十七話 小猫と少女と小樽のガス燈

「さあ、入って」

 方丈凛々子は、三号室の玄関ドアを開けた。


 麻利絵は膨らんだ胃を引っ込めつつ、中を覗き込む。

 だが、真っ暗だ。


 口をへの字に曲げ、大家の端正な横顔を眺める。

 空気はひんやりとして、室内は何の気配も感じない。

 だが、この空気は――お寺の納骨堂に似ている。

 荘厳で、涼やかで、この世のざわめきから解き放された場所に。


「あの……大家さん。ここは空き部屋なんですか? それより、タクシーを」

「迎えなら、この中におります。残念ですが、私はこのアパートから動けないので」


 方丈凛々子は、グイっと麻利絵の背を押した。

 思いも寄らぬ力で、麻利絵はつまづくように暗闇に飛び込む。


 ――ひどいじゃないですか!

 抗議しようと振り返ったが――背後には、何も無い。

 ドアも消え、窓も見当たらない。

 闇だけが広がっている。


「ええええええええ!?」


 周囲を見渡し、闇の濃さにブルッと震える。

 何が起きたのか、理解が追い付かない。

 

「大家さん、どこですか!?」


 叫ぶが、返事は無い。

 豚重を食べて睡魔に襲われて眠り、夢の中に居るのか。

 それとも、豚重にヤバイ薬でも混ざっていたのか。


「ど、どうしよう!?」


 うろたえ、足踏みして、必死に考える。

 そして、ショルダーバッグに気付く。

 家を出る前にカーディガンを引っ掛け、財布とスマホを詰めて引っ掛けたのだ。


「ど、どこなの!?」


 スマホを取り出し、『闇尼僧』の待ち受け画面を出す。

 しかし直ぐに消え、真っ黒になり、如何なる操作をしても何も映らない。

 ライトも点かない。


「うあああああ……神さまぁ……」


 半ベソ顔で、スマホをバッグに戻す。

 こんな訳の分からない場所で遭難するとは――。


「誰か居ないの? 返事をして!」


 足元を確かめつつ、ヨタヨタと歩き出す。

 踏みしめた感触から、地面は舗装されていないようだ。

 用心して四つん這いの姿勢になり、進み始める。


「ああ……スウェットに着替えていれば良かった……」


 安くはない通勤用のパンツを履いたままなのが仇となった。

 帰宅して直ぐに着替えていればと後悔したが、後の祭りだ。

 しかも、胃が膨れていてキツキツである。

 

「……大家さん、ひどいです……ううっ……」


 この世とも思えぬ場所に放り出され、涙が止まらない。

 だが……

 



「……にゃん……?」

「……猫ちゃん!?」


 麻利絵は、耳を澄ませる。

 どこからか、猫の鳴き声が聞こえた。


「……ミゾレちゃん? レオちゃん?」


 大家の飼い猫たちの名前を呼ぶ。

 とにかく、自分以外の生き物が居た。

 鳴き声は、途切れ途切れに響く。

 首輪の鈴の音も、可愛らしく鳴る。

 


「猫ちゃん、そこに居て……ん?」


 ――近くに、街灯らしき灯りが見えた。

 二つの、ぼんやりした灯りが並んでいる。

 小樽運河通りの、古いガス燈に似ている気がする。


 喜び勇んで立ち上がり、それでも慎重に歩を進める。



 やがて、街灯の全容が見えた。

 小樽で見たガス燈とそっくりで、二つに分かれた支柱に、ランタンが取り付けられている。

 その下には、人力車が停車している。

 車夫らしい男性も佇んでいる。


「……マジ、ここ小樽?」


 麻利絵は、大学時代の小旅行を思い出す。

 友人と小樽に行き、中世のドレスを着て写真を撮り、人力車にも乗った。


 けれど、あのアパートのドアから小樽に移動するなど有り得ない。

 何かに化かされているのでは、とすら思う。


 小泉八雲が書いた『むじな』なる怪談がある。

 のっぺらぼうを見て逃げ出した男が、蕎麦屋の主人に助けを求めたら、主人ものっぽらぼうで、最後に蕎麦屋の灯りが消えた所で、物語は終わる。



(まっ、まさか……あの車夫がのっぺらぼう……)


 麻利絵の足がすくむ。

 どう考えても、ここはマトモな場所ではないと思い直した。

 猫が居たとしても、化け猫かも知れない……。


 

「先生、そろそろ行くよ」

「ひええええええっ!!」


 いきなりの掛け声に、麻利絵は飛び上がる。


「ふえっ、ふぇ……ふぁ?」


 ――見ると、そこには少女が立っている。

 

 中学生ぐらいだろうか。

 くっきりした大きな瞳は、明るい茶色だ。


 髪は、腰まで届く薄いピンク

 紺色のセーラーカラーのトップス。

 カラーの下で結ばれた水色のリボン。

 膝丈のバルーン型の紺色のブルマー。

 黒タイツに、黒のショートブーツ。


 見慣れない衣装だが、アニメのコスプレだろうか――

 麻利絵は目を細めて、少女を眺める。

 すると、少女は微笑んだ。


「ああ、この服? 百年以上前の、女学生の体操服だよ。可愛いから着てみた」

「……あなたは……」


「フランチェスカって呼んで。それより、華都はるとおにいちゃんを探しに行こう」


 少女は、後ろに回していた右手を差し出す。

 その手は、タブレットを持っている。

 そこには、地図が表示されている。


「上の世界でも、捜索が始まってるよ。さあ、乘ろう」


 フランチェスカは小走りに――猫を思わせる動きで、人力車に飛び乗った。

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