モノとマナとモナド
遠藤薫『廃墟で歌う天使』にて紹介されていたトリビアを一つ。
◆「もの」から「マナ」へ
日本語の「もの」は者であり物であり霊である、多義的な概念だ。「こと」が時間的に生起・消滅する現象を表すのに対して、「もの」はその現象を担う不変な実体を想定して用いる語だ。
この「もの」の概念は、決して日本独自の概念ではない。太平洋諸島には「マナ」という言葉がある。これもまた代数記号のようにそれ自体としては意味のない言葉で、多様な用いられ方をする。日本の「もの」と太平洋諸島の「マナ」は変換可能な概念のようだ。
◆「マナ」から「モナド」へ
ところで、「マナ」は金銭を意味することがある。英語のmoneyに似た響きだが、moneyの語源はラテン語のMoneta、サタンの娘で地母神の面影を思わせる女神のことだ。そして、Monetaの語源はギリシア語のmoneres、「たった一人の」を意味し、「母」の枕詞でもある。また、語根を等しくするものとして、monasが「単一の」を表し、英語の接頭辞mono-へと繋がっていく。
興味深いのは、ライプニッツがmonasから着想を得て、モナド論を展開したこと。モナドとは、複合体をつくっている単一な実体のことで、これはまさしく「もの」の関係性を問うものだ。「もの」に関する探究は、汎世界的な広がりを持っている。
◆モナドとは?
ちなみにベンヤミンは、モナドのことを次のように表現した。
「理念はモナドであるーーこれはつまり、簡単に言えば、ひとつひとつの理念がどれも世界の像を含んでいる、ということだ。」
ボルヘスならば端的に、虎という一語は世界全体を内包している、と指摘しただろう。
◆音声と意味との間の論理性?
いやそれにしても、「もの」から「モナド」へぬるっと議論が繋がるなんて、キツネは予想してなかったよ。そしてこの音素の近似をどう捉えればいいのかを考えあぐねているよ。熊倉千之は『日本語の深層』において、日本語には音声と意味との間に緊密な論理性があると論じていたけれど、同じことが日本語以外にも当てはまる可能性って、ゼロじゃないよね?
というところで今回のお喋りはおしまい。
また会いに来てね!
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