欠片の物語
八雲 鏡華
1頁~~いつか隠したあの日の記憶~~
重い足取りで玄関の扉を開けて、逃げ込むように部屋に入ると度重なる残業にもはや何をする気力も湧かずに、足元もふらついたまま寝室のベッドへ倒れ込むようにして横になる。
そうして目を
「こんなの私は望んでなんかない……こんな筈じゃ無かった……」
そんな言葉を最後に私の意識はまるで色が解け落ちていくように真っ白に染まっていった。
気が付けば私は真っ白な世界に立っていた。
空は灰色で、地面は遥か彼方まで白く、辛うじて所々こんもりと盛り上がっているのが見て取れて、意外にも起伏に富んでいるらしいことだけはなんとなく分かった。
足を動かしてみれば嘘みたいに体が軽く、また、踏みしめた地面にはくっきりと足跡が残っていた。どうやら雪が降り積もっているらしい。ここはどこまでも雪原が広がっているようだった。
よく見てみれば自分の周りがキラキラと輝いて、光の粒が宙を舞っていることに気が付いた。いや、灰色の空と真っ白な雪原のせいで分かりずらいけれど、どうやら雪が降っているらしい。気が付けばしんしんと雪は勢いよく雪原へと降り注いでいた。
そんな状況なのに私は全く寒さを感じていない。
「真っ白な雪の世界……てっきり、私じゃもっと薄気味悪い悪夢でも見るのかと思ってたけれど」
そんな風に皮肉交じりに呟いていると、自分以外誰もいなかった筈のこの世界に人影があることに気が付いた。
「ねぇ、キミ。こんなところで一体なにをしているの?」
そう声を掛けてみると、子供は声に反応したのか私の方へ顔を向けてきた。興味本位でその子供の顔を見返してみると私は思わずぎょっとしてしまった。
なにもその筈、その子供は実家のアルバムで見たことのある幼い頃の私そのものだったからだ。
そんな私の様子を見て、幼い私は屈託のない笑顔を浮かべてみせた。今の私はとうの昔に忘れてしまったものだろう。無邪気に笑いながら幼い私はその小さな手を私に向けて振っていた。
「ね、遊ぼ」
それだけ言うと幼い私は小さい体をくるりと反転させて、足元の雪を蹴飛ばしながら走り去っていく。少しの間、そんな光景に
雪が降り続ける真っ白な世界を私は駆けていく。足元にはそれなりに雪が積もっていたけれど、その足取りは不思議と軽かった。
背の小さな幼い私は
降り積もった綿のように柔らかい雪を軽快な足取りで蹴飛ばしながら進むのは、まるで子供の頃に無邪気なまま駆け回ったのを思い出すかのようだった。降り続ける雪がキラキラとまるで流れ星のように私の頬を掠めて流れていく。
「これは家? 今までなにもなかったのにどうして急に……」
白銀の海原に浮かぶログハウスに気をとられ、歩む速度が緩んでいく。建物の側面には雪の結晶が張り付いた窓から橙色の柔らかな灯りが漏れている。
興味本位で窓を覗いて見れば、二人の男女が大切そうに赤ん坊を抱いて幸せそうに笑っていた。
「お母さん……お父さん……」
白い息と一緒にそんな言葉がポツリと零れた。
ハッとして辺りを見渡すと既に幼い私は雪に紛れて消えていた。だけど、その足跡はまるで私を誘うかのようにクッキリと続いている。
その足跡を辿りながら、さっき見た光景について考えてみた。あの窓から見えた二人の男女はどうも自分の両親だった気がしてならない。
そうしているうちにまた白銀の海原に浮かぶ建物の姿が見えてきた。さっきのログハウスと同じ造りで、もしかしてと近寄るとやはり雪の結晶が張り付いてまるで一種の額縁のような窓があった。
覗き込んでみれば先ほどの男女がランドセルを背負った小さな女の子に対してどうやら撮影会を開いているようだった。
あの女の子には見覚えがあった。なぜならそれはさっきまで私がその後を追っていた幼い頃の私だったからだ。
だとすればあの男女はやはり私の両親だ。これは私の追憶なのだろうか。これが私の見ている夢だとして、今の辛い現実に耐えかね心の奥でこの古き良き日を求めていたのだろうか。
気が付けば足跡が続くその先にもはや見慣れたログハウスがずらりと並んでちょっとした街通りのようになっていた。
私は足跡を辿っていく。その途中で覗き込んだ窓の中にはやっぱり私の思い出があった。友達と外を駆け回った小学生の私。甘酸っぱい恋をして、顔も朧げなあの子の背中を見つめていた中学生の私。母親と大喧嘩をして外に飛び出し、両親が迎えに来てくれるまで途方に暮れていた高校生の私。
歩き続ける私の頬に雪が張り付き体温で溶けだしていく。私の頬にキラリと光る一筋の水が流れた。
その後はなんだっけ……ああそうだ、大学に進んで明るい未来の訪れを信じていた私は就職という運命の分かれ道で致命的な間違いを犯し、ガラリと私の運命を変えてしまったんだった。
――ああ、こんな筈じゃなかったんだけどな
いつの間にかログハウスは消え失せて、足跡もそこから途絶えていた。再び真っ白な雪以外何もない世界に放り出され、夢だと分かっていてもなんだか心細くなりながら辺りを見渡すと、人影が雪に紛れてポツンと立っていることに気が付いた。近寄ってみればそれはずっと追いかけ続けていた幼い頃の私。
私は「私」に声を掛ける。
「ねぇ、貴女は私なんでしょう?」
すると、今までずっと私に背を向けたまま立ち竦んでいた幼い私がクルリと振り返って、そのまま夢の世界に溶けて消えてしまいそうな笑みを浮かべた。私はそんな彼女の笑顔にすっかり目を奪われて、雪がまつ毛に積もって白く染めていくのにも気に留めず
「うん、そうだよ。私は貴女。ねぇ、一つだけお願いを聞いてくれる?」
無邪気で儚い笑みを浮かべる彼女は目を細めて私を見つめる。
「お願い? うん、別に構わないけど」
「ああ、良かった……じゃあ」
彼女は一旦言葉を区切って浅く息を吸った。
「私の事を忘れないで」
そんな言葉が聞こえたかと思うと、降り続けていた雪は勢いを増してまるで吹雪のようになる。パチパチとシャボン玉が弾けるように視界が白く塗りつぶされていく。そんな中で幼い私が雪に解けるように消えていくのを見た。そこで私の意識も弾けて消えた。
目が覚めるとそこは自室のベッドの上だった。カーテンの閉め切った薄暗い部屋の中で私はゆっくりとベッドから起き上がった、
やっぱりさっきのは夢だった。とても奇妙でなんだか優しい夢だった。……あの私は一体何を私に伝えたかったんだろう。彼女の言葉を思い返していると、テーブルの上に置かれたスマートフォンに一通のメッセージが入っていることに気が付いた。いつもの習慣で自然とそれに手を伸ばし内容を確認する。
それは母からのメッセージで内容は「調子はどう? 夢は叶えられそう? お母さんとお父さんは貴女の事、応援してるから頑張ってね」というものだった。
そうだ、私は夢を叶える為にこの道を選んだんだった。今の生活が望んでいたものから程遠いのには間違いない。私の今の人生は惨めなものだとも思う。だけど、それはいつかの私が選んだものなのだ。その私を否定する事はいつかの私を忘れ、なかったことにしてしまうという事なのだろう。いつかの私を否定してしまっては今の私がもうなんなのかすら分からなくなってしまうに違いない。
認めがたい出来事も、間違いだったと思う選択も、すべて今の私を構成するものなのだ。だから私は、私自身の事は否定しない。いつかの私を忘れない。
カーテンを開けると、窓の外では雪が降り始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます