第5話

「今朝はお静かになさっておいでですのね。昨日は、それはそれは、ご退屈そうにしておいででしたのに」

 朝、激しい痛みに、気持ち悪さや吐き気まで感じだした頃、嫌味女房が角盥(両手に持ち手がついている洗面器のようなもの、つのたらいと読む)を持って局に入ってきた。

 確かに昨日は、また退屈な日が始まるのかとウンザリしていた気がする。

 しかし、今日は身体中が悲鳴を上げているので、珠子はいつもの様な反撃は出来ず、熱い息を吐いた。

「まあまあ、ずいぶんお励みになったようで」

 嫌味女房は倒れている几帳を起こし、綺麗に立て掛けた。その几帳は、あまりに激しい惇長の愛撫に、恐れをなした珠子が几帳を掴んだ時に倒れたのだった。

「さあさ、いつまでも横になっているのは、はしたないことでございますよ」

 よろよろと起き上がった珠子を着替えさせようとして、嫌味女房はぎょっとした。まず小袖の上からでも熱が酷い。脱がせた小袖についている血と、その下から現れた幾つもの愛撫の跡に、今珠子がどれほど苦しいのか直ぐに察せられる。

 珠子の頬に涙が流れていく。

「……殿方というものは、皆こういうものなのかしら?」

「は……? それは……はないと思いますが」

 ぐしゃぐしゃの黒髪が肩から背中へ豊かに流れている様が、より一層珠子を哀れに見せた。

 身体が満足に動いてくれないので、小袖の帯すら満足に締められなかったのが、珠子は悔しくてならない。

「……私が歌が詠めないから、後朝の歌は省略ですって。 そして今日も明日も来れないんですって。別に構いやしないけど……あんまりだわ。上つ方はずいぶんなことを平気でなさるのね!」

「…………」

 さすがの嫌味女房も、惇長の横暴ぶりに珠子が哀れになったらしく、目をしきりに瞬かせて何も言えない。

 後朝の歌は早ければ早いほど良いとされるし、誠意の証とされる。逢瀬は三日間続けて通わなければ妻としては認められない。ただの愛人と言われるのだ。

 いくら期限付きの妻でも、さすがにこれはない。

「これだから雲の上の身分の男は嫌……。あんな方大嫌い」

 顔を覆って泣き始めた珠子を前に、嫌味女房は、今朝の惇長を思い出していた。

 珠子の局に来る前に、惇長の朝の支度を手伝ったのだが、彼も様子がおかしかった。

 まず必要以上に、自分と目を合わせようとしなかったし、何を話しかけてもどこか上の空だった。昨夜の事を聞き出そうとする嫌味女房を、振り切るかのごとくそそくさと支度を済ませて、由綱が寄越してきた車に乗ろうとして、何もない簀子で蹴躓き転びかけた。

 左近衛大将という身分らしからぬ、間の抜けた動きに、嫌味女房はわけがわからないまま、主人を見送ったのだった。

(確かにこれはあんまりななさりようだわ……)

 珠子が余りに可哀相で、女房の心に、ある変化が現れた。

「取り敢えずお身体をお拭きしますわ。お薬湯をお持ちします」

 その声は妙に優しく、珠子は黙って頷いた。


 一条に、身支度や朝餉を取るのを手伝ってもらいながら、珠子は夜明け前を思い出していた。

 目覚めた時、惇長の手が何度も何度も珠子の黒髪を撫でており、目線が合うと、惇長はさっと手を引いて小袖の帯を締めた。

 契りを結んだ翌朝、殿方を見送らないのは問題外だと路に諭されていた珠子は、あちこちの骨の内側からじんと来る鈍い痛みを耐えて見送り、惇長が出て行った後倒れるように褥へ横たわった。

(こんなに辛いものだとは知らなかったわ)

 人から聞く物語で、男女が契るのは夢のように素晴らしいものだと聞いていただけに、騙されたという思いが珠子の中で吹き荒れていた。

 でも一方で、

(好きでもない殿方と契約とはいえ結婚したから、それの罰なのかもしれない)

と、後悔の念にも駆られるのだった。途端、強引な惇長の手の動きや、唇の熱さなどが身体中に蘇ってきて、自分が恐ろしく汚らわしい物に思われた。

 今頃しまったと思っても何もかも遅い。萎えそうになる心を珠子は叱咤した。

 今の珠子に必要なのは生きる事だ。

 一年ぐらいどうだというのだ。そんなものすぐ過ぎ去ってしまうのだから、大人しくここで過ごしていたらいい。


 気が滅入る様な初夜で塞ぎこむ珠子を、嫌味女房……もとい一条が、何故か心を込めて世話をしてくれた。

 それまでは面倒くさそうに、惇長に言われたから仕方がないといった態度が見え見えだったのが、親身になって、あれやこれや尽くすあまりの変わりぶりに、珠子はいささか気味が悪い。

 しかし、身近な人間が親しくなってくれるのはありがたいものだ。

 身近な女房が味方になってくれないと、御簾内の奥深くで暮らさなければならない姫君生活は、やっていられないのだった。


 昼間は眠っている間に過ぎ、直ぐ夕方になった。

 今日は暖かな日で夜もそうであるかに思われたが、やはり肌寒くなり、夕餉を持ってきた一条が火桶に火を起こした。

「おかげんは変わりませんか?」

「少しまし……です」

 臥せっていても顔色はいい珠子に、一条はホッとしたように目を和ませ、手に持っていた螺鈿細工の文箱から美しい桜色の薄様の紙を取り出した。

「後朝のお歌が文机に置いてありました」

 おそらく一条は、今日一日中、惇長をせっついたのだろう。

 それにしても、夕方に寄越すとは。珠子は、軽く見られすぎている自分が酷く惨めに思えた。 

 臥せったままの珠子に、一条が字が見えるように広げて見せてくれ、ぱらりと広げられたそこには、闊達な勢いのある手蹟で、漢字がところどころに散りばめられている歌が書かれていた。

 珠子は女文字しか字が読めないので、そこだけ意味がわからない。一条が詠んでくれた。


『逢坂の関に流るる岩清水 言はで心に思ひこそすれ』


 言わなくても恋しいと思っているのですよという意味だが、しらじらしいったらない。ふざけるなと珠子は思った。言わなくても理解しろとは、ふてぶてしい感じがする。

 嫌な歌だ。

 しかし捉え方というものがあるようで、一条は、もっと奥深くを汲み取って欲しいという。

「惇長様は、お勤めに関してはとてもご立派ですが、色恋に関して不器用な方でいらっしゃいます。珠子様に対して、言葉を尽くせないのを恥じ入っておいでなのですよ」

 ものは言いようだなと、妙な所で珠子は女房の勤めの苦労を思った。

「返歌できないわ」

「私が代筆させていただきます。歌の詠み方はこれから教えて差し上げますわ」

 一条は字も歌も上手で、代筆をしょっちゅう受けるほどだという。険が取れた一条は、親しみやすい笑顔を浮かべる、世話好きな女だ。

 一条には悪いが、その歌の紙は燃やしてしまおうと珠子は思った。

 思ったより熱は続き、一週間ほど珠子は寝て過ごした。。




 熱が下がると、珠子は一条から手ほどきを受けながら、墨をすり、それを筆に含ませて習字をした。もともと珠子はその手の才能があったのか、すぐにまずまずの字が書けるようになった。

 惇長は宣言通り、初夜以降姿を現さなかった。完全に愛情など無いとわかっているが、どこか傷つくのを珠子は感じていた。

 それはおちぶれた宮家の姫の悲哀のようなものだ。きちんとした宮家の姫だったら、こんな扱いはなかったのだろうにと思わずにいられない。

「では、このお歌をお写しください。私は用事をして参りますので」

「わかりました」

 一条が出て行って局の中が静かになり、珠子が一人で文机に向かって練習していると、香の香りがした。

 文机の背後の几帳の影からだ。

「……誰かいるの?」

 局の入り口からは誰も入ってきていないはずだ……。珠子はおそるおそる几帳を捲った。

 やはり誰も居ない。

 気味悪いと思いながら、珠子は几帳を元に戻した。だが、嗅ぎ慣れない香の香りはわずかに残っている。

 そこへ、果物などを載せた盆を持って一条が戻ってきた。

「ねえ、この香は誰が使っているの?」

「は? 香とは? ここには珠子様と私しかおりませんが。珠子様のは梅香に少々他のものが混ぜてありますし、私は……」

「違うの、違う香りがするの」

 一条は、気のせいだろうと言って、再び出て行ってしまった。

 おかしいなと珠子が思いつつ、再び筆を手に和歌を作っているところへ来客があった。

「やあこれはこれは……、手習いをされているのですか?」

 珠子が文机から顔をあげると、彰親が几帳を押しのけて入って来る所だった。

 蘇芳(かなり濃い赤色)の束帯を着ていて、その色がなんだかこの男にはあまり似合っていない。

「……内裏から直接いらしたのですか?」

「これは。教養がないと思っておりましたがご存知でしたか?」

「束帯の色くらい誰でも知ってるわ。貴方は普通の陰陽師ではないの?」

 蘇芳の束帯の色を身につけられるのは、五位の者だ。ちなみに六位以下の役人達は、縹色(紺色の近い)を身につける。彼らは地下人と呼ばれ、蔵人と呼ばれる者達の他は昇殿を許されない。

 普通の陰陽師の身分ならその色なのだ。

 四位以上は黒で、貴族とは大体彼らのことを指す。昔はもっと色別があったらしいが、最近はこんな感じで色別されていた。

「普通の陰陽師ですよ。ただ、今は天文博士の任をいただいておりますので……、この先どうなるかはわかりませんがね」

「若いのに凄いわね」

「祖父の功績によりましてね……」

 僅かに彰親の明るい茶色の双眸が翳った。

 珠子は知らない。

 天文博士であるだけで、祖父の功績が素晴らしいだけで、彰親が五位をもらうなどありえないの事を。

 天文博士と陰陽師は、どちらも本来ならば七位だ。五位になれるのは陰陽寮では陰陽頭だけなのに、彰親が五位になれたのはその呪力がずばぬけているのもあるが、その彰親を自分側へ取り込み、敵方に対するけん制に利用する惇長の父、左大臣源実和の思惑が強く動いている。

 そんな実情を珠子は知らないし、彰親もそうなった経緯を話す気にはなれなかった。

 ずかりと文机の向かいに座った彰親に、珠子はとまどった。殿方をどうやってもてなしたらいいのかわからない。

 そんな珠子の当惑を、気にした風も無く、彰親は爽やかに微笑んだ。

「思ったよりお元気そうで安心しましたよ」

「……元気じゃないわ。でもいいわ。貴方達にはわかりっこないし」

 硯に筆を置いて珠子はぷいと横を向いた。

 彰親はくすくす笑って勝手に筆を取り、紙にさらさらと何やら書き始めた。書き終えると、文机を横に追いやってその紙を珠子に手渡した。

 男にしてはやや繊細な手蹟だったが、伸びやかで流麗ないい字だ。

「なに……? これ」

「まだ読めませんか? 毎日手習いだと一条が言っていましたが」

「……女文字なら読めるけれど。漢字はまだ少ししかわからないわ」

「失礼。漢字を入れてしまいました……。読んで差し上げます」


『忘れじの ゆくすえまでは かたければ 今日を限りの命ともがな』


 声に出して言われた恋の歌を聞いて、珠子は顔を赤くして袖で隠した。

 この恋の絶頂で命尽きてしまいたい……とは、聞いていて恥ずかしくなる。

「惇長殿が、後朝の歌を詠まなかったそうですから、私が代わりに詠んでみたのですが、気に入ってもらえた様でよかった」

「違うわ。歌ならいただいたわ。それより恥ずかしくないの貴方」

「恥ずかしい? 宮中ではこれぐらい当たり前です。気にいらないというならもっと激烈なの……」

「わーっ! いりませんいりません!」

 思わず珠子は彰親の口元を袖で押さえつけてしまい、目を瞠った彰親にはっとして、慌てて袖を離した。

「なあんだ、姫も私が好きなんですか。これはやりやすい」

「は?」

「私も姫が忘れられないんですよ。ですから……」

「私は惇長様と一応結婚しましたので」

「契約でしょ?」

「そ……けいや……え?」

 不思議そうな顔をした珠子に、彰親は何でもなさそうに笑った。

「惇長殿と私は身分を飛び越えた親友でしてね。筒抜けです」

「……そう……な……の?」

「そうです」

 青みをおびた茶色の瞳でじっと探るように見られているが、珠子は袖で顔を隠してしまったので気づいていない。もうからかう気配は消え、彰親が静かに言った。

「……珠子姫。この局、何かおかしい事はございませんか?」

「え?」

「一応私が結界を張っていますが……」

 珠子はさきほど感じた人の気配を言おうとしたが、口をつぐんだ。

 まだこの彰親という男は信用ならない。惇長と親しいのは確かでも、契約の事を探っているだけなのかもしれない。うかつに話して惇長に何かあったら、あんな痛い思いをした契約がすべて無駄になる。

「……別に、何も」

「本当に?」

「ええ」

 珠子は押しのけられてしまった文机を、再び自分に引き寄せた。痛いほど彰親が自分を見ているのを感じる。

「姫は、本当に穢れない魂のままだね」

「もう汚されたわ。屋敷に来た数日後に」

「身体じゃないよ、心」

「これからの為に魂を売ったようなものだわ……」

 顔をさらに背けた珠子の黒髪がさらりと流れた。

 それがなんとも艶めいた女ぶりで、彰親は引き寄せられるように珠子の身体を抱き寄せた。

 珠子はため息をつきながらも逆らわなかった。出会った日に暴れまわっていた珠子は、どこへ行ったのだろうと、彰親は不思議に思った。

「逆らわないの?」

「逆らって止めてくれるのなら、逆らうわ」

 一条から、やたらめたら暴れまわるのは、品の無い女のする事だと言われている。正直言って馬鹿らしいと思うし何かあったらどうするのかと思うが、どのみち重ねられた袿の重みで逃げられそうもい。

 大人しくしているに限るになってしまうわけだ。

「ふふ、深窓の姫君らしくていいね」

「ちょ……」

 素早く唇を奪われた。

 途端、女の悲鳴が頭の中に響き、珠子はびっくりして身体を固くした。

「妖が憑いていました」

 唇を離した彰親がにやりと笑い、珠子は、ばっと離れて再び顔を背けた。

「私は珠子姫の味方ですよ。隠し事は無しにしてほしいものです」

「接吻で妖を祓うなんて聞いた事無いわ」

「いろいろな方法があるんですよ。そうやって意地をはる姫も可愛いですね。それより怖いのを我慢しているともっと怖い妖が来るかもしれませんよ?」

「なによ。あのボロ屋敷に住んでても妖なんか怖くなかったわ」

 その時、文机の几帳の後ろから音がして珠子はとびあがった。

 がさがさと何かを探す音と……細い声。

 怯える珠子に、彰親はくすくす笑った。

「そうら、妖が見えるようになってしまったのかもしれませんね。私と接吻するとそういう事があるのですよ」

 冗談じゃない。

 そんな力はいらない。

 震えている間にも、物音が大きくなって近づいてきたので、恐ろしさの余り珠子は彰親に縋り付いた。

「馬鹿! ……変な事言ってないでなんとかしてっ」

「私には何も聞こえませんが?」

 自分にだけ聞こえている?

 そんなのは嫌だ。

 恐怖でどうにかなりそうだと思いながら、必死に彰親の袖にしがみついていると、細い声がさらに大きくなった。

 そして……。

「え?」

 なんと几帳の影から出てきたのは、黒と白の斑模様の子猫だった。

 唖然と、擦り寄ってきた子猫を見ている珠子が、余程おかしいらしく彰親が吹き出した。

「ぶっ……はっはっは! 面白い方だ!」

「騙すなんてひどいわ」

「その猫は私からの贈り物ですよ。可愛いでしょう?」

 子猫は可愛いがこの男は可愛くない。

 気まずくなった珠子が離れようとすると、却って強く彰親に抱きしめられた。

 怖さが霧散した今は、さすがにこれは良くないと珠子は当惑し、馴れ馴れし過ぎる彰親が嫌になってきて、珠子はつんとすました。

「契約ですけど一応結婚してます。ああ、愛人みたいなものかしら。でも、そんな女でも、こんな所を他の人に見られたりすれば、浮かれ女と言われてしまいます。出て行っていただけますか? 子猫は大切に飼わせていただきますわ」

「惇長殿は手を出してもいいとおっしゃっておいででしたが。なんなら、時空をひねって愛の園を作り上げましょうか?」

「じ、時空を捻る?」

 眉をひそめた珠子に、彰親はくすくす笑った。

「私が、五位をいただいている理由の一つは、この力のせいですよ」

「…………」

「兄の哉親なりちかはそれが気に入らないらしいし。まあ当然ですよね、陰陽頭である兄と同じ五位なんですから……」

 傷ついた少年の顔をして彰親が微笑んだ。

 珠子は、男がこんな風に自分をさらけ出すところを見たのは初めてで、なんと言ったらいいのかわからない。

 彰親はそんな珠子をじっと見つめる。その清らかに見える眼差しから、また珠子は目が離せなくなった。

 子猫が珠子の袿の裾に寝転がった。

「姫は、命は皆同じ重さだといいましたね? 私もそう思います、だけどその種類は多岐に渡り、運命もまた同様です。白い命があれば黒い命もある。白が一般的な世界に黒い命があったら……、黒い命がいかに苦痛かわかりますか」

 局の中は静けさに満ちていて、それが珠子を息苦しくさせた。

「祖父、晴明せいめいの母が狐だという噂があります。祖父の調伏の力があまりに並外れていたから、立った噂です」

「…………」

 彰親は、黒と白の斑模様の子猫を優しく撫でて笑った。

「私は祖父譲りの呪力がありましてね、そして猫好きなものですから猫の子供だそうですよ。母は私を産んで直ぐに亡くなったので好き勝手に言われています」

 どうも怪しい……。

 傷ついているそぶりの彰親を見て珠子はそう思った。

 この男は直ぐに女に手を出すふてぶてしい性格のはずだ。

「男の癖に泣き言言わないでくれる? 聞き苦しいわ」

 彰親は残念という風に肩を竦めた。

 さっきまでただよっていた悲壮感が、見る間に消える。

「これを言うと大概の女人は落ちるんですけどね、残念」

 からかわれたのだと気づいて腹を立てた珠子は、置いておいた檜扇で彰親をぶん殴ろうとした。

 それを察した彰親は、軽やかな身のこなしで後ろにさがり、子猫がびっくりして文机の下に隠れた。

「ま、惇長殿にあんまりな振る舞いされたら、この子猫を置いておきますから言いなさい。すぐに駆けつけます」

「死んだって言うものですか!」

 彰親はさらりと優雅に立ち上がり、笏を口元に当ててにやにや笑った。その仕草には、妙な魅力が溢れていて珠子はますます苛立った。

「初夜は、几帳を倒したりしてすさまじい閨だったそうですね」

「破廉恥な方ね! どちらからご覧になっていたの!」

 彰親は行為後すぐに局を訪れていたが、それは口にしない。

「おや当たってましたか? なんとなく貴女の感じで行くとそうかなと思いまして」

 頭にきた珠子は檜扇を彰親に投げつけたが、彰親がひょいとかわしたので、扇はそのまま几帳の向こうへ派手な音をたてて落ちた。

「じゃあね、がんばって、姫」

「貴方にだけは言われたくないわっ! もう二度と来ないで!」

 はははと妙に明るい声で笑いながら、彰親は局を出て行った。


 入れ違いに入って来た一条が、落ちていた扇を拾って、髪を振り乱して座った珠子に注意した。

「彰親様がいらしてたのですね。なにか乱暴な言葉をお使いになってはいないでしょうね」

「乱暴なのはあちらよ。私が悪いんじゃないわ」

「こまった事」

(こまってるのはこちらだというのに!)

 一条がこめかみを押さえるのを横目で見ながら、珠子は心の中でぶつぶつ文句を並べた。

「今夜は惇長様がお渡りですからね。粗相の無いようになさりませ」

「……なんで今頃」

 嫌そうな顔をした珠子に、一条は苦笑した。

「惇長様は、東宮からの御召しで、しばらく東宮御所に詰めておいででしたからね。珠子様のところどころか、この屋敷にもお帰りになれなかったんですよ」

「はいはい。形ばかりの妻ですから。愛人にすらなってませんけど」

 またあの痛いのをされるのかと思うと、愚痴でも言わないとやっていられない。

 できる事なら回避したい。

 でも、契約結婚をしている以上、珠子は惇長には逆らえない。


 夜になり、惇長が現れる頃、珠子はまたあの香が香るのを感じた。

 子猫も感じたらしく珠子の膝に乗る。

 やはり何かいるのだ。

 それは、狩衣姿の惇長が現れるのと同時に、気配を消した。

 子猫は惇長に驚いて隅へ逃げ、暗闇の中から緑色に目を光らせる。

(一体……なんなの?)

 背筋がぞくりとした。

 しかし、惇長は何も感じないらしい。

「放ったらかしにしてすみませんでした。お寂しくはありませんでしたか?」

 珠子の直ぐ横に座り、袿をそっと脱がせてくるので、珠子は慌ててその手を止めた。

「なんですかいきなりっ」

 しかし大きな手は、帯を解いて小袖の前を割り、滑るように直接肌に触れる。あまりの早業に呆れながらも、珠子は身体を捻って再び止めようとして失敗し、却って前がはだけてゆく。

 どうしてこの男は、なんの話もなしに、いきなり、あの痛い事をしようとするのだろう。

「拗ねていると、一条が言っていました」

「拗ねてないわ。こんな事はもうしなくていいの!」

「変わった女だ。しおれているかと思ったら、そんな強がりを言う」

「他に女の人がいるんでしょ? そっちに行ったらいいじゃないの。あ……んんっ!」

 珠子は、惇長に肩に吸い付かれながら寝床に倒された。

 すると再びあの香が香る。

 今度はざわりと空気が動いた。あきらかに異質な気配だというのに、やはり惇長は気づいていないようで、そのまま珠子に深く口付ける。

「何か……いるわ」

「誰もいない。気のせいだ」

 忘れていた愛撫に、身体をのけぞらせながら珠子が首を振ると、黒髪が波打って広がった。

 絶対にいる。

 確実に何かがいるのに、何故誰も気づかないのだろう。

 珠子の熱を上げていきながら、惇長が優しく珠子の頬を撫でた。

「休みが取れたので、近江にでも行きましょうか? とても大きな湖がある……見た事が無いだろう?」

 誰かが惇長に抱かれている珠子を見ている。

 子猫が警戒するように繊細な声で鳴いた。

 その夜は惇長が何度も求めてきて、珠子はほとんど眠れなかった。

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