初平元年(190年)

益州南部と揚州南部を安定させようか

 さて、鎧や履物に関しての機能テストを繰り返しているうちに初平元年(190年)となった。


 この年、史実では董卓が任命した中原の州郡の刺史や太守が1月董卓に反旗を翻して反董卓連合が結成される。


 まず、張超と張邈が兗州陳留郡酸棗県に軍を集結させ、それに劉岱・孔伷・橋瑁らが合流し、橋瑁が董卓を弾劾し、義兵の決起を願う三公の公文書を偽造して周辺にばらまく。

 その文書を見て曹操・袁遺・鮑信などが酸棗県の軍勢に加わり、冀州では袁紹・韓馥・王匡・張楊などが司隷・河内郡に兵を進め、袁術は荊州の南陽郡魯陽県を拠点として挙兵し、孫堅は荊州の太守である王叡・張咨らを殺害し、魯陽県の袁術と合流した。


 三国志演義だと反董卓連合は、皆一丸となって汜水関を攻めたように書かれているが、実際にはバラバラに行動して河内郡、酸棗県、潁川郡、魯陽県と洛陽を東南北から半包囲するように布陣していたのだな。


 董卓が長安に遷都したのは蜀郡趙氏の趙謙やその弟趙温の勧めもあったらしいが、地理的に包囲されやすい洛陽は守りにくいからというのもあったようだ。


 しかし、献帝を抱えている董卓に対してまとも動くものは少なく、まともに戦ったのは王匡、曹操と孫堅くらいで、彼等も徐栄などに打ち破られたりしている。


 3月には兵糧が尽きたため酸棗の諸侯が撤兵を開始し、その後劉岱が橋瑁を殺害するなど、集まった者たちの間での争いが始まるのだ。


 董卓が元は少帝と呼ばれた弘農王を殺害し、長安へ遷都したのもこの年だったりする。


 事実上反董卓連合の結成と崩壊により太守たちがお互いに争うことになるこの年が三国時代の幕開けである群雄割拠の元年となったといっていいだろう。


 もっとも、史実の董卓とちがって俺は洛陽に手を出していない代わりに并州・涼州・荊州に加えて司隷の大半・益州北部・揚州北部・豫州南部・徐州南部と交州を事実上押さえている状態だし、悪政に関しては袁術などが肩代わりしてくれ、袁紹が洛陽に入った沖に献帝を脱出させて迎え入れたから、普通に後漢の政治の中心におさまっちまったけどな。


 最も俺自身の相国はあくまでも名誉職という扱いで、当主の座などは息子に譲ってるわけだが。


 そして履物に関してだが、寒い場所での履物は革を使ったロングブーツや藁深靴などを用いさせ、足の冷えを抑えることを優先する。


 鎧も断熱性の高い革の膠煮込み鎧を支給している。


 逆に南方のような暑い場所では雪駄のような草履の裏面に皮を貼って、傷みにくく丈夫な作りにし、足の固定はわらじやグラディエーターサンダルのように多数のヒモで行い、通気性を高める方式にする。


 鎧も麻の膠煮込み鎧を支給して、通気性や軽量であることを優先しているよ。


 岩場や沢などの場所では底が柔軟で苔の付着した岩でも踏ん張りが利く革をはらない草鞋を用いる。


 なので兵士には草鞋の編み方を学んでもらい自分でも編めるようにしてもらうことにした。


「ではそろそろ益州南部と揚州南部の安定に取り掛かるか」


 俺は益州南部には皇甫嵩を、揚州南部には朱儁をそれぞれ派遣し、問答無用で攻撃してくるものは打倒し、従う意志があるものには役所への登用などを積極的に行わせ、それぞれの場所を安定させるように命じた。


「大変な役目だが、重要なことだ。

 ふたりともやってくれるな?」


 まず皇甫嵩がうなずく。


「うむ、後漢の臣民として従ってもらえるよう全力を尽くそう」


 そして朱儁もうなずいた。


「わかりました、私は会稽の出身ですしうまくやってみせますよ」


「では、頼むぞ」


 南方用装備の兵をそれぞれ5000ほど引きつらて、皇甫嵩は益州南部へ、朱儁は揚州南部へ向かっていった。


 しばらく時間はかかると思うがこの二人であればうまくやってくれるだろう。


 その間に他の弓兵の訓練強化による精兵の訓練も行わなくてはならないだろう。


 農地の開発も行い富国強兵に数年の期間は必要だろうな。

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