第二幕 ✴︎ 使い魔の悩みごと
08/「似てるからだよ」
セディッカが帰宅すると、魔女はテーブルで古い書物を広げていた。
とうの昔に忘れられた、今は誰も使っていない
その言葉が
彼女が魔女となって幾年月、この世は様変わりした。ザーイバもかつては荒れ果てた僻地だったのに――だから魔女はここを住まいとしたのに、いつの間にか灌漑技術が発達して、人間は川の流れを都合よく変えられるようになってしまった。
そうして人が住みついて町になり、今ではすっかり賑やかな小都市だ。
ここにはもう彼女を憩わせた孤独はない。毎日のように騒がしい少女たちがやってきて、くだらない雑談で時間を無意味に使い潰して帰っていく。
セディッカは正直、今のこの生活に辟易していた。
昔のほうがよかった。誰もこない、乾いた風だけが吹き抜ける不毛の地で、ふたりきりで静かに暮らしていたころが懐かしい。
だが当の魔女はあまり気にしていないのか、ここから引っ越そうというようすがないまま数十年……いや、もっと経ってしまった。
「おかえりなさい、セディッカ。ご苦労さまです」
「……ただいま」
「あなた、このごろすっかり笑わなくなってしまいましたね」
魔女はセディッカを抱き寄せて、彼の頭や首筋を優しく撫でた。さすがに一緒に暮らして永いので、どこをどうさすったら気持ちがいいかのコツをよく掴んでいる。
セディッカは眼を閉じて、大人しくされるがままにした。ひねくれたところはあるけれど、彼は魔女のことが大好きだった。
「……なあムル。どうしてアリヤを弟子にした?」
「訊かなくてもわかっているでしょう。見込みがなければ初めから断りますよ」
「そういうことじゃない。……あいつは向いてない」
「どうしてそう思うんです?」
「……似てるからだよ、あんたに。厳密には、昔の、ってつくけど」
あんたもわかってるだろ、と魔女に問うと、彼女は曖昧に微笑む。
アリヤのことは知っていた。彼女はつい最近出逢ったばかりと思っているのだろうが、セディッカだって長年この街に住んでいる。
たしかに今まで直接話したことはなかったけれど、ずっと前から存在を知ってはいた。
だから、アリヤが初めてここに来た日のことは、よく覚えている。
いつか来るだろうことも予感していた。やっとか、と思いすらした。
そのときの彼女はわんわん泣きながら魔女に失恋の痛みを打ち明けていた。どこにでもいる、平凡な女の子だった。
そのままで良かったのに、最近になって、垣根を超えて
とにかく、彼女は脆い。心根が優しすぎて簡単に壊れる。
そんな娘が魔女になどなれるはずがない。アリヤはその名で呼ばれる人智を超えた存在をえらく美化しているが、それは彼女が他の魔女たる女を知らず、この薬屋の主人についても上っ面しか見ていないからだ。
ほんとうのことを知ったら、きっと逃げ出す。もしくは無理に受け入れようとして潰れる。
「……あなたは優しい子ね、セディッカ」
魔女はぽつりとそう呟いた。そこでふと目を開けたセディッカには、彼女の肘の下にある古傷がよく見えた。
・・・・・*
気まずい問答のあとでも、アリヤは薬屋に通うのを辞めたりしなかった。
しかしセディッカの姿が見えないことには正直ほっとした。彼がどういうつもりであんなことを言ったのかはわからないけれど、とにかく良く思われていないことだけは明らかだからだ。
好かれてはいない、とは最初からわかっていたわけだが、これは本格的に嫌われているのかもしれない……。
思わず深々と溜息をつくアリヤに、魔女はちょっと困ったように微笑む。
しかし、どうしてそこまで拒絶されるのだろう。そんなにアリヤは魔女として不適格な人間なのだろうか。
せめてどこがどういけないのか言ってくれたら、直す努力もできるのに。
胸の奥がずんと重かった。それもまずいことに、失恋したときの痛みに少しだけ似ている気がする。
方向性が違うのは、セディッカには恋人がいないからだろうか。……いやそうじゃない、そういうことじゃない、これは失恋なんかじゃないし、そもそも恋でもない、違う、……違うはず、違っていてほしい。
わけがわからなくなってきて、思考を散らそうと頭をぶんぶん振る。
「……大丈夫ですか?」
「う、……だ、だいじょぶ、です」
自分でも説得力ないな、と思うようなへろへろの声だった。コウモリまで心配そうに覗き込んできたので――この子もアリヤに慣れてきたのか、最近は勉強していると寄ってきてテーブルの上に乗るようになった。意外と大きいので地味に邪魔だったりする――ちょん、と生意気そうな鼻面をつつく。
びっくりしたのか、コウモリはチィッと甲高い声で鳴いた。ちょっとかわいい。
しかしこのままでは大事な勉強に身が入らない。
今日はセディッカがいないから、代わりに魔女に尋ねることにした。アリヤが魔女になるために足りないのはどこなのか、つまり、どうしたらセディッカにも認めてもらえるようになるのか。
きっと簡単なことではないが、……まずは一歩。行動しなければ進めないことを、アリヤはもう痛いほどよく知っている。
「あの、魔女さん、じつは昨日――」
けれど言いかけた言葉は、カララン……という
来客だ。見れば扉のところに見慣れない男性が立っている。
この街の人間ではないことは一目でわかった。顔立ちも衣装も何もかも、この地域の人びとのそれとはまるで違っていたからだ。
たっぷりの顎ひげに覆われた肌は色白で、袖付きの長い外套に施された刺繍も、こちらでは見かけない珍しい柄ばかり。縞模様の頭巾を団子状に巻いているから、たぶん東のほうから来たのだろう。
男性は見上げるほど背が高かった。薬屋の小さな戸口をやや狭そうにしてくぐった彼は、藍色の瞳で室内を一瞥したあと口を開く。
「ザーイバの魔女はあなたか」
低く、どっしりとした声が、印象深かった。
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