第三百九十九話 オリヴェルとテリィ(2)
「うわあぁー! なんだこれ、なんだこれ……すごいじゃないか! いったい、誰が描いたんだい?」
オリヴェルの部屋には、描きかけの絵がいくつかイーゼルに置かれていたり、壁に立てかけられていたりしたのだが、それらを見るなりテリィは虜となってしまった。
「あ、あの……僕が」
オリヴェルが恥ずかしそうに言うと、テリィは目を剥いた。
「君が? 君が描いたって? 本当に??」
テリィは心底驚いてから、一つ一つの絵についてまじまじと見入った。
本当であれば、オリヴェルは自分の絵を人に ―― しかも会ってまだ間もないような人間に見せることなどなかったのだが、テリィのあまりの熱心さに、思わずつられるように許してしまった。
「ふーん……なるほど」
テリィはキャンパスにある、オヅマとアドリアンの剣舞の絵を特にじっくりと見ながら、オリヴェルに尋ねた。
「君、これ油絵の具だよね?」
「あ、うん」
「何度も描き直してる?」
「えっ? わ、わかる?」
「ちょっと罅割れしてるよね。乾くのが待てなかったりするでしょ? あと、いい色をキャンパスの上で出そうとして厚塗りしちゃってる……」
オリヴェルは恥ずかしくて下を向いた。
これまで見る人には皆「上手、上手」と誉められてばかりいたので、少し自分でもいい気になっていたのを見透かされた気がした。
しかしテリィは馬鹿にしているのではなかった。
「君、これマリ=エナ・ハルカムを意識して描いてるでしょ?」
「えっ? あ、うん……あ、知ってるの?」
テリィはややうんざりしたように頷いた。
「まぁね、そりゃ公爵邸にいたら、否が応でも目にするから。公爵夫人が好きだったみたいで、よく飾られているよ。
話しながら、そのマリ=エナ・ハルカムの絵の前へと歩いて行く。
机の側面の壁には、以前、オリヴェルがアドリアンからもらったマリ=エナ・ハルカムの絵が飾られていた。三枚贈られた絵の中で、オリヴェルがもっとも気に入っている踊り子を描いた絵だ。
「これなんて、特に彼女のクセが表れてる」
テリィの言い方があまり好意的でないのを感じ取って、オリヴェルはおそるおそる尋ねた。
「テリ……チャリステリオ公子は、あんまり彼女の絵が好きじゃないの?」
「そういうわけじゃないよ」
テリィはあっけらかんと答えた。
「嫌いじゃないよ。ただ僕は特に彼女の初期の絵のほうが好きなんだ。まだ、こういう……何というか抽象的なことをする前の、どこか不安定で迷っていそうな雰囲気が良かったんだよ。でもまぁ、画家の考えることなんて一般人に理解できないことが多いし、仕方ないよね」
オリヴェルはまたも感心した。
テリィの鑑賞眼は自分などよりも、深く作家とその作品を捉えているように思えた。しかも適切な助言までしてくれる。
「君のを見るに……僕は君は油絵よりも水彩画のほうが向いている気がするね」
「水彩画?」
オリヴェルは少し眉をひそめた。
水彩画は古くからある絵画様式ではあるが、それらは多く博物誌などのスケッチであったり、測量士が地形などを描く際に使われるもので、一般的に広く絵画として上流社会に認められるのは油絵であった。正直、水彩画は絵画ではない……というのがオリヴェルの認識している常識だった。
だがテリィはオリヴェルの固定観念もあっさり見抜く。
「最近じゃ、水彩画も絵画の一つとして認められつつあるんだよ。帝都ではそこそこ人気のある画家も出てきてて……。まぁ、無理に変える必要はないけど、僕には君が描こうとしているのがなんというか、軽やかで透明感のある水彩のほうがよく見えるような気がするんだよ」
「でも、僕……水彩画なんて描いたことないんだ」
「そんなこと! 僕が教えてあげるさ」
「え? いいの?」
「もちろんだとも! それでこの絵を完成させて見せておくれよ!!」
頬を上気させて言うテリィにオリヴェルは目を丸くしたが、その言葉に勇気をもらった気がした。
それからの彼らの行動は早かった。
数日後には、オリヴェルはテリィと一緒にレーゲンブルトの雑貨商におもむいて、水彩画の絵の具を買いに行った。
買い物のときに話してくれたのだが、テリィは元々、絵を描くのが大好きだったのだという。何であればピアノよりもよっぽど。
そのため、子供の頃からずっと絵を描いてすごしていたのだが、父が戦争で亡くなって以降、祖父には絵を描くのを控えるように言われた。
跡継ぎとしての自覚を持てと。
それでも祖父の顔色を伺いながら、こっそり描いていたのだが、いよいよ十歳も過ぎて
それまで集めてきた絵の具も、筆も、すべて捨てられた。
せめても、ということで絵を見ることだけは許されたので、すっかり
「本当はね……僕は、画家になりたかったかもしれないよ」
テリィは少し寂しげに言った。
「……かもしれない」と言うことに、貴族の後継者であることの不自由さを感じて、オリヴェルは内心、テリィに同情した。
自分はこの脆弱な体のせいで、そもそも跡継ぎになることを求められてもいない。それは身軽で自由でもあったが、反面、期待されていないことへの落胆も少しだけあったのだ。
だがテリィのように、本当は才能があるだろうに、その方面に進むことはもちろん、絵筆を持つことも禁止されてしまう境遇は、心底可哀相に思えた。
ただ、テリィが子爵家の一人息子であり、小公爵の近侍であることに矜持を持っていることもわかっていたので、そうした感情を見せることは控えた。
こうして二人は絵という共通の趣味を通じて、あっという間に仲良くなっていったのだった。
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