六章 向き合う覚悟

episode1

 シャツにハーフパンツといった出で立ちでキッチンに向かうと冷蔵庫から炭酸水を取り出し、一気にあおる。乾いた喉を冷たい炭酸水が潤し、その爽快な喉越のどごしに俺は思わず声を漏らした。

 その足でバルコニーに向かい、窓を開けると生温かい風が部屋の中に吹き込んできた。俺はそのままバルコニーに出ると、濡れた髪をタオルで乾かしながら夜空を見上げた。

 雲もなく、空気も澄んでいるせいか星が綺麗に見えた。大きく息をつき、俺はバルコニーの外壁に肘をつく。

 ――伊集院に送られ、月宮館に戻ってきたのは午後七時を少し過ぎた頃だった。

 一週間以上締め切っていた部屋のドアを開けると、中から蒸し暑い空気が溢れ出てきた。熱を帯びた空気が身体にまとわりつき、息をするのも一苦労の中、俺は汗だくになりながら部屋にあるすべての窓を開けて歩き、そのままシャワーを浴びに浴室へと向かったのだ。

 俺は乾ききっていない前髪をかき上げながら、秋山に「今日は帰れない」とメールを入れた。そしてすぐに苦笑いを浮かべる。

 帰れないってなんだよ。俺の家はここのはずなのに。

「……居心地よかったからなぁ」

 目を細めながらアパートでの生活を思い出していると、秋山から返信がきた。早いな、と思いつつ携帯画面を開くと『柊さんによろしく』とひと言書いてあるだけだった。

「よろしく、か」

 携帯画面を見つめながら、ぼんやりと呟いた。その時、隣の柊の部屋の窓が開く音がした。俺は思わず背筋を伸ばす。

 だが、しばらくたっても柊は何も言ってこず、かすかな煙草の匂いだけが風に乗って俺の鼻孔びこうに届いた。

 俺がバルコニーに出ていることに気付いていないのだろうか。いや、窓の開く音はリビングの中にいても聞こえるはずだ。俺は何度か柊の部屋の窓が開く音をリビングで聞いている。窓を開けている時だったが、窓を開けていなくても少しは聞こえるのではないか?

 けれど柊がリビングではなく寝室や別の場所にいたのなら、気づいていないのもおかしくない。もしかしたら赤井がまだ部屋にいるのだろうか、と一瞬頭をよぎった。

 迷った末に俺は柊に声をかけた。

「こんばんは」

 予想はしていたが、柊の返事はなかった。諦めずに俺は話し続ける。

「俺も秋山もなんとか追試を免れることができました」

 やはり返事はない。けれど煙草の煙が俺の方まで流れてきているので、まだ柊がそこにいるのは確かだった。

 俺は、なおも話し続ける。

「今日、赤井が来ていたみたいですね。……まだ、いますか?」

「――誰から聞いた?」

 初めて柊が言葉を発した。久しぶりの柊の声。抑揚のないその声に柊の感情が読み取れず不安になる。その一方で、俺は身体が高揚こうようするのを隠すことができなかった。

 今、柊はどんな表情で隣に立っているのか。どんな気持ちでそこにいるのか。俺は柊の部屋のドアへと駆けていきそうになるのを必死でこらえた。

 今の俺には、柊に面と向かって自分の気持ちをきちんと言葉で伝える自信はなかった。

 身体が彼を求めている。それでは、他の人たちと同じになってしまう。俺は気持ちを抑えるために深呼吸をしてから、「伊集院さんです」と答えた。

「来る者は拒まない主義なんでね」

 淡々とした口調で柊が答えた。

「そうですか。……でも、マコトさんも赤井も自分で呼んだんですよね?」

「ああ。彼から聞いたのか」

 柊は堺のことを〈彼〉と呼んだ。どうやら柊も堺と面識があるようだ。

「はい」

「あの日は溜まっていてね」

 残酷な言葉が柊の口から発せられ、俺は思わず唇を噛んだ。

「……酷い人ですね。マコトさん、泣いてましたよ」

「随分、彼と仲良くなったみたいだな」

「いい人ですから」

「遊園地まで行ったそうじゃないか」

「……秋山ですか」

「結構なことだ」

「試験を頑張ったご褒美です」

「……なるほど」

「ちなみに秋山は動物園に連れていかれました。ああ、そうだ。秋山が柊さんによろしくって言ってましたよ。堺さんの買ったばかりの車がコペンなんで、アパートのみんなが一人ずつ連れ回されてます。あの人、面白がるようにデートスポットばっかり狙って行くから、みんな罰ゲームだって言ってますよ」

 俺が言い終わるか終らないかのところで、「もういい!」と柊が声を荒げた。一瞬ひるみはしたが、俺は食い下がるように話し続けた。

「でも、ちゃんと話さないと何も伝わらないじゃないですか。堺さんとのこと、誤解されたくないんです」

 柊はまた何も答えなくなった。俺はそのまま話し続ける。

「アパートのみんなと一緒に過ごすのは楽しいです。個性の強いヤツばかりで、あの秋山がかすんで見えるくらいなんですよ。……それでも、やっぱり俺は柊さんがいいです。柊さんと一緒のほうがいいです」

 俺はバルコニーの間に仕切られた壁の向こう側に立つ柊に向かって言った。

「――彼らを傷つけるのは、もうやめてください」

「君には関係のないことだ」

 突き放すような口調で柊が言った。

「いいえ。マコトさんが傷つけば、堺さんも傷つきます。秋山やアパートの他のみんなも堺さんのことが好きなんです。あの人の傷ついた姿を見たら、みんなきっと心配する。だから、関係なくなんてありません」

「……君もか?」

 今まで聞いたことのないような低い声で柊が聞いてきた。

「好きですよ。でも、柊さんへのものとは別のものです。柊さんは怒るかもしれないけど、堺さんは少し伊集院さんに似てます。雰囲気とか考え方とか。――特に、自分も傷ついているのに他人ひとに優しくできるところが」

 突然、勢いよく窓が閉まる音がした。

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