第2話

 電車を2回乗り継いで、自分の住む街に帰って来た。定期券を自動改札機にかざし改札をくぐる。

 駅から徒歩10分。人通りの少ない道に面した、小さなワンルームのアパート。

 俺はカンカンと音をたてて階段を上り、つい1週間前に越してきたばかりの、二階の1番角の部屋の前に立つと鍵を挿し入れた。

「ただいま」

 返事はない。あるはずもない。

 ここには俺一人で住んでいる。

 大家さんには父親と二人で住んでいるってことになっていて、保証人も父親だけど、実際、父は母と二人でもう1つ先の駅に3LDKのマンションを借りて住んでいる。

 頑張ったら歩いて行ける距離。でも多分ほとんど行くことはないだろう。きっと向こうも来ない。

 仲が悪いわけじゃない。

 でも、2ヶ月位前から、俺と両親の関係は完全にすれ違ってしまったのだ。


 高1の冬、前の学校で俺がゲイだってことがバレた。

 当時付き合っていた大学生のあゆむとクリスマスデートをした帰り道、こんなとこ誰も来ないよと入り込んだ狭い路地裏で、キスをしているところをクラスの女子数人に見られた。

 冬休みが明ける頃には俺はすっかり有名人で、最初こそ遠巻きにコソコソ言われて、あーこれはもう完全に積んだなと思ったけど、これまで仲良かった友だちは変わらず仲良くしてくれたし、他のクラスメイトたちにもだんだん俺を擁護するような雰囲気が拡がっていた。

 当時の担任も「何かあったら言ってね」と心配してくれた。

 なんだ、世の中捨てたもんじゃない、意外とこのままやっていけそうだ、と思った。思ったのに…。

 1番俺の身近にいた人が、俺を受け入れなかった。


 三学期が始まって1か月くらい経った頃、母に話があると言われてリビングに呼ばれた。

 嫌な予感がした。

 俺たち家族は、俺が幼稚園の頃からこの家に住んでいて、社交的な母は近所に知り合いが多かった。

 もちろん俺の同級生の親たちも。

 俺のことが周りに知られてから、会う人会う人に俺のことで何かいわれるんじゃないかと母がビクビクしていたのは気付いていた。

 改まって座ったリビングのソファーで母は、「お父さんの転勤が決まったの、だから家族で引っ越そう」と言った。

 俺のことをまだ知らない土地でやり直そう。

 父は母の味方だった。きっと転勤の話だって、自分から異動を申し出たに違いない。

 争う気は無かった。母の気持ちもわかるから。

 でもせっかくここで、やっていけると思っていたのに…。


 俺は歩を呼び出して、「引っ越すことになるかも知れない」と告げた。

 歩は、言った。

「麻也のことが1番好きだ」

 …嬉しくなかった。歩が俺以外にも会っている男がいることを知っていたから。

 そんな2番も3番もいるような言い方されても…。

 でも何も言い返さなかった。重たいことを言って2番や3番に格下げされたくなかった。

 ただ、そのときにはもう引っ越す覚悟を決めていた。


 引っ越す覚悟は決めたものの両親と一緒にいたらまた同じことの繰り返しだ。

 母を苦しめないために、自分を偽って生きていく。そんなのは嫌だった。一度バレたけど大丈夫だったという経験も大きい。

 俺は両親に必死に頼み込んだ。

「転勤にはついていく。でももう自分のことを隠したくない。他人のフリでいいから別々に暮らして、少し離れたところで俺を見守ってほしい」

 半分は本当で半分は嘘。

 自分のことを隠したくないのは本当。でも見守ってほしいなんて思わない。正直両親には失望した。

 見守ってほしいと言ったのは、そういえは納得させられるんじゃないかというただの詭弁だ。

 両親は困っていたが、近くに住むなら、という条件で了承してくれた。

 今は、一緒に暮らしていれば掛るはずもなかった家賃や光熱費を親に負担してもらって生活している。俺も大概、ズルい。


 部屋に入った俺は、だらしなくカバンと脱いだ制服のジャケットを床に放り投げるとベッドに横になった。

 ネクタイもほどいて床に投げるとスマホの待ち受け画面を確認する。もう昼を回っている。

 あーお昼ごはん…。

 ついこの前まで、家に帰れば黙って出来上がったご飯が出てくる生活をしていたのに、今は全部自分でやらなくてはいけない。

 仕方がない、自分で決めたことだ。

 俺は重い体を起こすと、玄関へと続く廊下に備え付けられた小さなキッチンに立って冷蔵庫を覗いた。

 単身者用の小さな冷蔵庫。

 中からタッパーに入ったカレーを取り出して電子レンジにいれる。ついでに冷凍庫から、1回分ずつラップに包んでストックしてあるご飯も出して、カレーと入れ代わりに温める。

 一人暮らしをするにあたって、これくらいの生活の知恵的なものは一応調べておいた。

 チン、とレンジがなって、熱っ、熱っ、といいながら温まったご飯をカレーのタッパーにそのまま突っ込む。なるべく洗い物は増やしたくない。

 このカレーを食べるのも3回目だ。

 昨日の昼に作って、夜も食べて、さすがに朝は食べなかったけど今また、食べてる。

 一人で暮らすと料理が余ってしょうがない、というのもこの生活を始めてから学んだ。まぁ、どうせまだ料理のレパートリーも少ないのだから丁度いい。

 食べ終わったタッパーを洗剤をつけたスポンジでこすって「ん?」と思った。

 擦っても擦っても、カレーの色がタッパーに残ってなかなか落ちないのだ。

 これじゃ、これから何を入れても全部カレー味になりそうで、もったいないけどこのタッパーは捨てることにした。

 今日また1つ学びました。カレーはタッパーで保存しないこと。


 昼食後、明日の予習を少ししておこうと教科書を開いたけど、すぐに眠気に襲われてフローリングで眠ってしまった。

 起きるともう夕方で、体が痛い。

 あー夕飯…。さっき昼食べたのにもう夕飯。

 ドッと疲れが出てしばらく起き上がれないでいると、

「あっ!」

 昨日洗濯した洗濯物を外に干しっぱなしにしていることを思い出して、慌てて飛び起きるとベランダに出た。

 雨が降らなくて良かった。

 洗濯物を竿から外し、そのまま部屋に放り込む。

 もう夕飯を作る気力はない。

 朝食用に買っておいた食パンを齧りながら、洗濯物を畳んでため息をついた。

 …明日から学校と家事の両立。大丈夫か?俺。

 結局ほとんど出来ていなかった明日の予習を再開することにして、部屋に1つしかないローテーブルに向かった。


 勉強は嫌いじゃない。集中していれば余計なことを考えずに済むから。

 しばらく没頭していると、時計は9時を回っていた。

 お風呂に入ろうとお湯を張りに立ち上がったところで…「あ〜シャンプー…」と頭を抱えた。

 前の家から持ってきていた使いかけのシャンプーが、思いのほか量が少なくて昨日なくなっていたんだった。

 昨日はシャンプーなしでしのいだけど、さすがに2日続けては臭いが気になる。

 もう外に出る気力は残ってなかったけど、なんとか自分を奮い立たせて買いに出ることにした。


 4月の夜はまだ、外に出ると少し肌寒い。

 そういえば制服のままだった。まぁ、いいや。すぐお風呂だし。

 薬局がまだ開いているのか自信がなかったので、少し高くついちゃうけどコンビニに行くことにした。

 もうさっさと用を済ませて帰りたい。

 コンビニの場所は越してきてすぐリサーチしていたので大丈夫。

 大通りに出て左に曲がって、7〜8分歩いたところに1軒ある。

 アパートの前は少し薄暗いけど、大通りに出ると立ち並ぶ店の灯りや街灯で結構明るい。

 歩道を歩いて暫く行くと、20メートルぐらい先のガードレールに、何やらカラフルな物体が腰掛けているのが見えた。ん?あれ、人間か?

 さらに10メートル近づいたところで、「あ」認識できた。杉本だった。



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