第36話

「君は私がずっと戻らなかったことはどう思っているかい?」

「いえ、まあ、その…… 噂話では、向こうでご結婚なさって、……その、お祖父様が反対なさって、どうのこうの」

「そう。実際もう帰るもんか、と思っていた。向こうでの妻とこいつとの生活には張りがあった。……のだが」


 伯父様は言葉を切った。

 そして少しの間、杖を握った手に力を込めた。


「楽しかった生活はほんの数年だった。向こうでは当時、何かと反乱が起き、住んでいる地域によっては英国人だということで目をつけられ、命を狙われることもあった」


 色々あったらしい、という話はあっても、当事者の口から聞くと印象は違う。


「とは言え、私達が暮らしていた地域は穏やかだった。地域はな。ただ、そうでないところから流れたり逃げてくる者も居た」

「では、その反乱の中で、ハイロール男爵家の一族の方々は……」

「いや、それはまだ判らない。元々のあの一族の一部と顔を合わせたこともあるが、私が結婚した時点ではまだ皆無事で、陽気に古代の美術品を調べたり、溢れる自然を絵にしたり、向こうならではの楽器を会得しようとしていた」


 なるほど、具体的にはそういうことをしていたのか。


「ただ、彼等と連絡が取りづらくなって、向こうでは大変なことが起こっているのかもしれない、と思ってはいた。その間に、こいつが生まれたりもしたんだが」


 サウルの方が伯父様は見る。


「そう、私達は比較的のどかに暮らしていたんだ。ところがある日、そいつが現れた」


 そいつ、と皆口の中でつぶやいた。


「のどかな昼下がりだった。皆暑さで昼寝をしている様な時間だ。そんな中、ふらふらになった男がうちの井戸から水を汲んでがぶ飲みしていた。そこにちょうど妻が水を汲みにやってきた。妻はその男が白人であることに気付き、私を呼びに行こうと背を向けた。ところがその時、男は妻を追いかけて、その場に引き倒した。壺が割れる音がした。妻の悲鳴もした。慌てて私は外に出た。すると妻が、目の前で……」


 彼は両手で目を覆い、ぶるぶると頭を振った。


「男の目は何処か正気を無くしている様だった。私はそいつをひっぱたき、妻をめった刺しにしていたナイフを取り上げ、もみあった。私はそいつの手から何とかナイフを取り上げると、奴の左手に切りつけた」


 え、と私は顔を上げた。


「だがそれは利き手ではなかった。奴は私に突進してきて、再びナイフを奪うと、今度は私の膝の真ん中に刺してきた。叫び声にこいつが出てこようとしたが、来るな、と止めた。そのうちに、そいつはその場から逃げていった」

「父はその時の傷のせいで、足の神経がやられたんです」


 サウルはそう話す。


「私はあの男の顔を忘れなかった。しばらく傷のせいで寝込んでいても、妻の死に顔と、狂気に満ちたゲルマン人の顔を思い出すと吐きそうになった。身体は何とか動ける様になっても、気持ちはそうはいかなかった。――そんな時、医者が本国から来た新聞を気晴らしにと見せてくれた。何でもあの浮かれ一家の生き残りがいたとか何とか。ところが、その写真の中で笑っているのは、――奴だった」

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