episode2

「祐一、もう大丈夫なのか?」

 俺の姿を見つけた秋山が駆け寄ってきた。

「ああ、もう平気」

 ――嘘。全然平気じゃない。

 結局、昨日はあのまま眠ることができずに朝を迎えた。あの学生が、あれからどうしたのかなんて知らない。知りたくもなかった。朝までずっとヘッドフォンで音楽を聴いていた。

 だから、昨日よりも体調は最悪だった。

「無理するなよ。顔色、めちゃめちゃ悪いぞ」

 心配そうにのぞき込む秋山。

 こんな馬鹿な俺を心配することないのに。秋山の顔をまともに見ることができず、目を伏せたまま俺は「大丈夫」と短く答えた。

「しんどかったら言えよ? 来週から試験だろ? 図書館で勉強してこうぜ」

 図書館の方へ向かいかける秋山を、慌てて止める。

「お前の家でやろうよ。図書館だと周りに、えと、風邪うつしちまう可能性あるし」

「俺はいいのか」

 にらみつける秋山に「えへ」と笑って誤魔化した。

 柊には会いたくない。俺の家だと秋山は柊の家に行きたがるだろう。それだけは、嫌だった。昨日のあの学生の痕跡が残っているかもしれないあの家には行きたくない。

「お前ん家でいいじゃん」

「汚いんだよ、うち。いつも俺の家ばかりだろ。お前の家も見てみたい」

「いいけどさ、俺、馬鹿じゃねぇからなぁ。夏休みはバイト三昧ざんまいの予定だから風邪うつすなよ。あと、うちでリバースするなよ」

 突っ込んだ方がいいのだろうか、と思ったが面倒だったので流すことにする。

「大丈夫だよ。もう回復したから」

「ほんとかよ」と疑いの眼差しの秋山。

「信じろって」

「信じてるさ、親友だからな。だから、しんどかったらちゃんと俺に言えよ」

 秋山がこれまでにない真剣な顔で、さっきと同じセリフを言った。

「分かった」

 俺はうなずく。頷くことしかできなかった。言えない。目標すら暫定で半端なのに、男の柊のことばかり考えているなんて。泣きそうになるのを必死で堪える。

 秋山ごめん。実は、試験勉強を利用して秋山の家に泊るつもりでいた。そうすれば柊の顔を見なくてすむ。柊の家に出入りする他人ひとの気配に怯えなくてすむ。家を出た時から、ずっと考えていたことだった。俺は本当に自分のことしか考えていない。

「言っとくけど、うち狭いからな」

「分かったよ」

「ほんと狭いからな」

「だから分かったって。しつこい」

 大学から歩いて十分ほどのところにある築四十年の木造アパート。その一階に秋山は住んでいた。

 秋山からおんぼろと散々言われていたのでどんなところかと思ったが、築年数の割には小綺麗なアパートだった。深い緑の外観に階段や手すりは白く塗装されていてサビもない。駐車場はアスファルトで舗装されていた。極めつけは、屋根に可愛らしい風見鶏がついていた。

 アパートを見上げながら「いいとこじゃん」と呟くと、「なんかお前に言われると腹が立つ」と秋山が渋顔じゅうめんになる。

「なに言ってんだよ。俺だって親戚が海外赴任にならなきゃ、こういうとこ住んでたよ。それに、ここほとんどうちの学生が住んでんだろ? いいじゃん」

「まぁ、確かに楽しいけどさ。この壁、去年の卒業生が塗ったんだ。色塗り直して綺麗にして退去するのがこのアパートの習わしらしい。ちなみにあの風見鶏はその時につけたんだって。あれは気に入ってる。でも中はぼろだからな。ていうか、ほとんどじゃなくてみんな同じ大学の野郎ばっか。分かる? 野郎ばっか」

「分かったって。学生寮って感じか」

「そんな感じかな」

 秋山はデニムのポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。

「どーぞ」

「どーも」   

 六畳ひと間のワンルーム。

 部屋の中央には、敷きっ放しになったままの布団があり、飛び起きたかのように掛け布団がめくれ上がったままの形をとどめていた。

「お前の今朝の様子が見て取れるよ」

 呆れながら言うと秋山が照れくさそうに、「いやぁ、布団の中が気持ち良くてさ」と頭をかいた。

 ざっと部屋を見渡すと、布団以外は綺麗に整えられている。案外、綺麗好きなのかもしれない。

「じゃあ、始めるか?」

 俺が畳に腰を下ろすと、「コーヒー淹れるよ」と秋山で支度を始める。

「サンキュ」

 鞄から荷物を取り出していると、さっき秋山が畳んだ布団の上に置かれていた本が目に止まった。なんとなく気になって手に取ると判例六法だった。俺と違って秋山は寝る直前まで勉強しているようだ。

 弁護士になるため、着実に秋山は前に進んでいる。それに比べて、俺は……。半端な気持ちで立ち続けているのに、前へ進む努力すらしていない。

 秋山は、俺のようにうしろを振り返ることがあるのだろうか。振り返って、悔い、悩むことが彼にあるのだろうか。――俺には、そんな秋山の姿が想像できなかった。

 今のままでは、秋山は俺を置いて一人で先に行ってしまうのではないか。そう考えた瞬間、胸がつぶれるほど苦しくなった。口の中に苦いものが広がる。握った拳に力を込め、本をじっと見つめていると、部屋のドアがノックされた。我に返り玄関を見ると、「どうぞー」と秋山がコーヒーを淹れながら返事をした。

「おい、いいのか?」

 相手を確認もせずに返事をする秋山に向き直ると、「隣のヤツだよ。ほら、同じ英語のクラスの滝川たきがわ」と秋山が言った。

 ドアが開くと、秋山の言うとおり滝川が入ってきた。

 天パだと本人は言い張るクルックルの髪を綺麗に整え、黒ぶち眼鏡を神経質そうにかけ直す滝川は、今日は小花柄のシャツを着ていた。毎日シャツばかり着ているから英語クラスの女子の間で『シャツ男』と言われているらしい。以前、秋山が面白がって教えてくれたことを思い出す。

「あれ、珍し。三澤じゃん。うっす」

 滝川は俺に片手を上げ、

「アッキ、ジンの実家から肉が届いたらしいけどお前も食う?」

 コーヒーを淹れていた秋山は電光石火でんこうせっかのごとく滝川に「当たり前だろ! 食わない選択肢なんてあるか!」と真顔で返した。

「だと思った」

「やったぁ、久々の肉だ。あ、三澤もいいだろ? 冷蔵庫にある大根持ってくよ」

「大根って……もっとましな食材はないのか」と呆れ顔の滝川。

「いいじゃん、大根美味いよ。キャベツも持ってってやるよ」

 滝川は肩をすくめ、「じゃあ、あとでジンの部屋でな」と言って出ていった。

「やったな、祐一。肉だ」

 秋山が嬉しそうに言いながらコーヒーの入ったコップをテーブルに置いた。

「サンキュ。なぁ、ジンって誰?」

「同じ法律学科の陣内じんないだよ」

「ああ、アイツもここなんだ」

 知り合いばかりが周りにいて、なんだか羨ましくなった。

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