楽聖断章
再び例の建物での清掃の仕事だ。ブロックさんとカミヤさんに挨拶をしてから、エレベーターに乗り込む。今日はカミヤさんは乗らない。それは前回、七階から下に向かって掃除をしていったため、用具が一階に残っているからだろう。同様にブロックさんは八階で、わたしたちは十五階で降りる。
倉庫までの廊下の壁を、今日はわたしも、注視する。べトンの表面に壁紙を張っているようだ。手触りはいい。こういうところに無駄に金を費やしたのか。
用具室から一昨日と同じものを取り出し、作業を開始する。慣れれば簡単な仕事だ。わたしは歌を口遊みながら作業をする。思い出の曲。そんなわたしを――アークさんが、じっと見ていた。
「な、何ですか?」
「――『
「え?」それは――何だろう。「あの、『テレーゼのために』、だったと思うのですが」
「それは原題ですね。私が言ったのは、作品番号です。25番目の断章――おっと」アークさんは、そこで話を中断し、「今は、仕事中ですよ。集中しましょう」と再び掃除機を稼働させる。
わたしはよく解らないまま、口を噤んで作業を続ける。わたしと同様に、アークさんにも、何か思い入れがあるのだろうか。
わたしにとっては、わたしの本当の家族との、大切な記憶。
では彼にとっては、何なのだろう。
突き当りの窓拭きを終え、扉に取り掛かる。一つ目。二つ目。三つ目――の扉に触れると、鍵が閉まっていなかったのか、右勝手の戸がきいぃぃと部屋の中へ動いてしまう。室内からは人の声。慌てて閉めようとした――わたしの耳が、会話の断片を拾う。
「――ビルの
――後ろから誰かがわたしの口を押さえる――
“ ¡▽▲! ”
わたしは――後ろを振り向く。口を押さえていたのは、アークさんの手だった。彼は手を伸ばし、そっと戸を閉める。わたしは口を開く――が、
恐怖等が原因ではない。ただいつも通りの手順で声を出そうとしても、音が聞こえない。わたしは――通じるか解らないものの、手話で、尋ねることにする。
『この状態は何ですか?』
アークさんはわたしの動作を見ると、すぐに、
“ ¡▲▽! ”
世界に音が戻ってくる。「あの――今のは」
「聞きましたか――部屋の中でされていた、話を」
「は、はい」
「取り敢えず、今は、清掃に徹しましょう」アークさんは掃除機を手に取った。「ブロックくんとカミヤさんには、言わないように」
わたしは
☨
昼食時の同僚二人の食べっぷりも、先程の衝激には勝てない。
仕事を終え、一階の集合場所に行く。今日も終わった順は、カミヤさん、わたしたち、ブロックさん。
今日は随分疲労感がある。半分は心労だ。
「カミヤさん。残ってもらえますか?」
え?
「あ、そうスか。じゃあじゃあお先でーす」
ブロックさんだけが帰っていく。三人になったところで――アークさんは、再び口を開く。
「この応接間は、この時間、誰も使用しません。どうぞ、腰掛けて下さい」
わたしたちは言われた通り、その場の黒いソファに座る。アークさんは通勤時いつも持つバッグから――イヤホンを取り出す。
「カミヤさん」
アークさんはわたしの左隣の人の名を呼ぶ。彼女はわたしと目を合わせた。
透き通った
「大丈夫ですよ――心配しなくても」
アークさんは言って、カミヤさんにイヤホンを差し出す。彼女は一度深呼吸をすると、合った時から脱いだところを見たことがないフードを、取った――
黒髪から生える三角形の耳が――二つ。
わたしが驚いて何も言えずにいると、カミヤさんは俯いてその猫耳をぺたんと左右に倒す。
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