪は模様の間に細かく彫られていて、彰親ほどの陰陽師でも余程注意深く見なければ、わからない。
ぱっと見では、よくある厄除けの呪で誰も気づかないであろうそれは、世にも恐ろしい呪殺の残り香を残しており、それを感じ取った彰親は顔を顰めた。
あまりのえげつなさに吐き気が込みあがって来る……。
「これを表沙汰になさいますか?」
「東宮も撫子の御方も不問にとの仰せだ」
「確かにこれでは証拠不十分すぎる……。それにたかだか妃の一人ですからね。主上が相手であったなら……と残念ですね」
「お前は時に口が過ぎる」
惇長が嗜めたが、彰親は気にした風も無く珠子の額に載せられている冷やし布を取り替えた。大変な高熱で半刻も経たない内にばりばり乾いていくのだ。
珠子が苦しい息の下で何かを口走った。
惇長は不審に思い耳をすました。彰親は何も言わない。
「……あつな……、あつ……。くるし…………どこ……」
ほとんど聞こえ取れないようなか細い声で、珠子は惇長を求めているのだった。
あまりの健気さに、さすがの惇長も胸が打たれた。
彰親は黙り込んだ惇長を置いてふらりと立ち、御簾まで歩いていった。
今宵の淑景舎はとても静かだ。撫子の御方や女房達は中宮の宴に呼ばれて、病気に罹っていた者意外皆出払っているのだった。
「惇長殿、昨日聞かれたように私は珠子姫を愛しています。素晴らしい陰陽師だと言われながら、化け物だと人々に内心で笑われている私に、普通に接してくれる稀有な女人。一途な愛を持てる信用のできる人。それなのに彼女が愛しているのは薄情な貴方だ」
惇長は手に持っている扇を握り締めた。
「昼に倒れてから、ずっとこんな調子なのです。右京が貴方と恋仲だとそれはそれは大げさに言いひらかしているからでしょうか、かなり気に病んでいるようです。でもこの健気な心の持ち主は、全ての気持ちを自分の中に押し込んでいらっしゃるのですよ」
惇長はいつも言葉は少ない。
有能で将来も有望、凛々しくうっとりするような公達だが、気の利いた歌や詩句を詠めない気ぶっせいなで堅物で残念。……というのが後宮の女房達の評なのに対し、彰親は気安く話せて楽しい人だとまずまずの人気だった。
しかし、彰親も最近女房達の誘いに乗らなくなり、惇長側の公達に分類されつつある。珠子を愛してしまった彰親にはそれは好都合だった。女房達と珠子なら珠子を取るに決まっている。
彰親はため息をついた。
「私の屋敷に連れて行きます。ここで妖を仕留めるのはいささか目立ちますのでね。もう呪物は探せたのですから右京はどうでもいいでしょう。その辺の誤解も解いておいたほうが良いのでは?」
「……わかった」
一言だけ言って微動だにしない惇長の後姿を一瞥し、彰親はそろそろ来る牛車を待ち受ける為に出ていった。
燈台の火がかすかな音を立てて暗くなった。油を継ぎ足さねばならない。そう思いながらも惇長は珠子から目が離せなかった。
「何故、そんなに私を愛せる……」
熱に浮かされた珠子は当然答えない。
でも暫くして無意識に伸ばされた手を惇長はとってやった。
その手はかなり熱い。
そのまま口付けて己の額に当てて項垂れた。
「貴女を裏切っていた私など、愛する価値などないものを」
目頭が熱くなるのを覚えながら、惇長は珠子の手を握り締めた。
その小さな手がとても慕わしいものに惇長は思えた。
はるか遠くで宴の管弦の音や人々の賑わいの声が聞こえる。内裏の夜は惇長と珠子を忘れ去ったかのように更けていった。
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