ヴァルナルとミーナの新婚事情 前編
「はぁ……」
何度目かのミーナのため息に、ソニヤはとうとう我慢できなくなった。
「ちょいと、ミーナ様。一体、どうなさった? ずいぶんと悩んでおられるご様子ですけど」
尋ねたものの、ちょっとぎこちない言い方になったのは仕方ないだろう。
つい一ヶ月ほど前までは、自分と同じ領主館の使用人として、まな板並べて一緒に人参を切っていた仲である。領主の奥方として、敬語できちんと応対するようにと、鬱陶しい小姑よろしく執事のネストリにもしつこく言われていたが、そう簡単に改められるわけもない。
それでも自分が気安い言葉で接して、もし客などに見咎められでもすれば、ミーナや領主様の評判を落としかねないので、そこはソニヤもなんとか頑張っているのだ。頑張っているが、やっぱりこうして厨房で二人並んで立っていると、どうしても以前からの癖が抜けないのかして、ついつい「ちょいと」と呼びかけてしまう。それで『あっ、しまった』となって、あわてて「一体、どうなさった?」なんてヘンテコな敬語も飛び出す。
案の定、ミーナは目を丸くしてソニヤを見てから、クスクス笑った。
「どうしちゃったの、ソニヤさんたら。なんだか言い方がおかしくなってるわよ」
「いや。そりゃあ、領主様の奥方様ですからね。ちゃんとした言葉遣いをしないと」
「ここでは構わないのに」
「それがそういう訳にもいかないんですよ。ワタシゃ、あっちじゃ畏まって『承りました、奥様』、こっちじゃ『ねぇ、ミーナ』なんて、場所場所で態度を変えるなんて器用なことはできない性分なんです。だから、こうして厨房で二人きりのときも、気を抜くわけにゃあいかんのでございますわぁ」
「フフフ。ソニヤさんは真面目ね」
「いけませんよ、奥様。私のことはただのソニヤとお呼びください。まーた、ネストリさんやらアントンソン夫人やらが、ここぞとばかりにガミガミ言ってきますです」
「あの人たちが何か言ってきても、はいはいと頭を下げておけばいいのよ。言いたいだけ言わせておいたほうが、後腐れもないし、お小言も短くて済むわ」
「……違いない」
ソニヤは頷いてハッハッと笑った。
おしとやかで生真面目ながらも、ミーナは時々ちょっとだけ毒を吐く。そこはソニヤと同様に、以前は商家で働いていたこともあるということで、ある程度は経験済みであったのだろう。使用人の扱いについては、下手に世間知らずの若奥様より手慣れたものだった。
二人して笑ってから、ソニヤは「で?」と再び尋ねた。「なんだって、そんなにため息ついてなさるんですかね? 奥様」
「あら、ごめんなさい。私、ため息なんてついていたかしら?」
「あれま、気付いてらっしゃらないとはねぇ。林檎の皮をむき終わるまでに、
「まぁ、そんなに? ごめんなさい。鬱陶しかったわよね」
「いやまぁ、鬱陶しいことはないけども、一体どうしたのかと気にはなりますよ。新婚ホヤホヤの奥様が、そんなにため息ばっかりついてなさっては」
『新婚』という言葉を聞いた途端に、ミーナはフッとうつむいた。物思わしげな態度に、ソニヤはますます興味をひかれる。
「なに? どうしたんです? 領主様と何か……まさかケンカですか?」
普段から仲睦まじさしかない二人を見ていて、当てられまくっているソニヤとしては、信じがたかったが、ミーナの表情は暗かった。
「いえ……ケンカというわけではないのだけど」
「じゃあ、どうして……アッ、もしかして結婚してから領主様にヘンな癖があるのがわかったとか?」
「……なぁに、それ?」
「いや。私の死んだ亭主なんですけどね、結婚してから知ったんですけど、大笑いするときの声が妙に高くって、ヒャーッヒャーッて笑うってことに気付いたんですよ。つき合ってる自分には隠してたんだろうね、アレ。知ったときにゃ、ちょっと驚いちゃって……って、違うか」
話している間にソニヤは自分がずれていることを言っていると悟って、ミーナを窺った。ソニヤの話に苦笑しつつも、やはり浮かない顔だ。
「ねぇ、どうしたんです? ほんとに」
「……あの、こういうことを訊くのはどうかと思うんですけど……」
「うんうん?」
「…………やっぱりいいです」
ソニヤはズッコケそうになったが、どうにかこらえた。それは目の前のミーナが冗談なんかではなく、真剣に悩んでいるのがわかったからだ。
芋の皮を剥く手を止めて包丁を置くと、前掛けでさっと手を拭いてから、ミーナの肩を軽く叩いた。
「まぁ、言ってごらんよ。私じゃ力にゃなれないかもしれないが、話を聞くぐらいはできる。自分の中でうじうじ悩んでいたら、どんどん暗い顔になっちまうよ。領主様だって、心配なさるよ」
ソニヤはあえて『領主様』と言い、ミーナの様子を窺った。やはりその名称を聞いた途端に、ミーナはひどく気まずいような、沈んだ顔になる。
「本当に、どうしたんだい? なにか言われたのかい?」
「いえ……なにも。何も言われないんです。だから、何が悪かったのかわからなくて……」
「あんた……いや、ミーナ様がヘマするようなことないだろうに。何も言われないって、なんのことだい?」
「…………」
ミーナはしばらく黙りこんでいたが、やがて意を決したようにソニヤの耳に顔を寄せて囁いた。
「……避けられてるみたいなんです」
「避けられてる?」
ソニヤは思わず聞き返して首をひねった。
今日の朝食も一緒で、家族一緒ににこやかに食べていたし、午後からの執務中にお茶の用意をしに行って、そこで軽く雑談などもしていたようだし、ヴァルナルのミーナに対する態度に変わった様子は見られない。少なくともソニヤからは。
だが次にミーナが付け加えた言葉で、ようやく理解できた。
「……夜のことです」
ソニヤは「あぁ!」と大声が出そうであったのを、どうにか喉元でこらえて、口を開けたままうんうんと頷いた。
ミーナは少し頬を赤らめて、目を伏せる。
「あー……と、なに、じゃあ今は別々に寝てたりするの?」
ミーナはコクリと頷いて、軽くまたため息をついた。
貴族の館においては、基本的に主人とその妻の居室は別々にある。いざそうした夜の営みをする際には、どちらかが一方の部屋を訪れることになっていた。この部屋は別棟にそれぞれ隔てられている場合もあれば、隣り合わせであったり、なんであれば上下であることもあった。
ヴァルナルとミーナの場合は、夫婦の居室は隣り合っていた。しかも、その部屋同士は一枚の扉で隔てられていたので、いざそういう状況となれば、わざわざ廊下に出ることもなく、目敏い使用人に見つかることもなく、行き来できる。
正直、新婚であり、しかも紆余曲折を経てようやく結ばれた二人であるならば、それはそれは夜も情熱的に過ごしておられるであろう……新たな若君、あるいはお嬢様の誕生もそう遠くないかもしれぬ、などと噂する者は多かったのだ。
噂に加わることはしなかったが、ソニヤもまた心中でさもありなん、とは思っていた。
だというのに、今のミーナの話だとヴァルナルはそうしたコトに及ばない、ということになる。
「え? もしかして……一度も?」
ソニヤが尋ねると、ミーナは首を振った。
「最初の日は、ヴァルナル様の部屋で……。でも、その翌日からは……夜遅くまでお仕事だと執務室で過ごされて、お一人で寝室でお
「えっ? じゃあ、もうひと月近く放っ……」
放ったらかし、と言いかけてソニヤはあわてて止めた。
コホリ、とおとなしめに咳払いしてから、ちょっとばかり興奮気味であった気持ちを落ち着ける。
「そりゃあ問題だ……いや、問題ですよ、奥様。そりゃ腹が立つのも無理ないことです」
だがミーナは首を振った。
「腹が立っているわけじゃないの。ただ、何か私が至らぬことがあったのかと思って……気分を害されたのか、ガッカリされたのか……何も
「至らない……ねぇ?」
なにをどう致せば『至る』ことになるのだろうかと、ちょっと考えてソニヤはすぐに頭を振った。その間も、ミーナは恥ずかしさを必死に取り繕うかのように話を続けてゆき、想像がどんどん膨れていく。
「……もし、このまま私に満足できないとなれば、いずれはお気に召した方を寝所に呼ばれるようになるかもしれません。そうなったら、私……出て行くしか……」
「いやいやいやいや! そんな訳ないでしょ! 新婚さんが何を言ってるの」
今のヴァルナルがミーナ以外の女を呼ぶなんてことは、天地がひっくり返ったって有り得ない話だ。端から見てたら、どう考えたってデレッデレなことこの上もないのに、どうして肝心のミーナにそれが伝わってないのか……?
「うーん……」
ソニヤは渋い顔で思案した。
日頃のヴァルナルのミーナへの傾倒ぶりをみる限り、ミーナの言っていることは杞憂である気がしてならない。だが、所詮は台所で大根を切ってる女に、領主様の気持ちなどわかりようもないことだ。
「そういうことであれば、直接、領主様にお尋ねになるのが一番だと思いますよ、奥様」
「でも、そんなことを聞いてあきれられないかしら?」
「まぁ……大っぴらに言うようなことじゃないですがね、でも二人きりになれる時間はありますでしょう? そのときにでも、ありのままに、正直な気持ちを打ち明ければ、きっと領主様のことだ。ちゃあんと真面目に答えてくださいますよ」
ミーナはソニヤの言葉に、自信なげにうつむく。
ソニヤはポンと軽くミーナの肩を叩いた。
「大丈夫! 男なんてものは、基本的にゃ単純に出来てるモンですよ。訊いてみたら、案外と何でもない理由かもしれませんからね」
ミーナはソニヤの励ましに、ようやく笑みを浮かべた。
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