06/「騒いだら殺す」

 その日は少しばかり薬屋を出るのが遅れて、外はもう陽が傾き始めてしまっていた。

 ばたばたばた、とどこかで羽搏はばたきの音がする。こんな時間に飛ぶ鳥も珍しい。


 ザーイバは治安がいいと言われているが、日が暮れてからの女性のひとり歩きはさすがに推奨されないだろう。

 実際、アリヤが二年前ひったくりに遭ったのは真昼間の表通りだ。確実に安全で平和な時間帯や場所なんて存在しないのかもしれない。

 ともかく自分の影すらよく見えなくなっていく不安と戦いながら、アリヤは急ぎ足で自宅に向かっていた。


 どちらかというと焦りが勝る。こんな時間に帰ったら母に叱られる。

 どこで何をしていたのか、このごろ毎日遅いじゃないかと詰問されて、魔女の弟子修行を白状させられるのだ。

 ちゃんと時機を選んで自分から言うならまだしも、失態の直後に打ち明けたのでは間違いなく反対される。もしも二度と行くなとか言われたら大変だ。


 そんなアリヤの焦燥を笑うように、人影が彼女の行く手を阻む。


「えっ……」


 見知らぬ男だった。それが妙に素早く駆け寄ってきたかと思うと、言葉もなくアリヤの腕を掴んで、狭い路地裏へと引きずり込む。


 全身を氷のような冷たい恐怖が駆け巡り、喉の奥がひくっと鳴った。

 叫んで助けを求めようにもろくに声が出ない。突き飛ばされ、尻もちを衝いたところに男が覆いかぶさってきて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 怖い。嫌だ。何をするつもり――。


「や、……」

「騒いだら殺す」


 やめて、と言ったつもりだった。喉からはかすれた音しか出なかった。

 腕は押さえつけられてびくともしないし、脚も圧されて動けない、もうどうやっても逃げられない。

 表通りからは男が壁になってアリヤの姿が見えない状態だ。ただでさえ暗いから、もし誰か通りかかっても、きっと気づかれない。


 アリヤの上に一気に絶望が降ってきた。歳のわりにだとよく言われる彼女でも、この男の目的が何かくらいは理解できたからだ。

 まだ好きな人と付き合ったこともない、人並みの幸せを夢見る少女にとってはある意味、殺されるよりもむごい仕打ち。


 せめてこれ以上は何も見るまいと、ぎゅっと眼を瞑った。――そのとき。


「ぐぁ!?」


 男が急に叫び声を上げ、同時にアリヤを押さえつけていた手の感触が消えた。


 驚いて思わず目を開けたアリヤの真上を、男が吹き飛んでいく。……わけがわからないのだけれど、そうとしか表現しようのない動きだった。 

 男はそのまま路地に落ちてもなお勢いよく転がってゆき、最後には突き当りの壁に激突した。それはもう痛そうな音を立てて。

 そして苦しげに呻いたあと、ぴくりとも動かなくなった。


 アリヤはひっくり返ったまま、それを呆然と見送った。

 ――何? 何が起きたの?


 固まっていると、どこからかぬっと細い手が伸びてきて、アリヤの肩を掴む。


「いつまで寝てるんだ。ほら、起きろ」

「え……、せ、セディくん……?」


 いつの間にか隣にセディッカがいて、屈んでアリヤの顔を覗き込んでいた。もしかして不審者を撃退してくれたのは彼なのだろうか。

 でも、……とても殴られたようには見えなかったのだけれど。一体何をどうしたらあんなふうに人が吹き飛んだりするのだろう。

 それにさっきまで彼の姿は影も形もなかった。いくら辺りが暗くても街灯くらいはあるし、見落とすはずないのに。


 ともかく身を起こしたまではいいが、立ち上がれない。まだ恐怖で身体ががくがく震えていた。


「ったく……腰でも抜かしたのか」

「あ……そ、そう、かも、……ッひゃわぁ!?」

「うるさい」


 立てないアリヤを見かねたか、セディッカはこともなげに彼女を抱き上げた。

 彼は決して大柄ではない。しかし、意外と安定感は悪くない。だが――この体勢はあまりにも、なんていうか、恥ずかしかった。


「ままま待って、せめておんぶ! おんぶにしてください……!」

「注文の多いやつだな。

 ……だいたい、明るいうちに帰らないからああいうのに出くわすんだ。それにもっと腹から声出して助けを呼ばないと。今回は俺がいたからよかったものの……」


 案外すんなり背負ってくれたが、めちゃくちゃ長文のお小言が続いた。優しいのかそうでないのかよくわからない。

 ただ、アリヤもとりあえず言うべきことはある。


「あの、……ありがとう、助けてくれて」

「……どーいたしまして」

「でもあの、……えっと、なんで? つまりその……たまたま近くにいたわけじゃ、ない、よね?」

「……。まあ、魔女の言いつけで」


 というとつまり、女の子が暗い中ひとりで帰るのは心配だから送ってあげなさい、とか言われたのだろうか。

 でもさっきまではまったく気づいていなかった。それって送るというより尾行なのではないだろうか、……助けてもらった手前なにも言えないけれども。


 こうしていると、灰茶の撥ね髪が頬に当たってくすぐったい。

 それに意外と広い背中だ。少し骨っぽいけれど温かくて、それからとくとくと、肩甲骨の向こうから彼の心臓の音が聞こえてくる。

 なんだかそれに妙にほっとして、アリヤはふうと溜息を吐いた。


 ああ、セディッカの身体から、薬草の匂いがする。

 まだ今のアリヤには、それがどんな効能のある何というものかはわからない。でもきっと、気分を落ち着かせるとか、緊張をほぐして不安を和らげる、そういう種類のものじゃないかな、と思う。


 そのままぼんやりしていると、いつの間にか家の前に着いていた。


「……ちょっと待って。なんでセディくんがうちを知ってるの?」

「だから魔女の言いつけだっての」

「え、もしかしてそれ、今日だけじゃなかったってこと?」

「初日からずっと」

「嘘!? ぜんっぜん気づかなかった……!」

「うるさい」


 助けてもらった以上は言えないけれど、やっぱりそれって尾行ストーキングなのではなかろうか、とアリヤは思った。



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