第13話 心境の変化ーケイティサイドー

 その日は月曜日。当たり前のように今週も学校が始まる。

 いつもと同じ様に食事を取るも、父も母も、二人の兄もその子供達も、口数が少ない。

 おそらく、昨夜大声で泣いていたのを聞かれているのだろう。きっと、スティーグに振られたと思われているに違いない。そしてそれは、当たっている。と同時に外れでもある。ケイティの方が冷めてしまったのだから。


「……学校行ってくるわ」

「……ああ、行ってこい」


 長兄だけがチラリとケイティの顔を見て送り出してくれた。


 学校ではいつも通りだ。カールにももちろん会ったが、彼から何かを聞かれる事はなかった。校内で処女はどうなったかなど、口に出すのは憚りがあるのだろう。直接ケイティには聞かず、スティーグに確かめるつもりなのかもしれない。

 お昼休みになると、ケイティはいつものように学校を出た。しかし向かった先は、騎士団本署ではなく、大きな美術館だ。

 心が癒される、と確かカミルは言っていた。このズタズタに傷ついた心を少しでも癒そうと思い、立ち寄ったのだ。それ以外に目的はなかった。

 チケットを買い、中に入るとひとつずつ美術品を見て回る。思った以上に大きな美術館で、じっくり見ていては昼休憩が終わってしまいそうだ。

 ケイティは全ての美術品を見るのを早々に諦め、一枚の絵画の前に置かれている、長椅子に腰掛けた。正直言って、ケイティには絵の良し悪しなど分からない。ただ、深い水底から見上げるような紺碧の絵を、ぼうっと見つめる。すると不思議と心が落ち着いてきた。

 ケイティは思う。スティーグの事はこれで終わりにしようと。

 自分が悪かった部分は多々ある。今までしつこいくらいに追い掛け回し、自分の感情を押し付けてしまっていた事。無理矢理にセックスを持ち掛けた事。そして、処女ではなくなったと嘘をついて騙してしまった事。

 こんな風になったのは、自業自得なのだ。

 でも、それでも。

 スティーグならば、優しくしてくれると思っていた。どうしてスティーグがあんな酷い行為に出たのか、ケイティには分からない。だから、ただただショックを受けた。そして、急速に冷めたのだ。

 ケイティから会いに行かなければ、スティーグと会う機会はほとんど無い。家が近所なので見かける事はあるだろうが、そう頻度は多くないはずだ。

 もう顔を合わせたくはなかった。会った所で何を言っていいのか分からない。今までと同じようには過ごせない。幼馴染みにすら、戻れない。

 でも、それで良いと思った。これでようやく普通の女になれる気がした。生まれる前の記憶にこだわり過ぎていたのかもしれない。記憶などなければ、普通に誰かと恋愛し、結婚していたかもしれないと。


「え、先生?」


 物思いに耽っていると、聞き覚えのある声がした。視線を紺碧の絵から外すと、そこには教え子であり、親兄弟が勝手に決めた婚約者が立っている。


「カミル」

「やっぱり先生だ。来てくれてたんですね!」

「ええ、少し癒されたくて」

「……何かありましたか?」

「そうね。カミルには言っておくべきかしら」

「なんです?」

「ごめんね、魅力が減っちゃってるでしょ?」


 その言葉だけで、カミルは瞬時に理解したようだ。少し悲しげに顔を歪ませたが、振り切るように営業用と思われる笑顔を見せてくる。


「先生、食事はもうお済みですか?」

「いいえ、あまり食べる気がしなくって」

「では僕の食事に付き合って下さい。この館内にレストランが入っているんですよ。是非、そこで」

「じゃあ、紅茶でも頂こうかしら。カミル、奢ってくれる?」

「ええ、もちろん」


 カミルに案内され、レストランの中に入っていく。奥に進むと個室があり、カミルは迷うことなくそこに足を進めた。


「どうぞ」

「ありがとう。素敵なレストランね」


 引かれた椅子に座り、周りを見る。美術品が数点並んでおり、見るからに高そうだ。VIPルームなのかもしれない。

 カミルは食事と紅茶を頼むと、ケイティに向き直った。


「先生、時間が限られているでしょうので単刀直入に伺います。一体、相手は誰ですか?……大体の予想はついていますが」

「……スティーグよ」


 ケイティが答えると、カミルは「やっぱり」とがっくり肩を落とした。


「……では、先生は、スティーグ様を落とせたんですね……おめでとう、ございます……」

「落としてないわ。あなたと結婚するのが条件で、無理矢理抱いて貰ったのよ」

「どういう……事です?」


 ケイティは、スティーグと事に至るまでの経緯を包み隠さず話した。

 スティーグの隊の者が自殺した所から、体を使って慰めようとした事。

 それが上手く行かず、スティーグに処女でなくば抱いていたと言われて、処女を捨てるべくカールの所へ行った事。

 カールには断られ、売春をそそのかされてその気になり、街を彷徨っていたらロレンツォに会った事。

 ロレンツォは、処女を貰った事にしてあげるから、スティーグに処女を捧げるように言われた事。

 スティーグには処女じゃなくなったフリをして、騙して抱いて貰った事。

 望んだようなセックスにはならず、急速に冷めてしまった事。

 自分が悪い事は分かっているが、どうしようもなく傷付いてしまった胸の内も、全て正直に話した。

 カミルは常に真摯にケイティの話を聞いてくれる。


「処女が魅力だって言ってくれたあなたには、ちゃんと伝えておかなくちゃと思って。ごめんね、婚約を取り消して貰って構わないのよ」


 ケイティの言葉に「まさか」とカミルは首を振る。


「確かにショックではありましたが、先生が受けた心の傷に比べたら大した事はないです。それに、キスは誰ともしていないんですよね?」

「ええ」


 ケイティが首肯すると、カミルは嬉しそうに微笑んだ。


「大事に取っておいて下さい。僕たちの結婚式の時まで」

「……カミル、本当にいいの? こんな私なんかで」

「嫌になる要素なんてどこにも無い。僕の気持ちに変化はありませんよ。必ず……必ず、幸せにしてみせます!」


 カミルは真剣な眼差しで、ケイティの手を強く握ってくれた。

 思えば、人にこんなに真剣に想われた事などない。スティーグと一緒にいる時間が長過ぎたせいなのか、ただ単に人柄的に好かれなかったのか、一度も告白をされた事など無かった。

 初めて人に想われて、ケイティは安堵していた。人に愛される事が、こんなに居心地の良いものだとは知らなかったのだ。

 それを知ってしまうと、一方通行の恋は辛すぎた。よく三十八年も耐えられたものだと、今になって思う。


「先生、僕と結婚してくれますね?」


 単純に、嬉しかった。カミルと言う人間をもっと知りたいと思った。愛してくれる彼の元でなら、本当に幸せになれると思った。

 その問いに、ケイティはコクリと頷いていた。


 その日、仕事が終わり家に帰ると、そこには何故かスティーグの姿があった。一番会いたくない人に会って、ケイティはただいまも言わずに自室に向かおうとする。


「おい、ケイティ!挨拶くらいしろ!!」


 口うるさい長兄ギルバートに言われ、ケイティは仕方無くくるりと向き直った。


「ただいま戻りました。ごきげんよう。さようなら」


 再び踵を返すと、ギルバートが走り寄って来て頭をガツンと殴られる。


「いったいわね!! 何すんのよっ!!」

「お前がバカな態度を取るからだ!! スティーグが話があると言っている、聞けっ!!」

「ギル兄、殴られるべきは、オレだ。ケイティにそんな態度を取らせる事をしてしまったオレが悪い。……クーオール家の皆、聞いて欲しい」


 そこには両親と兄二人がいる。皆一様に、何を言われるのかと構えていた。もちろん、ケイティも。


「実は昨晩、オレはケイティの処女を奪ってしまった。まずその事をお詫びしたい」


 いきなり何を言い出すのか。処女を奪った報告を家族にする奴がどこにいると叫びたくなる。

 しかしケイティの両親は怒るでもなく、むしろ嬉しそうに微笑み、ギルバートはほほうと感嘆の声を上げ、アルバートにいたっては良くやったと言わんばかりに拍手をしている。

 もし姉のグレイスがいれば、良かったわねと抱き付いて喜んでいた事であろう。


「こんな事をしておいて、クーオールから逃れようとはオレも思っていない。男としての責任を、果たすつもりでいる」


 男としての責任。つまり結婚だろう。兄二人は「おおっ」と同時に声を上げ、両親はやはり嬉しそうにニコニコ笑っていた。


「やったな! ケイティ!! お前の粘り勝ちだ!!」

「まさかこんな日が来るとは思わなかったよ! 良かったね!」


 喜ぶ家族を前に、ケイティは彼らを睨みつける。


「私、スティーグとは結婚しないわよ」


 その一言で、歓喜の声はピタリと止んだ。兄二人は、『何をバカな事を言っているんだ?』とでも言いたそうな顔だ。


「何をバカな事を言っているんだ?」


 実際に言ったのは、長兄ギルバートの方。


「結婚しないって言ったのよ。私、カミルと結婚することに決めたわ」


 やはりケイティの家族には理解出来なかったようで、眉根を寄せてケイティを見ている。


「大体今更何よ!? あんな誓約書まで書かせておいて、責任を取るですって? バカにするのもいい加減にしなさいよ!」

「誓約書の件は無効だ。あの時、お前は既に処女を捨てたと思っていたからな」

「じゃあ今まで処女を奪った子に対しての責任を取ったら?」

「どうした、ケイティ? オレが結婚してやると言っているんだぞ!?」

「もういいわ。カミルと結婚する。彼に今日、直接そう伝えたもの」


 スティーグの顔が歪んだ。

 もういい。もうスティーグなんかどうでもいい。

 無下に断った罪悪感はあったが、それはお互い様だ。スティーグは今まで何千回、何万回もケイティの求婚を断っているのだから。


「こんのバカ妹!! 何があったか知らんが、一時的な感情に惑わされるな!!」

「そうだよ、ケイティ! ずーっと思い続けて来たのに、どうしたのさ!?」

「ケイティ、キンダークには父さんが断りを入れておいてやるから、スティーグと結婚しなさい」

「そうね、それがいいわ」


 今までずっとスティーグを諦めろと言っていた家族が、手の平を返したように再びスティーグの肩を持つ。それもまた腹立たしい。

 責任を取って結婚して貰って何になるだろう。以前はそれでもいい思っていた。一生、スティーグが自分の物になりさえすれば。でも今は違う。

 愛されかった。

 愛のない営みなど、地獄だ。あの地獄を一生味わうなど、我慢出来ない。

 カミルの愛情に包まれて、心穏やかに暮らして行きたい。


「もう、放っておいて頂戴! 誰と結婚するかは、私が決めることよ!」

「おい、よく考えろケイティ! スティーグだぞ!? あんなに望んでいた、スティーグとの結婚が実現するんだぞ!」

「私はスティーグよりカミルを選んだの! もうスティーグとの結婚なんて望んでないわ!!」

「こら、バカ妹っ!!」


 ケイティはその場を抜け出すと自室に籠もって鍵を掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る