第三百五十三話 不運なるペトラ・アベニウス

 ルンビックが推測したように、ルーカスは『ペトラ・アベニウス死亡』についての情報を既に掴んでいた。四日前、ハヴェルの屋敷に潜ませている手下てかの者が報せてきたのだ。

 聞いたとき、ルーカスは脳裏に浮かんだ女の姿に、皮肉っぽく口元をゆがませた。

 リーディエと同じ鴇色ときいろの髪を持ちながらも、その品性においてはまったく似ていなかった、哀れな女。いつもオドオドと挙動不審な、それでいて急にヒステリックに怒り出す愚かで無知な女 ―――


 ペトラ・アベニウス。


 田舎の役人の娘であったペトラは、縁戚であった元公爵夫人・リーディエと容貌が似ているというその一点でもって、グレヴィリウス公爵家にやって来た。

 表向きは公爵につかえる侍女というていで。

 彼女を連れてきたのは、彼女の父がつかえていた領主・アールバリ伯爵であったが、裏で糸を引いていたのがヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人であるのは間違いなかった。社交界にデビューもしていなかった、ペトラの付添人まで買って出るほどであったから。

 それだけではない。ことこうした工作において、女狐ヨセフィーナは用意周到だった。


 既に退職していた女中頭を半ば脅迫して連れてきて、立ち居振る舞いから食の好みに至るまで、徹底的にペトラをリーディエに似せたのだ。

 元より稀少な鴇色ときいろの髪はそのままに、やや太り気味であったのを強引なまでの食事制限で痩せさせて、多少面長に見える顔は念入りに化粧して誤魔化し……ペトラは必死にリーディエになろうと努めた。そうなれば自分も愛されると思っていた。いや、思い込まされていた。


 しかし公爵エリアスが、見た目だけ似せたペトラに心を開くことはなかった。

 当然だ。どれだけ似せても、ペトラがリーディエ本人になれるはずもない。

 リーディエの打てば響くような煥発かんぱつさは、ペトラには皆無かいむだった。

 みずみずしいまでの感性と、深い洞察。新たな芸術や学問への強い探求心。一方で身分の貴賤を問わず向ける眼差しは比類ないほどに優しく、情け深かった。

 あのような女性が、そうおいそれと出現するわけがない。いくら外を取り繕っても、中身が伴わないペトラは、ただのハリボテでしかなかった。


 あるいは女狐ヨセフィーナはこの時点で、ペトラを見限ろうとしていたかもしれない。

 その危機感がペトラを常になく大胆にさせたのか……。

 彼女は一計を案じた。

 公爵付きの執事に直談判して、エリアスの寝所に手引きするよう頼み込んだのだ。


 むろん普段であれば、善良で真面目な執事が、そのようなことを了承するはずもない。だがリーディエを亡くして以降一年近く、不眠によるエリアスの心身の状態は深刻だった。まるでリーディエを失った空白を埋めるかのように、ちょうどそのときに南部戦役が再燃しようかという慌ただしさもあって、なおのことエリアスは仕事に没頭した。

 ルーカスも気付きながら、自身もまた戦の準備に忙しく、十分に公爵の健康状態について配慮することができなかった。


 善良で真面目な執事は悩んだ末、きっと忠義心からペトラに望みを託したのであろう。

 彼もまた、この公爵家がもっとも美しく軽やかな笑い声に包まれていた日々を知っていた一人であった。

 以前と同じとまではいかずとも、ペトラの献身によって公爵に癒やしが訪れることを、心から祈っていたのだろう。(思慮は足らずとも、ペトラが懸命にエリアスに尽くそうとしたのは本心であったろうから)


 ペトラは執事の手引きで、とうとうエリアスの寝所に忍び込んだ。

 不眠症であった公爵は、薬香を焚いて寝るようになっていたのだが、どうやらこれも催淫・幻覚作用のあるものに変えられたようだ。


 そうして一夜を共にしたあと、公爵は自分の行為を嫌悪しつつも、同時にやはりリーディエに似ているペトラを、どうしても遠ざけることができなかったのだろう。

 公爵夫人として認められることはなかったが、第二夫人として公爵邸に居住することを許された。

 ペトラはリーディエに比べれば愚鈍で、臆病な性格ではあったが、少なくともその時点においては、公爵の気にさわる存在ではなかったのだ。

 だが公爵の子を妊娠してから、彼女の人生は転落の一途をたどった。

 おとなしく、ただ母親として、生まれてくる我が子を楽しみにしていればよかったものを、一体誰に何を吹き込まれたのか……。


 ある日、ペトラは小公爵の住居である七竈ナナカマドの館に入り込み、幼いアドリアンを殺害しようとした。

 しかし凶行は失敗に終わった。

 そのとき、アドリアンをかばって死亡したのは、例の善良なる執事だった。

 彼は最期まで己の愚かな選択を悔い、死をもって自らの責任を全うした。


 その後、ペトラについて、公爵の処理は淡々としたものだった。

 公爵邸からの追放、アールリンデンにある小さな館での蟄居ちっきょ謹慎きんしん

 以降、公爵の関心がペトラに戻ることはなかった。

 

 女狐のほうも、アドリアン殺害に失敗した時点で、素早く切り捨てた。

 巧妙な黒幕は、ペトラが何も言えないように、あくまでも彼女が自分自身の欲望によって、アドリアンを殺そうとしたのだと言わしめた。おそらく、罪の一切を認めれば、死を免れることができるなどと、うまく誘導したのだろう。


 最終的にペトラの一縷いちるの望みとなったのは腹の子だったが、それも女児であった時点で、はかなく消え去ったのだった。―――

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