第二章 2

 目覚めたとき、最初に目に映ったのは、薄明の空に浮かんだ白い月だった。どうして月が……と思うのとほぼ同時、ティセは跳ね起きてリュイの姿を探した。果たして、バンヤン樹の下にリュイはいた。ほうっと胸を撫で下ろしたら、早朝の冷気が肌に染みた。

 リュイはすでに火を熾し、白湯を沸かしていた。温かそうな湯気が微風にたなびいている。跳ね起きたティセに対し、やはり少しも反応を示さない。今日も無視を決め込むつもりだ。ティセは舌打ちをしてから、拳をきつく握り、つらい一日を覚悟する。

 昨日同様、取り憑かれたような速さでリュイは歩く。ティセはその背中を睨めつけ、口のなかで呪いの言葉を吐きながらあとを追う。田畑を、集落を、なだらかな坂道を、ふたりは一陣の風となって過ぎていく。過ぎるだけ、通り過ぎるだけで、ティセはまわりの景色などなにひとつ眺めていない。そんな余裕は蚊の涙ほどもない。歩けば歩くほど、前を行くリュイの大きさに視野が収斂されていくようにすら感じた。

「ちっきしょう、こんちきしょー……っ!」

 認めさせた暁には覚えてろよ、とティセは仕返しを誓う。



 昼どき、リュイはとある村はずれに立つ食堂へ入った。でっぷりとした老婦がひとりで切り盛りしている小さな店だ。軒下に設えられた土製の竈の横に質素な食卓がひとつ、木造の小屋の内部にはふたつ。開け放たれた戸口の横にある台の上に、煤けた鍋が数個並んでいる。店内にはなんの装飾もなく、壁は木肌をさらしている。客はいない。リュイは店内の席へついた。当然、戸口に背を向けて座った。

 ティセは戸口の手前に佇み、なかをそっと窺っていた。自分も軒下の席で昼食を取ろうかと思案しつつ。すると、ティセに気づいた女将が、リュイに定食の盆を差し出しながら、リュイへ尋ねた。

「あら、あんた、あの子は連れじゃないの? ひとりで席について、いやだねぇ喧嘩でもしてるのかい?」

 リュイは静かに、けれどはっきりと答えた。

「いえ、知りません。僕はひとりです」

「……っ!」

 しらじらしいほど落ち着いた口調だ、ティセは頭に血が上り一気にいきり立った。例の作り笑みでも浮かべているに違いない、咄嗟にそう思うと、あの作り笑みが目の前によみがえった。場を和ませるための笑みなのに、愛嬌も愛想も感じさせない、どこかひやりとするような微笑だ。小莫迦にしやがって……あまりの腹立ちに身悶えた。

 ティセは店内へずかずかと入って行った。荷物をどさりと床へ降ろす。そして、リュイの真向かいの席にドカンと座った。怒りで目を据わらせて、正面からリュイを捉える。ひとしきり据わった目を向けたのち、ぽかんとしている女将へ向かってことさら威勢よく、

「おばさんっ、定食一丁っ!」

「なんだねぇ、やっぱり喧嘩してるんじゃないかい。はいはいお待ちよ、ただいま」

 目の前に座ったにも拘わらず、リュイは顔色ひとつ変えない。目を合わせない。視線を盆へ落として、長い指でオクラと豆の煮物を白米に混ぜながら、淡々と食している。

 惣菜はすべて作り置きなので、ティセの盆もすぐに運ばれてきた。ティセは真向かいから射殺すようにリュイの顔を凝視しつつ、同じ定食を掻きこんだ。頭のなかで「うぎぎぎぎ」と唸り声を上げて、一心不乱に睨まえた。リュイは意に介さない。涼しい顔をしている。ティセのためには眉ひとつ、目元ひとつ動かさない。たまに盆から目を上げることがあっても、ティセの姿はまるで映らないかのようだった。そして、ものを食べるという行為におよそ似つかわしくない、怖ろしくきれいな顔を保ったまま、美味いも不味いもないように一本調子に食べている。

 手つきはやはり無駄がない、迷いがない。食事の作法にはどことなく品があった。けれど、食べる量も上品かといえば、決してそんなことはなく、食べ盛りの十五歳が必要とする以上の、目を瞠る量の白米をたいらげていた。食事が終わっても、ひとがするような満ち足りた表情も見せない。食べ終わるまで、ティセはいちども目を逸らさずリュイを睨み続け、リュイは完全にそれを無視しとおした。ティセはもう、いろいろなことが信じられない。

 リュイから目を逸らさず食べたため、ティセは著しく食べ散らかしていた。盆の上はもちろん、食卓の上、膝の上、床の上まで飯粒が汚らしく散らばっている。対して、リュイはひと粒の米さえこぼさず、空いた盆の上はもの静かに秩序を保っているふうだった。女将が対照的なふたりの様子を不思議そうに眺めている。天下無双の、鮮やかさ極まる無視だった。ティセは卒倒するほど腹を立てながらも、敬嘆に値する、と呆れ返った。

 なにもなかったように店を出たリュイの後ろ姿へ向かって、ティセは叫ぶ。

「ちっきしょー! おまえなんかロバに蹴られて死んじまえーっ!」

 思わず叫んではみたが、声がその耳に本当に届いているのか、すでに疑わしい。



 この夜も昨日同様、小さな村の休耕地に過ごした。到着後、やはりティセは「死んだー……」とつぶやいて草の上へ倒れ込み、リュイは休むことなく夜の準備を始めた。

 辺りはすっかりと闇に包まれ、空は星々をたたえている。ティセは毛布にくるまり、リュイがそこにいるかを気にしながら、全身の疲労を耐えていた。二日間、荷物を背に全速力で歩きとおすという無茶な行程に、ひと一倍の体力と根性をもつと自負するティセも、さすがにこたえていた。疲れすぎて眠れないのは生まれて初めてだった。それでもまだ、ティセの心は折れていない。強い決意は古代神殿に立つ方尖塔のように、いまもまっすぐ胸の内にそびえている。けれど、方尖塔を掠めるうっすらとした不安の靄は、昨日よりもその色を濃くしていた。

 昼間のできごとを思い出す。とにかくすごい無視だった。いま思い返しても信じられない。心から拒否しているのだと身に染みて分かった。あんなふうに振る舞えるリュイの意志と精神力の強さに、ティセはほとんど戦いていた。もしや大物か、と思うほどだ。リュイが折れるまで予想以上の長丁場になるかもしれない、そう考えると不安の靄はさらに深く立ち込めて、真っ暗な気持ちになった。

「いやいやいやっ! 負けてたまるかっ……」

 毛布のなかで首を振る。家から持参した平パンは夕食に食べきってしまった。明日はどこかでなにか買わなければならない。あの速さで歩きながら、目を離さず買い物ができるだろうか。昼休憩が店のある場所ならいいけれど……ティセは明日を気に病み、毛布のなかを憂慮でいっぱいにした。明朝、リュイがそこにいなかったら……昨日と同じことを思いながら、今晩もまたうつらうつら眠りについた。



 懸念をよそに、明朝もリュイはそこにいた。ティセはほうっと安堵の溜め息をついた。やはり白湯を温めている。そして、跳ね起きたティセには反応しない。白湯から立ち上る温かそうな湯気を見たら、肌寒さに盛大なくしゃみが出た。休耕地に破裂音が響き渡る。けれど、リュイの耳にはきっと届いていない、聞こえているのは軽やかな鳥のさえずりだけなのだ。ティセは憎々しげに、

「ああ、かわいくないっ。本当にかわいくないっ……」

 腹立ちまぎれに、ボリボリと頭を掻いた。

 今日もまた、ふたりは突風となって駆けていく。ティセは視野を収斂させて、無心になってあとを追う。こころなしか、昨日より楽に感じるのは身体が馴れてきたためだろう。この分なら、今日は「死んだ-」とつぶやかなくても済むかもしれない、ティセは嬉しく思った。



 ところが、昼前にわりあい大きな町へ到着すると、リュイの歩く速度は普通の速さに戻った。ハマという地方都市のひとつだ。

「ここがハマか、こんなとこまで来たんだ!」

 ティセは感慨を深くする。

 目抜き通りの両側には延々と店が続き、たくさんの人出で活気に溢れていた。道中感じていた家畜の匂いが薄まった。代わりに埃の匂いと、そこここの食堂から流れくる料理の香り、男たちの好むビンロウの種とキンマの葉を用いた嗜好品の清涼な香り、そしてひとびとの体臭が、目抜き通りを満たしている。その賑わいに、ティセは好奇心をおおいにそそられた。が、いまはそれどころではない。よそ見をすると、リュイを見失いかねないほどの人出だった。はやる心を抑えて、その後ろ姿だけに集中する。

 リュイは相変わらず目立っていたし、注目されてはいた。しかし、これまでのようにその後ろ姿をいつまでも見送ったり、穴があくほど不躾に見つめるひとは少なかった。子供ですら指をさす程度だ。ひとびとの対応の違いに、ティセは関心を持った。

「都会に住んでるひとはやっぱ違うなぁ」

 思わずつぶやいて、ティセはナルジャの田舎ぶりを嘆く。



 町の中心を過ぎ、喧噪がやや遠ざかった。ある十字路でリュイはふと足を止めた。右手の角に立つ古い建物の前に暫し佇む。のち、開け放たれた戸口の奥へ入っていった。ティセはすかさず駆け寄り、戸口の上に掲げられた簡素な看板を確認する。食堂兼宿屋だ。

「昼飯か?」

 探偵さながら、戸口の脇へ隠れて店内を窺った。

 なかはいたって普通の安食堂だ。簡素な作りの長い食卓が左右に二台、殺風景な部屋に並ぶだけ、その奥には配膳台があり、使い込んで真っ黒になった鍋が数個並んでいる。さらに奥には薄暗い厨房があり、女将と思われる小太りの中年女性が、配膳台の前に立つリュイと話をしていた。しばらくすると、厨房から十歳くらいの少女が出てきた。少女ははにかみながら、案内するようにリュイを連れて、すぐ横の階段を上がっていく。少女の小さな手は、不釣り合いなほど無骨な錠前を握っていた。まもなくひとりで降りてきて、厨房へ戻る。

 豆を煮る匂いの漂う店内に、ティセは足を踏み入れた。大きな包丁を振り上げ、豪快に鶏を解体している女将へ尋ねる。

「おばさん、いまのひと、ここに泊まるの?」

 女将は手を止めて、豊かに肉のついた顔をティセへ向けた。丸い目をぱちくりさせて、

「なんね? あんた」

「あいつ今日、ここに泊まるの?」

 質問をくり返すティセに、女将は訝しげな口調で答える。

「そうだよ」

 やっぱり、と思った。女将はますます不審そうな顔つきをしてティセを眺めたあと、

「……あんた、あの子の連れかい?」

 昨日の食堂の女将と同じことを聞いた。同じように荷物を背負った歳の近いふたりがいたら、誰でもそう考えるのだろう。ティセは正直にありのままを答える。

「ううん。いまはまだ連れじゃない。でも、近いうち連れになる」

 堂々と胸を張り、断言するふうに言った。女将はひよこ豆のように丸い目をさらに丸くして、ぽかぁんとしたのち、大きな声で笑った。鶏の解体の手さばき同様、豪快で遠慮のない笑いかただ。

「なんねぇ、それ。それじゃちっとも意味が分からないじゃないか、おかしな子だねぇ」

 その気さくな笑いかたと口ぶりに、ティセは激しく安心感を覚えた。村を出て以来、ほぼ誰とも会話をせず、不安を抱えたまま、冷たいリュイの後ろ姿だけを見ていたティセにとって、女将の気さくさは大きな慰めになった。全身に張り巡らされていた緊張の糸が急に緩まったように感じて、ティセは荷物をどさりと投げ捨てた。そして、食卓の長椅子へ勝手に腰かけると、聞いてくれとばかりに事情をぶちまける。女将は鶏肉汁を作りながら、愚痴に耳を傾けてくれた。

 語れば語るほど、ティセは激していった。声はいよいよ高く大きく、口調は吹きつのる風のごとく荒々しさを増していく。

「もう三日も一緒にいるのに、ひとことも話してくれないどころか、目も合わせないんだ! 昨日なんかっ……くぅっ……昨日なんか、目の前で昼飯食ってやったのに完っ全に無視されたっ! まったく見えてないような顔して飯食ってんだよ? ありえないよ、どうなってんだ、あいつ!」

 衝撃の昼飯について息巻くと、厨房の女将だけでなく、娘とおぼしき先ほどの少女も声を立てて笑った。

「あまりにひどい! 冷たすぎる! あいつは意地悪だ、陰険だ、鬼だ、悪魔だっっ!」

 力任せに食卓を叩いて叫んだ。女将はぱんぱんに張った顔へニヤニヤ笑いを浮かべ、

「あんた、うちはボロ屋なんだから筒抜けだよ、全部あの子に聞こえてるよ」

「聞こえたってかまうもんか! いいや、むしろ聞こえるように言ってやりたい!」

 ティセは天井をギロリと睨みつけ、

「おいっ、聞こえたか? この陰険野郎!!」

 リュイへ怒鳴った。鶏肉汁の大鍋をかきまぜながら、女将は呆れたように笑う。

「おおこわ! まあ、あたしゃどっちの肩も持ってやれないけどね。ところで、あんたはうちへ泊まるのかい? 相部屋しか空いてないよ。ただひとつっきりの個室にあの子が泊まってるんだから」

「……あの野郎、相部屋に泊まると俺が押しかけると思って、わざわざ個室を選んだに決まってる!」

 ひとしきり怒りをぶちまけて、妙にすっきりとした。ふっと短く溜め息をつく。

「俺は泊まらないよ。あいつを見張ってなきゃ。明日の朝、俺の知らないうちに出て行かれちゃ困るからね。ねえおばさん、入り口ここだけだよね? 裏口はないよね?」

 確認を怠らないティセに、女将はやれやれ顔でうなずいた。

 とにかく今日、リュイはここへ泊まる。明日の朝まで安心していられるのが、ティセは本当に嬉しかった。それは同時に、自由時間を与えられたようなものだった。ハマの町を見てみたかったし、長丁場に備えて買いものをする必要がある。食堂の脇に荷物だけ置かせてもらい、ティセは歩いてきた道を駆けていった。



 目抜き通りは変わらない人出だ。ティセは好奇心に突き動かされるようにして、ひととひとの間を跳ねていく。左右には赤煉瓦の建物が延々と続き、一階はすべてが店舗だ。八百屋も肉屋も雑貨屋も、軒先までくまなく商品を並べている。その雑多な色合いが、目抜き通りの喧噪にさらなる活気を添えていた。

 路上には露店も多く、よれよれの衣服を着た売り子がムシロの上に品物を並べ、根気よく客を待っている。品物はどれも取るに足らないものばかり。さらには屋台の軽食屋、頭に篭を載せた流しの売り子も行き交って、ティセはなにから見たらいいのか迷うほどだった。物乞いも多くいた。

 ひとびとの様子は、ナルジャや隣町ジャールとさほど変わらない。女たちは丸首の上衣に巻きスカートか、あるいは脚衣シャルワール、どちらにしても鮮やかな色目の伝統衣装を纏っている。前が半分だけ開いた上衣に胴着を重ね、落ち着いた色の脚衣を着用する男たちの装いもまた、慣習的なものだ。けれど、ハマには洋装の伊達男も多かった。

「ハマってこんな都会だったんだ……」

 初めて訪れたハマを歩くうちに、ティセは感に堪えないほどの思いが沸いてきた。ここにいるたくさんのひとびとは、誰ひとりとして自分を知らない。当然のことが、檻のなかに過ごしていたティセへ言いようのない感慨をもたらしていた。ただそれだけのことが、すごいことのように感じられた。知らない町のなか、入ったことのないパン屋で平パンを買いもとめ、見たことのない店主に代金を払う。たったそれだけのことが、ティセには初めておつかいをしたとき以上に、とてつもなく新鮮に感じられたのだ。

 はずれの丘から眺め尽くしたあの道の先へ、本当にやってきた――――背骨を貫かれるような感動に襲われて、ティセは道の真んなかに立ちすくむ。行き交う人々に肩を押されながら、浮かされた目で空を仰ぐ。真昼の、突き抜けるほど青い空。ナルジャで見る青空と同じ色の空が、違う意味を持っていた。手にした平パンの重さが、違う意味を持っていた。未知の世界と同じくらい大きな自由を手にしたのだと、心を打ち震わせ立ちすくんだ。



 辺りが薄暗くなるまで、ティセはハマのあちこちを歩き回った。夕飯どきになって、ようやくリュイの泊まる宿へ戻った。女将の話によれば、リュイもしばらくは外出していたらしい。戻ったあとは水浴びと夕食を済ませて、もう部屋へ下がったとのことだ。食堂は適度に混んでいて、忙しそうにしていたので、ティセは礼を言って食堂の外へ出た。

 戸口の横に陣取ると、ひどく空腹であるのに初めて気がついた。それほど夢中で散策していたのだ。屋台で買った馬鈴薯の炒め煮を平パンにはさみ、貪るように食べた。腹が満ちると急に眠くなる。今日は安心して寝られるのだと思うと、泣きたいくらい嬉しかった。ティセは毛布にくるまり、食堂の外壁に沿うようにして寝た。

 しばらくして、女将に起こされた。女将は眉根を寄せつつも笑いながら、

「あんたねぇ、こんなとこに寝られたんじゃ困るわよ。まるで、うちが宿泊拒否でもしたように思われちまうじゃないか」

「あ、そっか。ごめんなさい」

 慌てて半身を起こしたティセに、女将はさっぱりとした口ぶりで、

「ま、入んなさいよ。食堂の長椅子でよければタダで寝ていいから」

「ほんと!? ありがとう! おばさん」

 ティセは女将の情けにありがたくすがった。



 食堂は天井から下がるむっつのランプに照らされて明るかった。客ははけ、女将の娘と下働きの若い男たちが閉店後の後片付けをしていた。ティセは階段がよく見える左手の長椅子に荷物を置いた。

 女将は長椅子を与えてくれただけでなく、やはりさっぱりとした口調で水浴びを促してくれた。水浴びを終えると、鶏肉汁の余りを分けてさえくれた。昼間のティセの話がよほど気に入ったのだろう。ティセはありがたいやら申し訳ないやら、何度も礼を言った。女将というよりは女神だと思った。リュイの態度に相当まいっていたティセは、女将の情けと温かい鶏肉汁に、思わず目が潤みかけた。真鍮の椀によそわれた鶏肉汁を、夢中になってすするティセを見て、女将はくすっと小さく笑う。そして、ティセのはす向かいに座った。

「なんだってそんなにしてまで旅に出たいかさ、あたしには分からんよ」

 言われると、ティセは自分でも呆れたような気分になった。

「……俺も分かんないよ。でも夢だったんだ。死んだ父さんが一緒に旅しようって、よく言ってたからかな……」

「あんた、孤児かい?」

 この情け深い女将に嘘をつくことに、ティセはためらいを覚えた。けれど「うん」と答えた。そりゃあつらかったね、と返されて胸が痛む。それを誤魔化すように、ティセは鶏肉汁の残りを匙で流し込んだ。

 女将はやや神妙な面持ちになって言った。

「それにしても、あの子もあんたくらいの気概は持ってそうだよ。あれはあんた、気持ちを変えるのは並大抵のことじゃないかもしれんねぇ」

 はっとして、ティセは女将の顔を見る。

「あいつ、なんか言ってた!?」

 慌てたティセに、女将はあからさまに同情の色を表した。

「夕食のときにさ、聞いてみたのよ。あんたのことどう思ってるのか。そしたらさ……なんて答えたと思う?」

「なに、なに!? なんだって!?」

 女将は軽い溜め息をついてから、

「誰のこと言ってるのか分からない……ってさ」

 天井のランプが突然消えたと勘違いしたほど、ティセは衝撃を受け、目の前が真っ暗になった。少なからず、気も遠くなった。

 誰のことか分からない、それほど強く、絶望的な拒絶の言葉はほかにない。迷惑している、辟易している、そんな言葉ならよかった。そこには少なくとも相手が――――ティセが存在している。しかし、リュイの言葉にティセはいない、塵ほども存在していないのだ。ティセは放心した。頭のなかだけでなく、身体のなかまで真っ白になった。リュイの言葉は氷塊となって、空ろな胸の奥でしんしんと冷気を放っていた。

 表情を失い、押し黙ったティセを憐れに思ったのか、女将は厨房へ戻ると、鍋の底から掻き集めるようにして鶏肉汁のおかわりを用意した。ティセの前に椀を置き、

「とりあえず食べなさいな。腹が減ってたらなんもできないんだから」

 ティセは椀を見つめながら、つい弱音を吐いた。

「……駄目かも……」

 途端、女将は眉をひそめた。うなだれるティセの横へ立つと、その背中を丸々とした手で、さながら敷き布団でも叩くかのように張り飛ばす。刺激がはらわたまで染み至る遠慮のない叩きかたに、ティセは思わず咳き込んだ。

「げほっげほっ……」

「そんな弱気なことでどうすんだい!」

 女将は声を鋭くさせてティセをたしなめる。

「ジャールの隣村からこんなとこまで追ってきたんだろう? あんたの根性骨はこれくらいで折れるほどのもんじゃないでしょうよ。やるもやらないも、できるもできないも、あんた次第だよ」

 ティセははっと胸を突かれた。女将はいま、校長とまるで同じことを言った。校長の顔と、女将の顔が重なって見える。目が覚める思いがした。

 ……そう、そうだ、やるのは俺だ――――

 あのときはふて腐れたティセが、いま同じ言葉で気を立て直す。激震に傾きかけた胸の内の方尖塔が、ふたたびまっすぐそそり立つ。

 ティセは背筋を伸ばして椀に向かう。

「いただきます」

 女将は活力を取り戻したティセの目を見遣り、満足そうに口角を上げる。

 鍋底に溜まっていた申し訳程度の鶏肉片が、椀の底に澱のように沈んでいる。匙ですくい上げ、肉片を噛みしめると、かすかな滋味が口のなかにじんわりと染みていった。女将の優しさの味だ、としみじみ思う。どちらの肩も持ってやれないとは言うものの、女将はあきらかにティセの味方だった。腹の底から、元気がもりもり湧いてくる。

 鶏肉汁を貪るティセを眺めながら、女将は続けた。

「とは言っても、相手のいることだからできないときもあるだろうさ。とにかく、自分で納得できるとこまで頑張ってみなさいよ」

 最後の一滴まで飲み干して、椀の底を見つめる。じっと見つめる。見つめて、見つめて、心を研ぎ澄ます。そして、にわかに天井を仰いだ。ティセは吠えるように叫ぶ。

「リュイ! 聞いてるかぁっ?」

 暗い天井を見据えて、ひと呼吸。ティセはリュイへ語り出す。その声は昼間天井に向かったときとも、いまリュイへ呼びかけた声とも、まるで違う。怒気は欠片も含まれない。強く、揺るぎなく、ひたむきさに満ち満ちる、落ち着いた声音だ。天井に眼差しを向けたまま、ティセはゆっくりと語る。

「あらためてお願いする。生半可な気持ちで一緒に行きたいと言ってるんじゃないことは、もう分かったと思う。おまえが本気で拒否しているのも分かった。だけど、本当に申し訳なく思うけど、俺は絶対にあきらめない。おまえがどんなに速く歩いても、どんなに無視しても、挫けない。俺は――――」

 心を極限まで張りつめて、

「負けない」

 言葉は自分自身にも向かっていた。暗い天井は静けさに包まれたままだ。

 ティセの強い眼差しと据わった声を認め、女将はさも意に染まったふうにうなずいた。

「勇ましいねぇ。あんた、将来、胸のすくようないい男になれるよ」

 そう言った。



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