紂王と妲己

水城洋臣

殷の紂王

 黄河こうが流域においておよそ六百年続き、周辺諸部族を支配したと言われるいん王朝。その殷が西方のしゅうによって滅ぼされたとされるのが紀元前一〇四〇年ごろとされています。

 その周王室が八百年続き、その間に周辺の冊封国が互いに争う春秋戦国の世が来て、その中からしん始皇帝しこうていが生まれた事で中華というひとつの文明へ固まっていくわけです。


 そんな紀元前の古代国家である殷の最後の王は、史書においては帝辛ていしんと呼称されますが、姓名は子受しじゅと言われています。


 後世には一般的に紂王ちゅうおうと呼ばれていますが、「紂」という字は「義を損ない、善を損なう」という非常に悪い意味があるので、あくまで殷が滅びた後、周によって付けられたおくりなとされると言われています。

 しかし人によっては「紂王の存在があったから「紂」という文字にその意味が付いた」という、因果関係が逆と主張する人もいます。その場合なら生前から紂王と呼ばれているべきとなります。

 考察文では紂王、再現小説の文中では子受で統一します。


 さて、殷の第三十代の王位に就いた紂王は、容貌は美しく、頭も良く、弁が立ち、さらに戦上手と伝えられ、非常に能力の高い王であった事が伺えます。

 しかしそれゆえに、彼は周囲の人間が自分より劣って見えて仕方がなかった事が容易に想像され、高い能力が皮肉にもその傲慢な性格を形作ってしまったというわけです。

 更にそうした、周囲の者が全て無能に見えてしまう傲慢さは、逆に言えば人を見る目が無いわけですから、佞臣ねいしんを重用してしまったり、忠臣を軽んじてしまう事も多く生じてしまった事が予想されます。

 現代的な視点で考えれば、少なくとも善人・聖人の類では無いのは確かでしょう。


 ただここで考えるべきは、紂王は本当にほどの暴君であったのか否かであり、ここまでなら、特に紀元前古代国家の君主であるならば、世界を見回したってタイプの君主でしか無いですね。似たような人格であっても名君と呼ばれる君主は山ほどいます。






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