第1話

 二〇〇八年二月十二日。

 愛知県警刑事部刑事総務課の犯罪情報分析係の結城は、奇妙な感覚にとらわれていた。

 先日、発生した殺人事件。その容疑者である少年のパソコン記録から、Q&Aサイトと呼ばれる掲示板を閲覧していたことが判明した。

 最近は犯罪者による掲示板への書き込みが増えており、案の定、少年の書き込みがそのサイトからいくつか見つかった。犯行の動機を知る上での重要な手がかりとして、捜査本部はすべての拾い出し作業を行った。

 今後も掲示板への犯行予告や犯行の動機につながる書き込みなどが増えることを想定し、それらをデータベース化する作業に結城はここ数日追われていた。その時だった。

 既視感きしかん――。

 パソコン画面を見つめながら結城は首を傾げる。なんだ、この感じは。何かが引っかかる。うなっていると、「何か悩みでもあるのか?」と隣の席の佐竹が声をかけてきた。

「悩み? いや、特にないけど」

「だって、食い入るように見てただろ?」佐竹は俺のパソコン画面を顎で指す。「悩みでもあるのかと思ったのに。残念」

 何が残念だ。

 結城は佐竹をひと睨みし、「南区の事件の、例の容疑者の書き込みを見てたんだ」とここ連日のオーバーワークのせいで岩のように硬くなっていた肩をほぐしながら言った。

「なんだ、つまんねぇな」

 佐竹は笑って椅子の背にもたれ掛かった。

 メタボリック気味の佐竹の体を支える椅子はギイッときしむ音を立て、まるで悲鳴を上げているようだ。佐竹、人のことは言えないが少し痩せた方がいいぞ。椅子があわれだ。

「こんなところに書き込むくらいなら誰かに相談するさ。こう見えて友人は多いんだ、俺」

「はっ」佐竹は鼻で笑った。「よく言うよ。いつも俺としか飲んでないじゃねぇか。それに、知り合いには言い難い悩みとかだってあるだろ? 言っとくが女の相談なら受けてやってもいいが、借金の相談はお断りだ」

「安心しろ。そんな相談、誰もお前にしないさ」

 結城が呆れて言うと佐竹は大げさに首を振ってみせた。

「俺の魅力を解ってねぇなぁ」

「お前こそ、自分のこと解ってねぇなぁ」

「ほっとけ。お前よりかは、ましだっての」

 メタボリックの奴に言われたくないな。

 結城は佐竹の真似をするように大げさに首を振り、「俺は既婚者、お前は独身。ご愁傷様」と胸の前で手を合わせた。

「腹立つ奴だな。心配してやってるのによ」

 さっき残念とか言ってなかったか。

「そりゃ悪かったな。でも顔も名前も判らない人間に相談して、まともな返答がくるとは思えないんだよな、俺」

 佐竹の椅子は相変わらずギイギイッと悲鳴を上げて耐えている。いつ壊れてもおかしくない椅子に、子供が小さい頃に一緒によく遊んだ〈黒ひげ危機一髪〉のスリルに似ているな、と結城はつまらないことを思った。

「馬鹿だな。顔が見えないからこそ、遠慮も建前もなしに気兼ねなく会話ができるんじゃないか」

 結城の心配をよそに佐竹は一層椅子の背にもたれ掛かり、気持ちよさそうに伸びをした。

「そういうものかね」

「そういうものなんだよ、今の世の中。お気軽、お手軽。それが一番」

「確かに情報を得るには手軽で便利だけどな。でも俺は、こういう顔の見えない繋がりはあまり好きになれないな」

 佐竹は、「古いな、お前」と苦笑した。

「古くて結構。お前みたいに新しもの好きじゃないんだよ」

「こんな仕事選んでおいて苦手ってのはどういうことかね」すぐに佐竹は首を傾げた。「でもお前、普通にネット利用してるじゃん。さっきだって調べものしてただろ? それを載せてるのも顔の見えない赤の他人だぞ」

「あー、説明が難しいんだよな」結城は少し考え込み、「えーとな、俺の中では辞書で調べるのとウェブ上の情報を検索するのは土俵は違えど行為は同じなんだよ。もちろん辞書と違ってウェブ上にある情報は、素人が俄知識で載せてるものも多いから選別しなくちゃいけないけどな。俺にとっては大容量の電子辞書を引いている感覚なんだ。だから、ソレは大丈夫なんだよ。俺が苦手なのはインターネットコミュニティ。掲示板だのSNSだのっていうアレだ」

 佐竹は腕を組んで唸り声を上げた。

「さっぱり解らん。そのQ&Aサイトだってお前の言う辞書にならないか? これだってインターネットコミュニティだぞ?」

「だから俺もうまく説明できないんだよ。すべてを否定している訳じゃないし。漠然とした不安みたいなものがあるんだ。――この仕事してるとさ、他人よりネット世界の〈陰〉の部分がよく見えるだろ? 人の悪意とか邪な欲望とかさ。だからかもしれない。怖いんだ。……なんかさ、底なしの闇に引きずり込まれそうな得体の知れない不安に襲われるんだ。お前は感じないか?」

 佐竹は顎をさすりながら、しばらく黙考もっこうする。結城は佐竹の答えを静かに待った。

「まぁ、この仕事してりゃ人間の腐った部分や誘惑に負けて堕ちた人間を嫌でも目の当たりにするからな。個人を特定されかねない情報を垂れ流してる奴とか見つけると、怖いもの知らずだな、とは思ったりするけど俺自身はあんまり感じたことはないなぁ」

「……そうか」

 オプティミストの佐竹らしい。

「神経質になり過ぎなんだよ」

「危機回避能力が優れていると言ってくれ」

「はいはい」

 おざなりに返事をしながら、佐竹がパソコン画面を覗き込んできた。内容が気になっていたのだろう。しかし、すぐになんともいえない顔になり大きな溜め息を漏らした。

「なんだこれ。そんなことまで自分で決められないのか?」

「みたいだな」

「あほらし。仕事しよ」

 佐竹はそう言って自分のパソコン画面に向き直った。

 彼が呆れるのも無理はない。書き込みの内容は、自分はどこの大学に入学したらいいか、というものだった。そしてどの大学が人気が高いか、単位が取りやすいか、そんな薄っぺらな内容がダラダラと書き込まれていた。

 こんなところに書き込むよりも、学校の進路指導室に行った方が手っ取り早いだろうに。まぁ、この少年の場合は、大学に何をしに行くつもりなのか、まずはそこから考えるべきだろうけれど。

 少年の書き込みに対し、ほとんどのコメントが少年の考え方の甘さをいさめ、結城と同じように進学することの意味を考えた方がいい、と助言していた。それらのコメントに少年は返信をしていない。自分の欲しい返事がなかったからか、返信すること自体が面倒だったからかは判らないが、コメントに返信をするのは最低限のマナーだ。それすらできていない彼に、結城は顔をしかめる。

 少年はその後も何度か書き込みをしていたが、相変わらずコメントに返信することはなかった。そんな彼の書き込み内容が一変したのは、一月の中旬頃だった。

 センター試験を終えたその夜、今まで進学を賛成していた両親が急に経済的な理由から進学を諦めるように少年に言ってきたそうだ。『青天の霹靂とはまさにこのことだ』と彼は書き込んでいる。

 それに対し『お金を出すのは両親なのだから諦めるべきだ』『進学はいつでもできる』『そこまで勉強がしたいのなら独学すればいい』といったものから、少年に対して同情を寄せるコメントがいくつか寄せられていた。

 その中で、少年からの返信がついているコメントがひとつだけあった。

 その青年――実際、本当に青年かどうかは判らないが――は奨学金制度について解り易く説明し、両親を説得することを勧めていた。最後は『頑張れ』と励ましの言葉で締め括られており、奨学事業を行っているいくつかの団体のURLも添付してあった。

 その青年に対してのみ、少年は返信をしていた。『ありがとう』と。

 その後も、少年と青年とのやり取りが毎日のように続いていた。青年のコメントは的確で、他のコメントのようにブレがない。日を追う毎に、少年が青年に信頼を寄せていくのが彼の書き込みからも見て取れた。

 

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