第15話

 それから惇長は、前のように珠子の所へやって来て、一緒に過ごしてくれるようになった。前と違うのは一緒の褥に入ってもなにもしないところで、本当に自分は愛されていないのだなと珠子は辛く思う。

 口を聞いてくれてもよそよそしく、局にいる間は目を閉じて横になっているか、難しそうな書物を読んでいるかのどちらかで、こちらを向いて微笑んでくれたりなど絶対にない。

 仕方ないので珠子は昼は裁縫をして過ごし、夜は巻物を読むか琴をひくなどをして、いたたまれないのをごまかしていた。

 詔子との約束はまったく進行しないまま、年末に入った。

「惇長様の気まぐれには困ったものですわ。あちこち引っ張りまわされる私の身にもなってほしいものです。ただでさえ撫子の御方様の女房連中と、角付き合わせる毎日ですのに」

「ごめんなさいね」

 珠子は、一条に長い黒髪をくしけずってもらいながら謝った。

 惇長の言いつけで一条は別の場所に引っ越しさせられ、ぶつくさ言うのが日課になりつつあった。年も押し迫っていて、さまざまな用事で多忙な様子だ

「珠子様は悪くなどありません。珠子様も会われたでしょう? 撫子の御方様付きの中務。あれは私と同輩でございまして、何かと張り合ってくるんですよ。昨日なんか宮中でどんな殿方と付き合っているとか自慢するのです。うっとうしいったら」

「……一条もいろいろとお付き合いがあるのではなくて?」

「そりゃあございますけれど、私の場合、色恋はございません。……身分が同じでないと苦労しますからね」

「……そうね。でも、惇長様と……ふ、深い仲なのでしょ?」

 気にかかっていた事を珠子はずばりと言った。

 詔子に乗っ取られかけていた時、彼女の記憶に惇長と一条が共に褥に臥しているというのがあった。

 しかし、一条はなんでも無いとばかりに袖を振る。

「まあとんでもない。女主人のところに殿方を惹き付ける為に、女主人の女房が契るなど貴族社会では当たり前です」

「……苦しくないの?」

「ほほほ、文書で誓うものより遥かに重い意味を持つのですわ。口さがない庶民どもは浮かれ女のように申しますが、契る意味を知らぬ愚か者ですから仕方ありません。遊び女とは全く違います」

 櫛を置いて、一条は素晴らしい髪だと褒めちぎりながら袿の裾なども直していく。

「一条は好きな人はいないの?」

「おりませんよ。私は生涯誰とも結婚しませんので。里に帰りたいとも思いませんわ」

 まだ何か言いた気な珠子ににっこり笑い、一条は年若い女房に呼び出されて、急いで部屋を出て行った。

 珠子は脇息にもたれかかってぼんやりとする。昼間、一人で過ごすのがもはや日課だ。惇長のおかげで、うっとうしい男達が来なくなったからすこぶる平和でありがたい。

 一条のようなわりきった強い性格になりたいと、心底思う。

 昔は自分をそのような性質だと思っていたが、未練がましい恋慕でうじうじしている心を知った今では、とてもそうだとは思えない。

「心の鬼は、何もかもが欲しいとあらゆるものを喰い散らかすのね」

 恋する人の幸せを望みながら、少しでも自分を見てくれはしないかと思うわが身が汚らしい。恋とは知りたくも無い醜い心が雨のように降りかかり、それに濡れそぼちながら相手を想って震えるものなのだろう。恋に狂う者が熱を出してぼうっとするわけだ。

 大将の惇長は、内裏に出仕している時間が長い。

 一緒にいたら相手にされなくて苦しみ、いなかったら誰か他の女人と仲良くしているのではないかと、嫌な嫉妬が沸いてきてしまう。そんなふうに疑ったりなどする権利など、恋人ですらない珠子にはないのに。

 くさくさするので翠野でも弾こうかと思っていると、聞き覚えのある衣擦れの音がした。

「珠子姫はこちらですか?」

 中務だった。






 同じ建物に住んでいるのに、こちらは内裏の華やかな世界がそのまま移動してきたような煌びやかさだ。 

 珠子は正装に着替える暇もないまま、中務にせっつかれて大勢の人がいる寝殿に連れてこられた。

 前に居る貴人とは、当然、東宮妃である撫子の御方である。剛毅だと一条が大笑いしていただけあって、やることが常識の枠を飛び越えている。普通、彼女ぐらいの身分の者は、素性の知れない人間を傍に寄せつけない。

「お会いしたかったのよ、翠野を弾かれた方に」

「…………」

 直に話しかけられ、恐れおおくて珠子は俯くだけだ。大体、御簾も几帳もなしに、直に対面を許すなどありえない。

 後ろで一条がはらはらとしている。

 彼女にとって、惇長との関係を探られるのが一番困ることであろうし、東宮妃と惇長との間がどんな感じなのか、いまいちわからないのも不安材料だ。大切にしているのは間違いないが、気さくに交流しているのか、よそよそしく交流しているのかわからない。

 大体、惇長が出仕している間に呼びつけるのが怪しい。彼が庇ってくれないと、身分が格下の珠子は東宮妃からの誘いは断れない。一条も同じだ。

「とても口数が少ない方なのね。菜を育てたり、庶民のような真似をなさっていたと聞いていたから、もっと大雑把な方かと思っていたのだけれど」

 珠子が俯いたまま何も言わないので、代わりに中務が答えた。

「きっと大将に口止めでもされていらっしゃるのでは? 怖いですからね大将は」

「だから出仕中を見計らってお呼びしたのに。これでは変わらないわ」

 珠子は撫子の御方の美しい襲の色目を見ながら、早く惇長が戻ってくれれば良いのにと思った。じろじろと物珍しそうに眺められるのは不愉快だ。中務が目ざとくそれに気づき、すぐに人払いをして、あっという間に四人しかいなくなった。それでも変わらない珠子に、撫子の御方は言った。

「仕方ないわね、中務、一条、貴女達も下がりなさい。私は珠子様とお二人で話したいの」

 とんでもない言葉に、果たして一条が身分もわきまえずにいざり寄った。

「恐れながら、それは……」

「おだまり。私に逆らう気?」

「ですが、大将はっ」

「さがりなさい」

 ぱちんと東宮妃の檜扇が音を立てた。東宮妃の不快をこれ以上深めてはならない。

 珠子は、中務と不安そうに下がっていく一条を見やった。

 いよいよ尊い方と二人きりになってしまった。

 しかし、おどおどしているのは珠子のみで、撫子の御方は平然としている。この貴人は、惇長の女歩きをぴたりと止めた珠子に、興味しんしんなのだった。

 左大将の君が自分の屋敷に女を一人囲っていると、中務が御耳に入れてきたのはこの秋に入ってからだった。貝のように口が固い由綱から中務が苦労して聞き出したところによると、今年の春にどこかの落ちぶれた宮家からさらってきたらしい。正妻を喪ってから、ふらふらと女歩きを繰り返してきた惇長が大人しくなった時期とぴたりと重なる。さらに中務は、その姫を一条の妹ということにして、屋敷に住まわせているらしいと聞き出してきた。聞き出せたのは由綱が中務に言い寄っているからで、由綱はくれぐれも撫子の御方以外には言わないように言い含めてきた。御方にも、誰にも言わないようにお伝えしてくれとまで。

 そこまでひたかくしにされると、余計にその姫君が気になる。

 撫子の御方は人の事情を根掘り葉掘り調べるのは好きではないが、身内の、それも主上や東宮の覚えもめでたい惇長のこととなると勝手が違う。彼がおかしな姫に入れ込んでしまったりしたら、将来の政にも関わってきてしまうのだ。それほど惇長は世に重く思われている。

 将来、裏で内裏を回さなければならない立場の撫子の御方は、左大臣家の兄弟ひとりひとりを把握し続けている。姉の中宮から手ほどきも受けていた。

 そうこうしている間に呪にかかってしまい、とうに対面できていたものが今日になったのだった。

 

「……珠子様。私をご覧ください」

「恐れ多くて。お許しくださいませ」

「貴女は宮家の方と聞き及んでおります。ふふ、ご心配なく、それ位しか知らないわ」

「でも」

「そんなに私は醜いと思われているのかしら」

「いえっ、そんなことは」

「ならば構わないでしょう」

 珠子は扇をずらし、おそるおそる、ずっと落としていた視線をゆっくりと上げた。

(大将が入れ込むわけがわかるわ)

 撫子の御方は珠子の匂うような美しさに当てられて、静かにため息をついた。

 落ちぶれた宮家の姫君だというのでどんなに哀れな様子なのかと思っていたら、確かに儚げな美しさで危うい感じはするが、なかなかどうして芯がしっかりしている。恥ずかしそうにしてはいても、涙ぐんだり変に卑屈になって居直らないところもいい。

 一条の教育の賜物で、鄙びた所作はより一層影を潜めていたので、撫子の御方の目に珠子は適ったのだといえる。

 唐突に呼び出された人間は本来の姿を露呈しやすい。だから撫子の御方は、わざと惇長を通さずに強引に珠子を中務に連れてこさせたのだ。

(これならば大丈夫)

 撫子の御方は自然と笑顔になった。

「私の病を治してくださいまして、ありがとうございます。おかげさまでこのように元通りになりました」

 珠子は色鮮やかな牡丹を思わせる、目の前の艶やかで美しい女性が微笑まれて、圧倒されて何も言えなくなった。

 美しいだけではなく、楓紅葉の襲に重たげに黒髪がかかり、後ろへ緩やかに流している様はめでたいとしか言いようがない。御手にある檜扇の絵も見事で、撫子の御方はすみからすみまで磨き上げられているのだ。

(惇長様が大切にされているのがよくわかるわ)

「本当に口数が少ない方なのね。うふ。でもかまいません。大将が気にかけている姫だからさもあらんでしょう。あの人はうるさい女が嫌いですからね」

 それはよくわかる。一条があれこれ言うのを、渋い顔をして無視しているのをよく見かけた。珠子の顔色を読んで、撫子の御方は扇で口元を覆ってくすくす笑った。

「ですから……、あの堅物が囲っているという貴女が気になって仕方なかったの。でもどれだけ聞いてもすぐはぐらかされて、わかっているのは貴女が宮家の姫君で、妙に庶民に馴染んでいらっしゃる方ぐらい。小さな畑を庭にこしらえていらっしゃったとか、お裁縫が上手だとか……」

 はしたないと言われている気がして、珠子は顔を赤らめた。

「私もずっとそんな事をしてみたいと思ってたの。自分の手で菜が作れたらすばらしいだろうなとか思ってたから。姫君がする事ではないと叱られていたわ」

「……はあ」

 自分は生きる為にしているだけなんだけどもと珠子が思っていると、撫子の御方は、ふ……と自嘲めいた笑いをもらした。

「……だから、そんなところが大将は気に入ったのかなと思っていたのだけれど、それは私の卑しい勘違いでした」

 すうっと撫子の御方は真顔になり、まっすぐ珠子を見つめた。

「貴女は曇りの無い目で前を向かれ、俗世の垢に塗れてもなお純粋な心をお持ちの方。ですから、大将は貴女に心をとめられたのでしょう」

 撫子の御方は勘違いされていると珠子は思った。惇長の心はとうに遠くへ行っており、振り向いてさえくれないのに……。

「珠子様。私、ひとつ、提案がありますの」

 改めてかしこまった様子に、珠子は身構えた。

「きっと、貴女は私を呪詛した人たちに狙われます。殺されるか、利用されるかするでしょう。この手狭な使用人も少ない屋敷では、とても貴女を護りきれますまい。相手も力のある術師がついているようです、術にかけては彰親の君も優秀ですが、護れる者は多いほうがよろしいでしょう? ……ですから、私が年始めに内裏に戻る際、私の女房の一員として一緒についてきてください」

「そんなの無理ですっ」

 あまりにも突然すぎる言葉で、珠子は声を張り上げてしまった。

「もちろん内裏も安全ではありません。私も呪詛を受けておりますし。ですが、呪詛を破り、われわれの警戒が強まった今、相手もおいそれとは手を出せないでしょう。ましてや主上のあらせられる内裏では。それに大将も内裏に詰めている方が多いから安心なはずです」

「そうではありません。私は何も知りません。撫子の御方様についておられる方々は皆教養豊かな優れた方たちばかり。そんな中で私はとても……」

「一条も連れて行けばいいわ。まずい事や殿方との交流はみな彼女にまかせればいいの。第一そんな優れた人間ばかりではなくてよ……、歌が苦手な人、貴女がお得意な琴が苦手な人、誰だって完璧なわけではありません。私は琴と歌が大嫌い。披露されているのは実はみな中務の手のもの。本当に得意なのは蹴鞠なの。でも裳着の式を迎えてからはできなくて」

 撫子の御方は、笑顔を取り戻して笑った。

 珠子は上品な笑い声を聞きながら、一体どうしたら良いのか途方にくれた。いきなりそんな話を持ち出されても困る。自分と惇長の契約については言えないし、実家の無い珠子は全てが惇長に頼りきりだ。自分ひとりで決断などできやしない。

 そこへ聞き覚えのあるあの荒々しい足音が、どたどたと近づいてきた。惇長だ。

「まあ早速来たのね。教えたのは一条かしら……」---

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