熹平2年(173年)

会稽の反乱の討伐に成功したよ

 さて、荊州の新野に駐屯して、道案内役と傷病対策に医者を抱え込むことに無事成功したので、俺は会稽の反乱討伐に兵を進めることにした。


 そんなことをしている間に、熹平2年(173年)になってたりもするんだがな。


 この間に董超と皇甫規の孫娘との、董越と李膺の孫娘の婚姻を、俺は賈詡と相談しながら進めていた。


 この結婚政策に対しては、賈詡も賛成のようだ。


「皇甫規殿や李膺殿、ひいてはその一族と縁ができるのは大きいでしょうな」


 皇甫規や李膺からも悪い感じはしないようだ。


 今回は涼州や并州の時代からの俺の私兵であるの部曲が中心で軍師として賈詡、副将として董旻、その他の部隊の隊長として馬騰・韓遂・牛角といったものが軍を率いるが、一番上の息子とその義兄弟となった董超・呂布・董越も俺の下で経験を積むために従軍している。


 尹端や朱儁もとうぜんながら同行しているぞ。


「それにしてもあちいな……」


 賈詡がうなずいていった。


「このあたりは涼州や并州とは全く違いますな」


 こういった蒸し暑い気候もあって中国南部ではあまり鎧は発達しない。


 21世紀での真夏の日本で、剣道用の道着と防具をつけて、炎天下を歩いたらどうなるかを考えれば、まあ分かるだろう。


 もっとも武帝の軍隊ですら鎧の装備率は大体4割程度しかなかったと言う話だから、膠で煮込んで固めた革の鎧でも着れば、兵士の安心感もずいぶん違うとは思うんだが、暑さで体力を消耗しちゃ意味ないよな。


 一つの軍団の将軍ともなれば、配下として引き連れている兵士は1万を超えるが、そういった兵士の食糧などはどうしてるかと言えば、将軍としての権利に含まれている荊州の刺史としての権限を利用して、県や郡の国庫に提出された食糧などを供出させて、俺たちは荊州を南下している。


「それにしても米を蒸したものはうまくて良いな」


「麦や粟に比べるとたしかにうまいですな」


 中国では淮河の南になると、降水量も増えるので、水田での稲作が中心となり、税として収められる作物も米が増えるので、久しぶりに米が食えたのは嬉しい。


 漢の正式な将軍であればそういった権限があるので、途中で略奪を行うという必要はないのだ。


 また南船北馬と呼ばれるように、黄河は厳冬期には結氷して、車馬はその上を渡ることができるので季節によっては馬でもそのまま渡ることが出来るが、淮河や長江はそういうわけには行かないので船で渡ることになる。


 水上交通の支配も国というか、地方官が行ってるのは日本とだいぶ違うな。


 まあ通行料だの何だのを取ろうとすれば、結局はそうなるわけだが。


「じゃあ、川の渡しはよろしく頼むぜ」


「わかってますよ」


 この時代の中国船はほとんど櫂を用いた手漕ぎの船だが、何百人も乗れるような楼船 ろうせんと呼ばれるような巨大な船になると、帆柱と帆がかろうじて用いられるようになっている。


 もっとも風を受けて走るとしても、補助の動力としての扱いなので、筵帆であったりするなど、まだ技術レベルはそれほど高くない。


 磁石も発見されていて、指南車と呼ばれる方角指示器も漢代にはもう存在したのだが、これは陸の移動に用いられており、船に積まれるのはまだまだあと


 交州にはマレー半島などから船が来ていたようだが、漢民族自体が南に行くことなどはあまりなかったようだ。


 逆に方向転換のために必要な舵はすでに発明されていて、川での水軍の戦いでも、細かい方向の切り返しはできたりする。


 そんな感じで船で淮河を渡り長江を下っていき、丹陽郡の太守である陳寅ちんいんとその配下の朱治しゅちなどをくわえて南下し、句章県こうしょうけんの許昌・許韶の反乱軍と対峙した。


「ふーむ、数だけはたしかに多いな、だが大した装備もないし統率の取れた行動もしてない」


 賈詡はうやうやしく告げる。


「ではいつもどおり、まずはひと当てして逃げたように見せかけ伏兵で包囲して撃破いたしましょうか」


「ああ、それがいいだろうな」


 そして俺は尹端に聞く。


「伏兵に適した地形を教えてもらえるか?」


「であれば……」


 という感じで伏兵を伏せつつ俺はいつもどおりに先頭に立って敵に突っ込む。


「よっしゃ、おまえら賊を片付けるぞ!」


「おお!」


 1000ほどの軽装短弓騎兵を率いて、俺はまず賊徒に近付いて合成弓で弓をどんどんいかける。


 敵は倒れていくが、数が多くて押されてるように見えたら、後退しつつパルティアショットでちまちまと相手に損害を出させて、相手の怒りを煽って、伏兵のいる場所へ敵を誘い出し、敵が通りかかったら、弓や弩を横から一斉にはなって急襲し、敵が止まったら馬朔を構えた重装騎兵で敵をつきくずし、敵が逃げ出したら軽装短弓騎兵で追いかけつつ攻撃を加える。


 そのようにして俺たちは越王を僭称した許昌・許韶を討ち破って戦場で討ち取った。


 このころ呉郡でも兵を集めていて、その中に孫堅もいたようだが、彼らが会稽へ向かう前に俺が討伐してしまったので孫堅の活躍の機会はなくなっちまったな。


「まあ、無事に反乱も鎮圧できたし良しとするか」


 とはいえ周辺の県でも反乱に加担した連中がいるので、そういった残党を討伐したりもしている間に熹平3年(174年)になってしまった。


 その間に董超には皇甫規の孫娘が、董越には李膺の孫娘がそれぞれ嫁いできたので盛大に祝ったよ。


「わが息子をよろしく頼みますぞ」


「はい、よろしくお願いいたします」


 それはともかくとして、一旦洛陽に戻って結果を報告しつつ、将軍位を返上しないといけないな。

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