中平6年(189年)

北方で公孫瓚と袁紹が激突したようだ

 さて、皇甫堅寿や献帝を救ったり、ある程度の役職を割り振ったり、荊州南部の反乱の平定をしていたら 年が明けて中平6年(189年)になってしまった。


 本来の史実では霊帝が崩御するのは今年の四月で、その後の宮廷内権力闘争の末に蹇碩・董重・董太后・何進・何苗や何皇后等がどんどん死んでいく上に宦官も袁紹や袁術の手によって皆殺しになったところを何進・何苗や丁原の配下の兵士を吸収し、霊帝の二人の息子を手中にした董卓が洛陽に乗り込んで、事実上の最高権力者になった。


 その後は党錮の禁によって政治中枢からはなれていた名士を抜擢して後漢の権威の復興を行おうとしたが、その名士たちは辺境の武官でしかない董卓に対して半年ほどで背いて反乱を起こしたし、彼等は袁紹とのつながりのほうが強かったこともあって、袁紹、曹操、鮑信、袁術なども洛陽から逃げ出し、反董卓連合軍が結成されるに至るわけだが、それは余計に後漢の権威を失墜させた。


 そして史実ではこの年は光熹こうき昭寧しょうねい永漢えいかんと改元されたが最終的には中平6年のままとなっている。


 まあ、実際は霊帝は甘言をささやく十常侍のような宦官を失って、硬骨漢な宦官たちに囲まれ諫言を言われまくったおかげでか、恐らくストレスで早く死んでしまい、その死後の権力闘争の結果として袁術、そののちには皇甫嵩が権力を握ったが、結果として袁紹の攻撃によって洛陽はほぼ廃墟となってしまい、献帝が脱出したことで首都としての権威を失っているというのが現状だ。


 そして本来であれば袁紹と袁術の仲違いから袁紹派と袁術派の群雄割拠の勢力争いで中原は大きく乱れるのだが、現状では洛陽などの司隷の一部と冀州・兗州・豫州の一部などを押さえる袁紹と、幽州と青州黄巾残党が蹴散らされた隙を突いて青州を抑えた公孫瓚、涼州・益州・并州・司隷の大部分・荊州・揚州・徐州・徐州の南部を押さえてる俺の大方三勢力と言う状況だ。


 それぞれ袁紹は劉寵を、公孫瓚は劉虞を、俺は献帝を擁立して自分たちの正当性を主張しているわけだが、献帝と正当な皇帝の証である玉璽も持ってる俺が一番の正当性を持ってるのは言うまでもない。


 曹操の働きには感謝しかないが現状では幼いがゆえに名目上は俺に権力を移譲している献帝が大きくなったときにどう考えるかはあまり考えたくはない。


 と言っても考えないわけには行かないので、皇帝の側仕えは基本的に俺の息のかかってる者に変えるけどな。


 皇帝の教育係である太保には皇帝へのお小言で定評のある蓋勲を据えたが、あんまり天子の権威を持ち上げすぎても困る。


 とはいえ蓋勲も、もういい年齢なのでそんなに長生きはできないと思うが、それは俺も同じことではある、ならば子供や孫が誅殺されたりしないようにせなばならんな。


 で、公孫瓚と袁紹の状況だが、まず公孫瓚はもともと鮮卑などの異民族の侵入に対して殲滅を説いていたのに対し劉虞は異民族を懐柔して味方にすることを説いている。


 元来劉虞は名士として信望を集めていたこともあって、劉虞は異民族を懐柔して帰順させたのだが、公孫瓚はそれが気に入らなかったらしい。


 俺と一緒に戦ってもその辺は変わらなかったのかね。


 とはいえ、烏桓が騎馬部族を率いて公孫瓚に降伏したときは、自軍へ編入しているので公孫瓚は涼州三明の段熲に近い人物だとも言えそうだ。


 そして袁術と袁紹の争いが起きたときは劉虞と公孫瓚は袁術についた形になった。


 袁術がその目に入れていたのは劉虞だけだったとは思うが劉虞も公孫瓚も袁術に兵を送ったのは間違いないようだ。


 で、青州黄巾賊残党が幽州に侵入してきた時には公孫瓚は黄巾残党よりも少ない兵を率いてこれを迎撃し、包囲してくる黄巾残党を悉く各個に撃破して、大量の捕虜と軍需物資を手に入れそのまま青州を制圧してしまった。


 その公孫瓚の勢いに対して袁紹は直接対決を避けるために、その従弟の公孫範に冀州の東端の渤海太守の印綬を送り、渤海太守にした上で公孫瓚との講和を図ったが、公孫範は渤海郡の郡兵を手に入れると、青州の黄巾賊の勢力を吸収して公孫瓚の軍勢に加わり、公孫瓚は、田楷・厳綱・単経といった自分の息のかかった人物を青州・冀州・兗州の刺史に任命し、郡や県の長官も劉虞の名をもって任命したらしい。


 それに対してさすがにこのままでは不味いと袁紹は軍を持って打ち破らんと兵を進めた。


 両軍は冀州鉅鹿郡と冀州甘陵国との境界である清河の界橋付近で激突した。


  公孫瓚は歩兵三万人余りを中央に置き、騎兵左右それぞれ五千匹を両翼に配置して、白馬義従と呼ばれる精鋭の騎兵配置した。


 それに対して袁紹は歩兵数万を持って対峙し、先鋒として麹義のニ千ほどの兵に強弩千張をもたせ、その強弩の一斉射撃によって、公孫瓚の騎兵を撃ち倒して潰走させたという。


 この数は誇張されてる可能性もあるのだが、麹義が騎兵の特性をよく知っていてそれにうまく対処したのは事実らしい。


 この戦いにより冀州から公孫瓚は追い出され、幽州へ逃げ帰ることになるが、それに対して劉虞は公孫瓚がみだりに兵士を動かし、その結果として財政を逼迫させることを嫌い、その前渡しの給付を与えることをやめてしまったらしい。


 それに対して公孫瓚は怒り、略奪に走るようになり、劉虞に従っている異民族への銭食料の支給のための輸送車を公孫瓚が襲いそれを奪うと、劉虞は公孫瓚への食糧の給付も停止するにいたり、公孫瓚と劉虞の関係は完全に決裂したようだ。


「公孫瓚はもう長くなさそうだな」


 仮に公孫瓚が昔の伝手で俺を頼って并州に逃げて来たらどうするべきだろうか。


 もっとも并州に来るにはおそらく劉虞を殺す必要があるだろうから、そのときには公孫瓚は疑心暗鬼になっていて、こっちに逃げてこようとは思わない気もするが。

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