王允がやって来たかさてどうするかな

 さて、俺が富国強兵に勤めるべく荊州・揚州・益州の北部を中心に、土地の開墾や農法の改良を行っていると、王允が南陽へやって来た。


「董将軍にはお初にお目にかかります。

 私は王(允)子師ともうします。

 どうか国家の安定のために私を使っていただきたく思います」


「ふむ、国家の安定は俺も願うところだ。

 郭(泰)林宗より”一日に千里を走り、王佐の才の持ち主である”と言われた方であればなおさらですな。

 しかし、袁(術)公路や袁(紹)本初にはなく、なぜ俺のもとに来たのですかな?」


「并州出身の私を両者は受け入れてくれなかったのですよ」


「なるほど、そうでしたか。

 では、存分にその手腕を発揮していただきましょう」


「ありがとうございます」


 王允の生まれは永和2年(137年)で生まれた年代は俺とぼぼ同じくらいだが、俺よりも年上だ。

 無論、袁術や袁紹よりも年齢は上だけどな。


 彼は若い頃、名儒として名を馳せていた郭泰から「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐(たす)ける才。主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能)である」と英才の誉れと評され、19歳にして郡の役人となった。


 そして宦官で小黄門である趙津は貪欲で好き勝手を働きいていたため、王允はこれを捕らえて処刑したが、当然趙津の兄弟はそのままにしてはおかず、王允への復讐を行おうとし、宦官が桓帝に事実を捻じ曲げて報告したため、桓帝は王允の上司であった太守を投獄し処刑した。


 王允は太守の棺を持って太守の故郷の平原まで持ち帰り、自分の親が死んだ場合と同じだけの3年間を喪に服し、喪が明けると復職した。


 その後も節義を好み公正な統治を行い、その名声により三公はそろって彼を招聘した。


 中平元年(184年)の黄巾の乱においては党錮の禁を解除すべきと上奏し、格別の引き立てによって予州刺史をとなって、孔融らを招いて参謀とし黄巾賊の別働隊の将を討伐して、これを打ち破り、皇甫嵩・盧植らとともに黄巾の賊徒を打ち破った。


 しかし、史実においてはその賊徒の中に、中常侍の張譲の密書を持っている者がいたため王允は霊帝にそれを告発した。


 宦官が大好きな帝もこれには流石に怒り、張譲を強くなじったが、張譲がこれに頭を床に打ち付け深く謝ったので、帝はこれをあっさり許し、翌年になって張譲により王允は罪を着せられて獄に繋がれてた。


 大赦が下され刺史に復帰できたものの、10日余りでまたしても罪を着せられ官職を剥奪されたため、王允は姓名を変えて司隷から兗州のあたりを転々とした。


 その後霊帝が崩御すると、王允はその喪に服するため洛陽へ駆けつけ、大将軍何進は宦官たちを誅殺せんと考えていたので、王允を召し寄せて計画を練り、従事中郎から河南尹に転任し、その後董卓によって献帝が即位するとその下で尚書令となった。


 王允は董卓からの信任が厚く、初平元年(190年)には司徒にまで出世したが、反董卓連合との戦いから長安へ遷都をする頃になると董卓は涼州出身者を出世させ并州出身のものの殆どは冷遇されるようになった。


 董卓が関中へ遷都させたとき、王允は洛陽にあった図書をことごとく押さえて、長安に到着したとき、すべて分類して献納し、漢朝における採用すべき旧例をすべて奏上した。


 そして、密かに黄琬・鄭泰らとともに董卓誅殺の計画を立て、武関から袁術を討伐するというのを口実に、董卓を征討し、天子を救って洛陽に帰らんと目論んだが、董卓は疑いを抱き、留めおいたため計画は失敗した。


 しかし初平3年4月(192年)、董卓は呂布により暗殺された。


 董卓が祝賀のために参内ときに呂布は董卓を刺殺したのだ。


 しかし、その後王允は呂布が董卓の部曲を赦免して味方に引き入れるべきと説いたのに対して「かの連中は主君に従ったまでで罪はない。もし逆臣として扱ったうえで特赦するならば、彼らを疑心暗鬼にさせるだけであって、安心させることはできないだろう」と言って追放し、呂布が董卓の貯め込んだ財宝を将校に分配すべきだと主張したが、王允はこれも受け入れなかった。


 王允は呂布を軽蔑していたし、呂布も董卓を殺したという功績の大きさに対して自分の説を受け入れてもらえなかったため、両者は次第に険悪になっていった。


 王允は正義と厳重さを前面に押し出して、その場をうまく収めるような対応をしなくなったため、彼に従う者はどんどん少なくなっていった。


 致命的だったのは董卓に厚遇されていた蔡邕が恩を感じ、董卓の死に嘆き悲しんでいた事に対して投獄し、獄中で歴史書の編纂を行おうとした事に対し、死罪をもって対応したことだった。


 董卓の部下であった李傕・郭汜ら涼州出身者は降伏を願い出たが、前述のように王允は許さなかったため、李傕・郭汜らが賈詡の助言により都に攻め入ると、王允に反発した胡軫・楊定の裏切りもあり、王允・呂布らは敗北し、王允一族は皆殺しとなり、全員が晒し首となった。


 だが、宦官を俺が誅殺したため早く中央に復帰したものの、俺の代わりに袁術が権力を握ったことで何進派閥と見られた彼は官職を剥奪され、袁紹も并州出身の彼を迎え入れることはなかったのだろう。


 彼が有能な官僚であるのは否定しないが、そのためか武官を下に見たりする傾向が強かったりもするのであんまり信用はできんというのが本当のとこかもしれん。


 とはいえ史実における董卓の配下というのは牛輔のような董卓直系、徐栄のようなその他涼州系、呂布をトップとする并州系、近衛兵系、旧何進系、旧何苗系などはっきり言えば寄せ集めの雑多な軍団だったわけだが、涼州系と并州系は正直仲が良くなかったのも事実。


 しかし、現状ではそういうこともないのが救いかね。


「それと中央朝廷では袁紹派閥の造反により、地方からの税収が入ってこなくなり兵の維持に苦心しているようです」


「まあ、そうだろうな」


 黄巾の乱の鎮圧時はまだ全国から税が入ってきていた。


 それが袁紹に同調した太守が中央へ反旗を翻すことで冀州・兗州・豫州・青州などから税が入ってこなくなるのだから国庫は大打撃だ。


 袁紹派閥が抑えてる地域は人口が多いからなおさらな。


 そろそろ俺も袁術に対して絶縁状を突きつけてやるべきかね。

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