空白な短編集/ショート・ショート

Benedetto

飛び降りた男

「な、何を考えているんだ! す、すぐにこっちへ戻ってくるんだ!!」


「放っておいて下さい! 僕は死にたいんです! 死なせてください! 貴方には関係のないことです! 僕の人生は僕自身が決めます! 生きるも、死ぬも!」


 屋上の手すりの向こう側にいる少年の言葉には勢いがあった。黙って聞いていると、自然とその勢いに気圧されそうになる。


「し、しかし、君にもご家族がいるだろう? 彼らを悲しませることになるのではないか。それに君はまだ若い。人生はこれから始まるのではないのか?」


 私は自分でも陳腐な台詞だと思いながらも、説得を試みた。


「僕に家族はいませんよ……。何も始まりません。だから、もう放っておいて下さい……」


 少年の言葉に勢いはなく、さっきとは打って変わって今度は静かに呟く様に言った。

 それでもその小さな呟きは、私の耳にはっきりと届いた。


 私は一瞬、彼の方を見て微笑む。そしてゆっくりと歩を進めた。


「こ、来ないでください!」


 怯えたような声を絞り出す少年。


「……だったら、私が君の代わりに死のう。だから、君は、生きろ!!」


 そう言うが先か、私は手すりをまるでアクションスターのように軽く飛び越えると、少年の隣に立った。


「お先に失礼しまーす!!」


 驚く少年を横に、私は飛び込みの選手のように奇麗なフォームで屋上から飛び降りた。

 私の瞳には、驚いた少年の表情が逆さまに映っていた。

 そして、それはみるみるうちに小さく、遠くなっていった。


 これが、私の最後の記憶となるのだろう。


 誰もいない屋上。人生を終わらせるには打ってつけの場所だった。

 しかし、まさか先客がいるとは夢にも思わなかった。


 気がつくと、私は先客である少年を無視することが出来ず、先に声をかけていたのだ。


 少年の人生に何があったのかは分からない。

 あのあと彼は、思い留まったのだろうか。それとも私のあとを追いかけたのだろうか。

 お先に失礼してしまった私には知る由もない。

 

 私は密かに、そして切に願う。あの少年が思い留まり、生きる道を選ぶことを。

 見ず知らずの私が代わりに死んだことで、彼の死ぬ気がすっかり失せてしまうことを。


 そしていつか、あのとき死ななくて良かった、生きていて良かったと考えてくれることを。


 そうすれば、こんな私の人生でも、最後に誰かの役に立つことが出来たと思えるのだから……。


 人生は意外に長いようで短い。そして、死を迎える瞬間。これは、意外に長い。


 落下中、飛び降りた建物の窓が一つずつ、ふと私の視界に入ってくる。


 それぞれの窓の内側では、それぞれの生活が営まれているようだ。


 ある部屋では、カップルが何やら言い争っている。


 ある部屋では、母親が子供と一緒にテレビを観ている。


 ある部屋では、男がノートパソコンに向かって何かを打ち込んでいる。


 飛び降りた私は、地面に到着するまで多くのことを考えることが出来た。


 子供の頃のこと、初恋のこと、そして失恋、海外へ初めて旅に出たこと、恋に落ちたこと、そして失恋、仕事のこと……などなど。


 そして、何故私が人生を終わらせようしたのか、その理由を考え始めた……。


 しかし、何度思い出そうとしても、死のうとした理由だけは思い出せなかった。確かとても辛いことがあったことだけは、しっかりと覚えていたのだが……。


「……何故だ? 何故、思い出せないんだ?」


 私は思わず呟いた。そして焦りを感じた。


 しかし、現実は非常だ。地面は容赦なく近づいてきている。

 それでも、まだ理由がはっきりと思い出せない。


 重力に引き付けられているせいなのか、私の頭の中は段々とぼんやりとしてきた。まるで夢を見ているかのように……。


「まるで夢を見ているかのように……」


 そう声に出して言った瞬間、私は目が覚めた。目が、覚めていた。


 目覚まし時計がけたたましく鳴り、窓からは強い太陽の光が差し込んでいる。


 私はベッドから起き上がると、ノートパソコンを開いて先程の夢を忘れないうちにタイプし始めた。


 時計を横目で確認する。まだバイトに行くまで時間がいくらかあった。


 何故か気分がすこぶる良かった。一時的に書けないスランプなど、全く気にならなくなっていた。


 いずれ私は素晴らしい小説を書きあげて有名になるだろう。


 そして、家族のいない私でもいずれ素敵な女性と出会い、新しい家族をつくるだろう。


 これから素晴らしい人生が始まる、私はそう確信している。

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