エピソード7──最悪のタイミング──

第26話:ヘムロック教会孤児院の運動会

 日曜日であるにも関わらず、その日ヘムロック教会孤児院はその門を大きく開いていた。

 今日は待ちに待った運動会の日。運動会のことはキングフィッシャー・パブをはじめとする商店街のそこここにポスターが貼られていたため街の人々の注目度は高い。さらに園庭には街のレストランが軽食の屋台を出していることもあり、朝から園庭は大賑わいを見せていた。

 ヘムロック教会孤児院が春と秋の二回にわけて運動会を開催する事はすでに街の恒例行事となっている。

 その目的は孤児たちの里親を探すことだ。

 孤児院に長く居ても決して子供達のためにはならない。そうであれば、できる限り接触の機会を多くして子供達の引き取り手を広く探したい。

 街の人々もそれを理解しているからか、子供にちょっかいを出したり、あるいは遠くから子供の様子を眺めたりと忙しい。

 エクレアはそうした街の人たちの様子を一歩離れた木陰からぼんやりと眺めていた。

 足元にはいつものようにアンがいる。すでにアンは退屈したのか、落ちていた小枝でいたずら書きを始めていた。

 いつものように大きな人影が二つ。少し離れたところにもう一人の人影、それに寄り添う小さな人影がもう一つ。

「アン、その人たちは誰なの?」

 いつものように腕を組んで仁王立ちになったまま、足元のアンに訊ねる。

「これはね、ママとパパ」

 アンは二人の大きな人影を指差した。

「それでね、これがエクレア先生」

 少し離れた人影を指差してみせる。

「でね、これがアン」

 続けてアンは人影の足元に描かれた小さな姿を指差した。

 なぜなのかは判らなかったが、エクレアはつと胸が詰まるような気分を感じた。

「……そっか」

 なぜかは判らないが、アンはエクレアのことを慕っている。

 だったら、だとしたら、エクレアはできる限りのことをアンにはしてあげたかった。

 ここでアンを抱きしめるのは簡単だ。しかし、それは何かが違う気がする。

 だからエクレアは仁王立ちのまま、足元のアンに上から声をかけた。

「今日のかけっこ、がんばろう、ね」

「うんッ」

 アンはエクレアを見上げると大きく首を振った。

 アンには秘密兵器を授けてある。練習の仕上がりも上々、このまま行けばほぼ確実にアンが勝つ。

 今日のアンに死角はない。

 アンが足元にいたずら書きをするのを眺めながら、エクレアは運動会が始まるのをのんびりと待つことにした。


+ + +


 予定通り、午前九時に運動会が始まった。

 最初に院長の挨拶、続けて運動会のプログラム説明。

 アメリカのフィールド・デイの影響が大きいためか、全員で合唱するのは讃美歌の「御使いうたいて」一曲だけ。

「こはいかなる子であるか マリア様のひざにて眠りぬ……」

 そもそも信仰心がないため、エクレアの耳には単なる歌だとしか聞こえない。だが隣のアンは熱心にその歌をうたっている。

(ふーん……)

 アンの違った一面を見てエクレアは感心した。

 エクレアも事前に歌の歌詞は調べてある。元を正せば男性の恋心を歌った歌詞のようだが、時代が変遷するにつれ今では子供達の友情を讃える歌となったようだ。

(ま、ヘムロック教会らしいと言えばそれらしいか……)

 やがて讃美歌の斉唱が終わり、子供達はそれぞれのグループに集まった。誰に言われた訳でもなかったが、エクレアもピンク帽のグループの後ろに立つ。

 つと心細げにアンが後ろを振り返った。

 可愛い。

 思わず笑みを浮かべ、アンに小さく手を振ってあげる。

 それで安心したのか、アンはグループの中へと埋もれて行った。


 運動会がプログラム通りに進んでいく。

 今は年長組のかけっこが終わったところだ。

 ヘムロック教会孤児院は集まっている百三十人の子供達を年齢別に七つに分けていた。一つのグループは約二十人。

 年長組の表彰が終わったところでアンのクラスの競争が始まった。

 クラスは二十一人、この二十一人の子供たちが五人ずつのグループに分かれて競争する。

 ふと、アンのグループだけが六人であることにエクレアは気がついた。どうやらアンは練習に参加していなかったために適当なグループに割り振られたらしい。

 グラウンドに立てられた旗の足元に小さな子供達が列をなす。アンのグループは三番目。

(そろそろ行かないと……)

 約束した通り、エクレアはゴールラインの近くへと移動して行った。

 なぜか手のひらが汗で濡れている。

 しばらく眺めていると、最初のグループが整列した。

 予想通り、全員がスタンディングスタートだ。

(ん、これなら……)

 やがて、最初のグループがバタバタとゴールテープへと駆け込んで行った。

 続けて次の組。同じくスタンディングスタートで走り出し、ゴールテープへと駆け込んで行く。

 順番は三番目になった。

 アンが少し心細げにゴールラインに立つ。

(頑張って、アン)

 エクレアは気づかないうちに拳を強く握りしめていた。

(ああ、そうか)

 ふと思い出し、自分の立つ位置をゴールラインの先へと移動させる。

 ここからならアンの顔がよく見える。

「位置について」

 シスターの声に従い、アンはその場にしゃがみ込んだ。右足を折りたたみ、左足で地面を踏み締める。

「用意」

 教えた通り、アンは前方を睨みつけた。

「スタート!」

 シスターがスターターピストルの引き金を引く。

 ほとんど同時にアンは地面を蹴っていた。

 そのまま一気に加速、他の子供達からゆうに十メートル以上離れて疾走する。

 アンはそのまま走り切ると、ゴールテープの向こうで待つエクレアの腕の中へと飛び込んでいった。

「エクレア先生!」

 アンがエクレアの首にしがみつく。

「アンッ、速かったね!」

「アンね、一番になったよ!」

 アンがエクレアに頬を押しつける。

 その感触に胸が詰まる。

 なぜかエクレアは涙が頬を伝うのを堪えられなかった。


 その後、アンのグループの演技はない。エクレアはアンの隣に椅子を持ってくると、アンと一緒にのんびりと運動会を観戦した。

 かけっこ、綱引き、組体操……

 アンと一緒に見る運動会は予想外に楽しかった。

 エクレアは教室から椅子を持ってきていた。だがその椅子は年少組のもので、小柄なエクレアにも少し小さすぎる。

 でも、アンの隣にいられるのであれば問題ない。エクレアは屋台でチュロスを二本買うと、そのうちの一本をアンに差し出した。

「ご褒美よ」

「アンね、これ好き」

 エクレアの隣でアンがチュロスを頬張る。

「飲み物も買う?」

「んーん、いい。アンはね、お水持ってるから」

 そう言いながら片手で水筒を掲げて見せる。

 考えてみれば、教師が生徒に食べ物や飲み物を買うことはおそらく御法度なんだろう。

(でもわたしはアルバトロス・ドライバーだ)

 少し罪の意識を感じたが、エクレアは自分に正直に振る舞うことにした。

「アン、オレンジ・ジュースは飲んだことある?」

「んーん」

 アンが首を横に振る。

「パパはね、トマト作ってたの」

 そうか、トマト・ジュースか。

「じゃあわたしが特別にアンにオレンジ・ジュースを買ってあげる」

 そう言いながら椅子を立つ。

 つと、腕のインターコムが振動し始めたことに気づいた。

「はい」

 周囲の目を気にしながらインターコムに答える。

 このタイミングで、なんで……

 そのインターコムの発信元はアルテミス・コントロールだった。

「エクレア大尉、バトル・ステーションズ」

 アーロン少将の声。

「イントルーダーが二機、熱圏を突破しそうです。すでにバレンタイン中佐が出撃準備に入っています。エクレア大尉、至急コーストガード2に帰投されたし。アルテミスも急ぎテュールOQ-3000を三十機降下させます」

「エクレア、了解しました」

「地上からの発進シーケンスはトピアが支援します。すぐに出撃できるように準備して下さい」

「了解」

 エクレアは短くインターコムに告げると、隣のアンを見つめた。

「アン、なんかね、敵が来たみたいなの。ここは多分大丈夫だと思うけど、セシル院長の指示に従って、ね?」

 差し迫った雰囲気のエクレアにアンが大きくうなずく。

「わかった」

「ちょっとお留守にするけど待っててね。大丈夫、わたしが必ずアンを護ってあげる」

 どうしてなのかは判らない。だが気がついた時、エクレアはアンを抱きしめていた。

 エクレアの薄い胸の感触にアンが目を細める。

「うん。ちゃんと帰って来てね」

 アンは嬉しそうにしながらエクレアにそう告げた。

「アンね、待ってるから」

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