熹平6年(177年)

南の反乱を平定したら北で鮮卑にボロ負けしていた

 さて、交州の大規模な反乱を平定しているうちに 熹平6年(177年)になっていた。


 そろそろ娘たちもいい年齢になったので、次女は返章、三女は曹操のもとに嫁いでもらった。


 そして、反乱が起きて停滞していた、南方との交易を再開させるべく使者を送っていたりしていたら、李儒や洛陽の下級宦官からとんでもない情報が入ってきた。


「官軍が鮮卑を征伐しようとして大敗したってのか」


 その前に今年の洛陽ではまず2月に城門が自壊したそうだ。


 おそらくろくに修繕もしていなかったんだろう。


 さらに4月には広い範囲で大旱魃が起こり、7つの州で蝗害が発生して北方では飢饉が起きた。


 そして天子が三公に命じて、問題のある地方官を検挙させて罷免することにして、このとき平原国の相であった陽球が「政治が厳しすぎる」と糾弾されたが、九江太守を勤めていたときに反乱を鎮圧した功績により赦免され、天子は陽球を許して議郎に取り立てた。


 これが後に宦官の王甫とその一族を誅殺することと関係するのだろう。


 またこの月には鮮卑が涼州・幽州・并州に対して全面的な侵攻をして守備隊が敗北し、その後も散々に略奪を受けていたらしい。


 また、天子により金で雇われた数十人の民が先帝である桓帝の陵で桓帝の喪に3年服して「宣陵孝子」と称したため、天子は彼らを太子舍人と言う官位につけているらしい。


 これに対して蔡邕は「三年の喪自体するべきではないし、喪に服するべきでない者に服させるのは欺瞞である」と天子に指摘したが無視されたそうだ。


 そして7月には諸生の中から文章や詩賦に明るい者を鴻都門下と呼ばれる公営の学問所に集めると、その人数は数十人になり、そういった人物は天子の歓心を買うことで昇進していったし、天子は国家の祭祀を怠けるようになった。


 それに対して蔡邕が諫言するとその意見を聞き入れ、祭祀を再開し宣陵孝子たちを官職から外して県丞や県尉に任命したが、鴻都門下に集めた人材は任用し続けた。


 学問を好んだ天子は鴻都門学を設置することによって、自分に批判的な儒家を遠ざけて皇帝直属の人材を集めようとしたらしいが、文章や詩賦がうまく、ついでに天子に取り入るのがうまいだけの人材は結局は大して役に立たなかったようだ。


 4月の鮮卑の侵入に対して護烏桓校尉の夏育が漢の周辺領土を荒らし財産を略奪しにくる鮮卑の討伐戦を上奏した。


 そして天子は田晏を破鮮卑中郎將という新しい称号の軍士官位につけ、それと臧旻を使匈奴中郎將にして、ほかに護烏桓校尉の夏育という人物を討伐に向かわせている。


 実は熹平五年(176年)に俺が交州ヘ向かったあとに、鮮卑が幽州に侵攻し、熹平六年(177年)の4月以降、鮮卑は涼州・幷州・幽州で三十回以上国境地帯の侵犯と略奪を繰り返した。


 そのため夏育は二年での鮮卑討伐を上奏したが、朝廷はそれを許さなかった。


 そのころ、護羌校尉の田晏は、中常侍である王甫に金を送り鮮卑討伐の将となることができるように取りはからってほしいと求め、王甫は田晏を夏育とともに派遣して力を合わせて鮮卑を討伐させようと天子の奏上した結果、天子は田晏を破鮮卑中郎将という今まで存在しなかった役職を創設してそれに任命した。


 蔡邕はやはり反対し段熲が羌を平定するのに十年以上かかったのに、段熲よりも才能の劣ると思われる夏育と田晏が、羌族よりも遥かに広い領土を持ち、兵も強盛である鮮卑に二年で勝つことはできないと反対したが、結局天子は蔡邕の意見は却下して、八月に破鮮卑中郎将の田晏を并州の雲中郡から、護烏桓校尉の夏育を幽州の高柳軍から、使匈奴中郎将の臧旻に南単于を率いさせて并州の雁門軍から出撃させ、それぞれ1万の兵を率いて遠征したが、そもそも大旱魃で麦もろくに収穫できず、蝗害の被害もひどくて軍糧も不足している状況で、二千里もの距離を入り込んだんだからそりゃまあ勝てるわけもない。


 檀石槐は後漢軍が疲れ、食糧や飲料水の不足にあえいだところで、鮮卑三部の長に命じてそれぞれ兵を率いて迎え撃たせた。


 その結果としては三軍とも鮮卑に大敗を喫して、無事帰れたのは兵士10人中3人だとか1人だとかといわれる大惨敗。


 それぞれが身の回りの数十騎を率いてなんとか長城の内側に逃げ帰ったが、三人の将は大敗の罪に問われて、罪人を乗せる檻車で洛陽まで晒し者にされて、獄に下され、金を払ってなんとか身を庶民に落とすだけですんだが、とりあえず鮮卑の侵入を防ぐ人間が必要で、交州の反乱が収まったんでまた俺に北に戻って征北将軍として鮮卑を追い払ってほしいらしい。


「鮮卑を追い払ったり、交州の反乱を鎮圧しても、すぐに俺をその場から外したら意味ないっていい加減わかんねえのかな……」


 とはいっても命令には従わなきゃならない。


 宮仕えってのは本当に理不尽なものを感じるぜ。


 かと言って洛陽で権力争いに巻き込まれるのはもっとゴメンだけどな。


 とりあえず兵をまとめて洛陽に一旦向かい、征南将軍を返上して征北将軍を拝命してして并州に向かわなきゃならないな。

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