第16話

 駅のホームで何度も後ろを振り返った。

 杉本に会ったら朝一番に謝りたかった。

 俺の勝手な感情で傷つけてしまったこと、本気で言ったわけじゃないんだと、きちんと訂正したかった。じゃあ、何故?と訊かれてもきっと何も答えられないだろうけど、とにかくそうしたかった。

 でも杉本が来る前に電車が到着してしまい、俺は仕方なく電車に乗り込み学校へ着いてから教室で杉本が来るのを待ったけど、その日、終業のチャイムが鳴っても杉本が学校へ来ることはなかった。


 アパートに帰る道すがら、スマホをポケットから取り出してクラスのグループを開き、メンバーの一覧の中から杉本を探した。そして丸い枠の中でカラフルな猫を擬人化させたようなキャラクターがポーズを取っているイラストの下に、平仮名で『まさき』と書かれただけの、いかにも適当につけました感丸出しのアイコンを見つけた。

 おまえは犬だろ、と、こんな時にも突っ込んでしまう。

 猫のアイコンをタップして『追加』しようとして一瞬躊躇する。そして画面を元に戻すとスマホをポケットに仕舞い、アパートとは別の方向に歩き出した。


 一度しか行ったことがない。でもまったく迷うことなくそこへ辿り着いた。石垣の上に建てられた黒い塀。

 俺は周りをキョロキョロと見回して人の気配がないことを確認すると、昨日やったのと同じように石垣をよじ登った。

 敷地内に入って、杉本の家の玄関の前へ行ってインターホンを探すと、引き戸の隣、丁度、目の高さに、音符のマークのついた小さなボタンがあるのを見つけた。これはインターホンというよりブザーだな、と思いながら指を伸ばしかけたその時、引き戸のすりガラスの向こうにカラフルな人影が見えた。

 ブザーを押したら緊張のGOサインだ、と覚悟を決めていた。それなのにこれじゃ緊張のフライングじゃないか、と慌てている間に目の前の引き戸が開けられ、派手な私服の杉本が現れた。

「上條〜、いいとこに来た〜」

 まるで俺がそこにいることがわかっていたかのように、いきなり喋りかけてくる。

「え?」と、戸惑っている俺に向かって「たまたま2階から見てたら上條が上がってくるのが見えた」と言って俺の腕を掴むと家に引き入れた。

「ななこさんがさ、お友だちと食べてって言ってケーキ焼いてくれたんだけど、俺、友だちに家、改装中だって嘘ついてんじゃん?だから呼べなくてさ、ケーキ余ってるんだよね」

 昨日、結構怒ってたはずなのに、まるで何事もなかったかのように俺の腕を引いてずんずん廊下を進んで行こうとする杉本に、慌てて靴を脱ぎ、とりあえずの疑問として「ななこさんって誰?」と問いかけた。

「俺んとこ来てくれる家政婦さん」

 杉本が答えて先にダイニングに入る。そして俺の腕を離すとそのままキッチンに向かい、やかんに水を入れ始めた。

 ダイニングテーブルの上に、紙製の型に入った長方形のパウンドケーキが置いてあった。「余っている」という表現をした割には、まったく手を付けた様子はない。

 杉本がやかんをコンロの上に置いて、カチッカチッと何度もつまみを回すけど、点きが悪いらしくなかなか火がつかない。

 電池を替えた方がいい…じゃなくて、今日言いたかったことを伝えなくてはいけない。コンロの電池よりも、もっと大切なことを。

「杉本、俺、昨日…」

「昨日、ごめんね」

 杉本の声が、ボッとコンロに火が点った音に紛れて聞こえた。ん?今、謝った?なんで?今は俺の番だろ。

 杉本はコンロに向かって俺に背中を向けたままの姿勢で「俺、よく考えたらさ、付き合ってもいないのに勝手にキスとかしちゃってたよね。そりゃ、おもちゃにされてるって思われても仕方ないことしてたな〜と思って反省したわ」そしてこっちを向き直り「だから、ごめんなさい。これからも一緒に遊んでくれる?」と真っ直ぐ俺の目を見つめた。

 …いや、そうじゃないんだ、と思いながらも、杉本の真っ直ぐな目に俺はただ「うん」と頷くしかなくて、「良かった〜」と言って笑う杉本に合わせてなんとなく笑った。俺の気持ちは全然伝えられていない、不完全燃焼のままで。そんな気持ちを叱咤するように、やかんの中身が沸騰した音をたてた。それが合図にでもなったかのように、少し空気が和らぐ。

 杉本がコンロの火を消して「紅茶あるはずなんだけどな」とキッチンの色んな扉やら引き出しやらを次々と開けた。俺は完全に出遅れた感を持て余して突っ立ったままでいたけど、上の吊戸棚を開けたときに、チラッと見えた缶が気になって「これじゃないの?」と近付いて行って手を伸ばしてそれを取り、はい、と杉本に渡した。

 杉本は缶の蓋を開けて、中に乾燥した茶葉がそのまま入っているのを見て一瞬固まり、言いにくそうに俺に向かって「これ、どうやんの?」と、照れたように笑った。

 どうも台所はすべて家政婦さん任せらしく、結局ティーポットや包丁の在り処を探し当てたのも、紅茶を抽出するのもケーキを切るのも俺がやった。杉本のやったことといえば、食器棚からお皿やフォークやカップを出したくらいだ。

「すげー上條、何でも出来るじゃん」

 俺がパウンドケーキを包丁とフォークで挟んでお皿に取り分けるのを観ながら、杉本がしきりに感心した声を出した。いや、これくらい誰でも出来るでしょ、と、思いながらも、あれ?でもなんで教えられたわけでもないのに出来るんだろうと考える。

 そうだ、俺は子どもの頃から母親がやるのをなんとはなしに見ていた。だから、なんとなくこうなんじゃないかなという感覚でやれている。杉本にはきっと、そういう経験が足りていないんだろうと思った。まるで精神分析するみたいに。

 ティーポットからカップに紅茶を注いで、お皿に載せたケーキと一緒にダイニングテーブルに並べ、2人向き合って座る。

「いただきまーす」

 杉本が大きな声で言い、俺は小さな声で「いただきます」と言ってケーキにフォークを刺した。

『ななこさん』が作ってくれたパウンドケーキは、バナナとチョコチップが入っていてとても美味しい。少なくとも『ななこさん』という人物は、きっと杉本のことを大切に思っている。

「朝ごはんはどうしてるの?」

 口の中の甘さを一旦リセットするための紅茶をすすりながら俺は杉本に訊ねた。

「朝、起きるともうテーブルに置いてあるんだよ。ななこさん、朝、早ぇーの」杉本が口をもぐもぐさせながら答える。

「おまえとななこさんってデキてんの?」

「デキてねーよ!!ななこさん、もうすぐ還暦だぞ!なんだよ、その、いきなりセクハラ発言」

 いや、こいつなら40くらい年が離れていようがヤりそうだ。なんせ、男の俺とヤろうとしたぐらいだから。

 と、無茶苦茶なことを考えながら、もう一度ケーキにフォークを刺していると「上條はさ」と今度は杉本が、フォークを口に咥えたまま伺うように俺に訊ねた。

「なんで元彼と別れたの?周りにバレたから?」

 こいつ…えぐってくる。3割くらいは正解で7割は違う理由。いや10割?

 いや、もうそんな割合とかどうでもいいか、と思えた。いい機会だからここではっきりケリをつけよう、とも。俺は姿勢を正す意味を込めて、フォークをお皿に置いた。

「元彼じゃなかった」

「え?」

「そう思ってたのは俺だけで、向こうにとっては俺はただのセフレだったんだよ」

 それが現実。やっと受け入れられた。はずだった。なのになんでか言葉にした途端、目の奥がジワッと熱くなってしまった。

 泣いたら駄目だ。また1人で感傷的になって、杉本を困らせてはいけない。涙が目の表面にまで滲み出てこないように、奥歯をグッと噛み締めて堪える。頑張れ、俺。

 その時、ガタンと音がして、また杉本が襲ってくるのかと思ってびっくりしてそっちに目を向けると、椅子から立ち上がっていた杉本が、ぐるっとテーブルを回って俺の横に立ち、座っている俺を見下ろして「あのさ、こういうときは泣いていいんだって」と、結局、困った顔をした。

 俺が呆けた顔で杉本を見上げていると「ん」と言って体を寄せてくる。

「え?」戸惑っていると、もう一度「ん」と言って寄せてくる。そしてようやく、胸を貸してくれようとしているんだと気付いた。でもこの位置じゃ胸じゃなくて腹だな、と思いながら、気づいたら俺は杉本の腰にすがりついていた。

 必死で堪えていた涙が一気に溢れ出る。

「…俺は…付き合ってるって…思ってたっ…」

「うん」

「他にも…おと…男が…いるって…最っっっ高にムカついたんだよ!!」

「うん」

「だったら…最初っからおまえはヤリモクだって言えよ!」

「だな」

 杉本の手が俺の髪を撫でた。俺はその心地良さに身を委ねながら、気が済むまで杉本の腹で肩を震わせて泣いていた。


「もう1個ケーキ食べる?」

 杉本に言われて「うん」と頷いた。散々泣いて、文句たれて、それを杉本に受けとめてもらった俺は、さっきまでの陰鬱な気分が嘘みたいな晴々とした気分で、杉本が、残っていたケーキを素手でむんずと掴んで俺の皿に入れるのを見ていた。おい、さっき俺がやるの見てなかったか?

 そして自分の皿にもケーキを入れると、それをフォークでつつきながら「あのさぁ~傷をえぐるようで悪いんだけどさ」と前置きしてから「まだ元彼のこと好き?」と訊いてきた。

 まだ『元彼』と言ってくれる杉本に、気遣われている、と感じながら「う〜ん」と悩んだ。

「好きだった。けどもう好きじゃない。もともと掲示板で知り合った仲だし、俺も結局、最初はヤリモクみたいなもんだったし」

「掲示板って何?」

「出会い系」

 ああ、と杉本が答えて「上條はそうやってセックスの相手探すの?」と言うので「まさか!」と食い気味に答えた。

 答えた後で、たった今ヤリモクで歩と会ったと言っておきながら、そんなことするわけがない、と矛盾したことを言っている自分に気づく。

 この気持ちを説明するのは難しい。同じ同性愛者だったら、もしかしたら話せば共感してもらえると思えたかも知れない。

 でも杉本は、そうじゃない。俺は必死でこの会話の落とし所を探した。

「例えばとりあえず男にしてもらえる人を探す、みたいなもんかな」

 なんとかひねり出した回答に、杉本は目を大きく見開いた後、呆れたように「おまえって本当に…」と何か言いかけて、あとは大きなため息。なんだよ?と、ちょっとムッとなったけど、結局その続きが杉本の口から出ることはなかった。

「でも俺は第一夫人だったんだぜ」

 もうこうなったら笑いに変えてしまおうと、おどけて言ってみる。

「は?」

「『麻也のことが1番好きだ』って言われたもん」ドヤ顔をしてやった。てっきり『なんだよ、それ』って笑ってくれるのを期待していたのに、杉本は思いっ切り顔をしかめると「クズ野郎だな、そいつ」と吐き捨てた。








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