第二百六十六話 グレヴィリウス家の夜会(13)

「初めまして、小公爵さま。わたくしはルイース・イェガと申します。あ…エーリクは私の兄ですわ」


 ルイースは鬱陶しい家庭教師に今は感謝した。

 小公爵であるアドリアンの前で、非の打ち所がない優雅な挨拶をすると、ルイースは父がよく褒めてくれる『花がこぼれるような笑み』を浮かべた。


「まったく、なんで小公爵さまに気づかないんだよ。さっきだって、閣下と一緒に高座に立たれていたっていうのにさ…」


 さっきまで言い争っていたテリィがブツブツ言い、マティアスも鹿爪らしい顔で頷く。彼らはルイースのあまりの豹変ぶりと、小公爵であるアドリアンに対する馴れ馴れしい態度に、不快感も露わであった。

 一方で近侍二人からの厳しい目にも、ルイースはまったく平然としたものだった。


 確かに公爵閣下の挨拶のときに、高座に公爵と似た少年がいたのは知っている。

 ただ、離れていたし、人が多く立っていてよく見えなかったのと、そもそもその時にはハヴェルとの婚約破棄のことを考えるのに忙しく、正直気にしていられなかったのだ。


「兄から小公爵さまのお話を聞いて、一度、お会いしたいと思っていました。今日、こうして会うことができて、とてもとても嬉しいです!」


 アドリアンは急にルイースが自分のほうに一歩寄ってきて、妙に熱っぽく言ってくるので、思わず半歩さがった。


「それは…どうも。じゃあエーリク、久々に妹さんと一緒に…」


 さりげなくエーリクのほうへと促したが、ルイースはまったくそこから動こうとせず、きっぱりと言う。


「いいえ! 小公爵さま。兄なんてどうでもよろしいのです!」

「え?」

「エーリク兄様はいつも、ずーっと、むっつり押し黙ってばかりで、つまらないのです。一緒にいても、ちぃーっとも楽しくなんかありません。それよりも私は小公爵さまとお話がしたいですわ。いえ、是非にもお話ししたいことがございます!」


 アドリアンは困惑し、助けを求めるようにエーリクを見つめた。エーリクは頷くと、妹の腕を掴んだ。


「いい加減にしろ。小公爵さまに対して、失礼だぞ」

「黙ってて頂戴、エーリク兄様。普段は縫い付けたみたいに口が開かないのに、どうしてこういうときには開くのよ」

「……いいから、お前が黙れ」


 エーリクはいっそ妹の口を塞ぎたいくらいだったが、前にそれをしたときに噛まれたことを思い出す。あのあと膿んで、しばらくは剣を持つのも難儀したのだ。


 しかしルイースは別の手段を編み出したようだった。

 この日のために新調した舞踏靴パンプスのヒールで、思いきりエーリクの靴を踏みつける。


「がッ!」


 エーリクはまた呻いて、今度はうずくまった。

 兄から逃れると、ルイースはアドリアンの手を掴んだ。


「助けてください、私を。望まない結婚を強いられているんです!」

「……それ…って」


 アドリアンは絶句した。

 エーリクの妹であるルイースがハヴェルと婚約したということは、アドリアンもルーカスから聞いて知っていたが、まさか当人がこうまであけすけに内情を喋るとは思わなかったのだ。


 驚いて固まる周囲に我関せず、ルイースは続ける。


「小公爵さまが私と結婚してくだされば、私はあの人と結婚せずに済むわ! だって、あの人よりも小公爵さまのほうが偉いでしょう? あ…偉いってだけじゃなくて、小公爵さまがとても素敵だってことが一番ですわ。えぇ、もちろん」


 アドリアンは呆気にとられた。

 いったい、この女の子は何を言ってるんだろうか? というかそもそも、自分が言っているのか、わかっているのだろうか?


 テリィはもちろん、マティアスですらも、ルイースの突然の申し出に開いた口が開いたまま、何も言えなかった。

 小部屋にいた人々は皆、一様に石と化してしまったようだった。


 エーリクはいつまでもうずくまっていることもできず、痛みをこらえてどうにか立ち上がった。

 今度こそなんとしてもこの妹の口を塞がねばならない。

 久々に怒鳴りつけようと息を吸い込んだとき、鋭い声が響いた。


「なにを言っているんですか、あなたは! 無礼にも程がある!!」


 叫んだのはキャレだった。

 それまであまりに急な状況に混乱して何も言えなかったキャレは、それこそルビーの髪を炎のように揺らめかせる勢いで、怒りに震えていた。


「参りましょう、小公爵さま! このような礼儀知らずを相手になさる必要はございません!!」


 キャレはルイースが握っているのと反対のアドリアンの手を掴むと、グイと引っ張る。


「ちょっと!! 何するのよ!」


 負けじとルイースもしっかり掴んで離さない。


「離しなさい! 失礼な!」


 キャレが怒鳴りつけると、ルイースも青い目に怒りを灯して睨みつける。


「あなたこそ邪魔をしないで頂戴! わたしは、今、とっても大事な話をしているのよ!!」

「お黙りなさい! あなたが勝手に話し始めただけでしょう!」

「うるさいわね! あなたには関係ないでしょう!」

「私は小公爵さまの近侍だから、十分に関係はあります!」

「私だって、その近侍の妹なんだから、いいでしょ!」

「なにそれ!」

「なによ!」


 甲高い声で喚き散らす二人の間で、アドリアンは呆然とするばかりだった。

 喧嘩をやめさせようと口を開いても遮られ、腕をあっちにこっちにと引っ張られて、為す術もない。

 そうこうしている間に耳も痛いし、腕も痛くなってきた。


「ちょ…っ…と」


 さすがに腹が立ってきて、抗議しようと思ったとき、入口に現れた人の姿に顔が強張る。

 そこにいたのは、父とハヴェルだった。

 一気に、背中に汗がふきだした。


「黙れ…」


 渇いた口の中でつぶやくが、すっかり喧嘩に夢中のキャレにもルイースにも聞こえない。

 エーリクやマティアスも、公爵閣下の前で怒鳴り声をあげる勇気はなかった。というよりも、目の前で言い合っている二人以外は、公爵が現れた途端に空気が冷えたかと思うくらいの緊張を感じて、とても口をきける状態でなかった。


「うるさい! 黙れ!!」


 アドリアンが怒鳴ると、ようやくキャレとルイースは口を開けたまま止まった。

 手首を掴んでいた二人の力が弱くなったので、アドリアンは両手を振り払った。

 すぐにその場に片膝をついて、父に頭を下げる。


 キャレも、そこに公爵がいることに気付くと、一気に青くなって、ほとんど崩折れるように跪いた。

 ルイースは恐る恐る振り返り、公爵とハヴェルの姿を認めると、さすがに血の気が引いて、キャレと同じようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。


 さっきまで騒々しかった小部屋は水を打ったように静まり返った。

 そこにいた人々は皆、公爵に対して頭を下げたが、それは敬意を表すというよりも、かの人の視界に入ることを恐れたからだった。

 唯一、頭を下げることもなく、公爵の隣で相変わらず笑みを浮かべていたのはハヴェルくらいなものだ。


 ピンと張り詰めた空気の中を、公爵 ―― エリアスはゆっくりとアドリアンの前に歩いて行く。

 跪いた息子の前に立ったまま、しばらく無言だった。


「……この騒ぎはなんだ?」

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