第9話 影法師

 朝、いつもの様に朝食を終えると、イオスは上着に手を通した。


「ダニエラ」

「はい?」

「もし昨日の行為で子供ができていたら、必ず教えてくれ」

「……何故です?もう別れるのだから、イオス様には関係のない話では?」

「半分は私の子だ。何かしらの援助をしたいと考えている」

「結構です。大丈夫ですから」


 語勢強く言うと、イオスの顔が少し歪んだ。


「もう私と関わり合いたくないのは分かっているが、せめて……生まれた時には子供の顔を見せてくれ。一度だけでいい」

「分かりました。でも心配なさらなくても、昨夜の行為では子供は出来ていないので安心して下さい」

「……まぁ今まで出来なかったのだしな。では、行って来る」

「はい、行ってらっしゃい。イオス様」


 イオスを送り出すと、ダニエラは玄関先で座り込んだ。

 イオスに堕ろすという考えは、微塵も無い様だった。彼を騙している。黙って堕ろそうとしてしまっている。でももう、あそこまで言ってしまっては引き返せない。

 ダニエラは、昨夜サインをもらった同意書に新しく文字を書き足すと、アンナの家に向かった。


 空は雲ひとつない青空だ。この空へ、この子は還る。ふと、このお腹の子と思い出を作っておこうと思い立った。

 ダニエラは、自分の影に視線を落とした。


「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう……」


 ゆっくり数えて空を見上げると、そこには白い影法師が映っていた。自分と、そしてお腹の子の記念の絵画だ。


「ごめん……ごめん、ねぇ……」


 不意に涙が溢れた。産もうと思えば産めるはずだ。イオスに頼めば、惜しみなく援助してくれる。離婚したくないと言えば、父親役も演じてくれるはずだ。

 影法師が薄れ行く。このお腹の命も、今日中に消えるのだ。ダニエラは目を瞑った。瞳の奥に映るのは、イオスとダニエラ、その間に小さな影法師。それが実際に空に映し出される事はない。

 ダニエラの夢想だ。親子三人で映す幸せな影法師の絵。だがそれを実現させるのは不可能だ。周りからは仲の良い家族と思われても、中身は今までと何ら変わらない。

 ダニエラは幸せなようでいて満たされることはなく、イオスには苦行を強いる毎日だ。そんな夫婦の間に生まれた子は、どんな大人になるだろうか。ダニエラには想像つかない。


 とぼとぼと歩いていると、アンナの家の前に着いた。門扉を開ける前に、庭にアンナがいる事に気付く。そして彼女もダニエラに気付いて歩み寄って来た。


「本当に来たのね。同意書を見せて貰えるかしら」


 言われるままに同意書を渡す。アンナはその内容に目を通し、少し息を吐いた様だった。


「まさか、本当にイオスが……分かったわ。二人には事情もあるんでしょうし。中に入って。雷の魔術師はもう来ているわ」


中に入ると、一人の青年がこちらを睨んでいる。騎士服を着ているところを見ると、彼もミハエル騎士団の一員なのだろう。上手く口止めしておかないと、イオスの耳に入ってしまう事になるかもしれない。


「最後に確認しておくけど、後悔しないのね?」


 分からない。するかもしれないし、しないかもしれない。けれどもここは頷くより他はない。


「言っておきますけどオレ、こんなの初めてだから力加減とかわからないんで、そこんとこヨロシク」

「つまり、堕ろせるか堕ろせないか、わからないって事……?」

「そだよ、あんまり強力だとあんたが死んじゃうだろうし、微弱だと胎児にも影響ないだろ?」

「堕ろせたかどうかは、翌月に月の物があるかどうかで判断するしかないということよ」


 アンナが説明を入れ、ダニエラは納得する。ひとつの命を消そうというのだ。簡単に、というわけにはいかないだろう。


「分かりました。どんな結果になっても恨んだりしません」

「げぇ、マジかよ。ってか、あんたの相手の男って誰なの? 子ども一人すら面倒見られないほどの甲斐性無しなわけ?」

「イオスよ」

「へー、イオス様……げげっ」


 彼の問いにはアンナが答え、青年は青ざめている。


「マジ? イオス様、堕ろせって言ったの?」

「同意書よ」

「うっわ、幻滅。カッコイイ人だと思ってたのに。てか、イオス様は奥さんいただろ? 浮気して堕ろさせるなんて、男としてどーなの」

「馬鹿ね、ダニエラがその奥さんなのよ」

「へー。へ? じゃ、何で堕ろすの? 問題なくねーか?」

「別れるそうよ。いいから早くしなさい」

「ちょっと待って下さいよ、アンナ様。オレ、イオス様といざこざ起こすのは嫌ですよ。辞退させて下さい」


 青年が辞退を申し出るのを聞いて、アンナよりも先にダニエラが口を開く。


「お願いします! 他に頼める人がいなくて……この事を騎士団の誰にも漏らさなければ、何の問題も起きないはずです! だから……」


 お願いします、と呟く様に頭を下げた。青年は仕方ないという様に息を吐き出す。


「……分かった。どうなっても、オレは知らねーからな」


 そう言うと、青年は無造作にダニエラのお腹に手を当てた。とうとうこの瞬間が来てしまったのだなと、目を瞑る。


「やるぞ」

「は、はい……!!」


 彼は詠唱を始めた。ダニエラはあまり魔術の事は分からないが、青年の体が電気を帯び始めているのは分かった。

 その詠唱が終わり、彼の手が強くダニエラのお腹を押した。その瞬間ピリッと電流が走り、体がピクンと痙攣する。


「……終わったよ」


 青年が吐き捨てる様にそう言った。終わった、と言われても実感がない。本当に我が子の命は尽きたのだろうか。


「あの…… あまり痛くなかったんだけど、こんなのでいいの?」

「さぁな、オレも初めてだから知らね。けどあんたの子供は死んだはずだぜ。……多分」

「……そう……」


 子供が死んだ。その姿を想像して、気分が悪くなる。何てことをしてしまったんだろう。こんなにもすぐ後悔することになるとは、思ってもみなかった。

 泣きそうになるのを堪える。この青年にこれ以上罪責感を抱かせてはいけない。


「……オレ行くわ、大遅刻だ。隊長に叱られっちまう」


 本来なら無理な願いを聞き入れてくれてありがとう、とお礼を言わなければいけない所だ。しかし何も言えなかった。子供を殺してくれてありがとう、なんて言葉は。

 青年が出て行くための玄関を開けると、「うわっ」と彼が声を上げていた。


「イオス様!」

「ダニエラはどこだ!?」


 夫の声が聞こえたダニエラは、慌てて身を隠そうとするも、隠れる場所などなかった。

 ドシドシと音を立てて来る音がし、ダニエラいる部屋の扉が開けられる。そこには夫イオスと、後ろにはカールの姿があった。


「遅かった、か……?」


 ぜぃぜぃと肩を揺らしながら問われ、ダニエラの頭は真っ白になる。


「何が、ですか?」

「もう誤魔化す必要はない。全てカール殿から聞いた。どうして本当の事を話してくれなかったのだ!」


 どうしよう、何て言い訳しようかとダニエラは狼狽える。こうなることは想定していなかった。


「昨日、私に同意書を書かせたのはこのためだな」


 イオスの問いに、素直にコクンと応じる。もう誤魔化しようがない。


「申し訳ありません……こうするしか、私……」

「今日はもう仕事は休む。帰って話をしよう」

「いえ、そんな! 私のためなんかに! もう子供はいないんですし、仕事にお戻り下さい!」

「こんな時くらい有給休暇を使っても罰は当たらないだろう。帰るぞ。アンナ殿、カール殿、失礼する」


 イオスに手を引かれ、強制的に家に連れ戻される。明らかに苛立っているイオスを見て、ダニエラは怯えた。こんな彼を見るのは初めての事だ。


「さて、説明して貰おうか」


 さながら今のイオスは、敵国のスパイから情報を聞き出す鬼軍師だ。


「せ、説明って、何を……」

「何故、妊娠したことを私に言わなかったか。何故勝手に堕ろそうとしたのか、まずはその二点だ。」

「ええっと……」


 一番最悪の別れ方になってしまうだろうなと思うと、諦めもつくってものだ。

 とんでもない事をしでかしたのは自分だ。出来るだけ正確に、そして誠実に話そうと心に決める。


「妊娠したことを言わなかったのは、離婚後に生まれる計算だったからです。そして堕ろしたのは、折角離婚できて自由になれたイオス様に、負担をかけたくなかったからです」

「そうか。では離婚しなければ問題はなかったはずだ。なぜ離婚にこだわった。昔、私がダニエラを利用した事を根に持っているのか」

「根に……? いいえ、まさかそんな。確かに結婚に至る理由は悲しいものでしたが、結婚生活にさして不満はありませんでした」

「さして不満はない? ということは、少しは不満があったということだな。離婚を撤回しなかった理由はそれか?」

「……はい、そうです」


 ダニエラの肯定の言葉に、イオスの方が不満の色を見せた。


「家事を任せる事が多かったからか?」

「いいえ、充分にして頂いてました」

「帰りがいつも遅かったからか?」

「お忙しいのは理解しています。そんなじゃありません」

「人前で仲良くしているのが恥ずかしかったか?」

「いいえ、むしろ嬉しかったです」

「夜の生活に不満があったのか?」

「そんなわけはありません」

「結婚式を挙げていないことか?」

「違います」

「では、何なのだっ!!! 私の何が不満だった!!」


  ドンッと拳を机にぶつけられ、ダニエラの体がビクリと震えた。


「……イオス様が悪いわけではないんです……イオス様は完璧な夫でした。本意ではなくとも、私の言うことならば全てを受け入れてくれて。でも、それが嫌だったんです」

「……何の話をしている?」

「私が結婚生活を続けたいと言えば、イオス様は続けてくれたんでしょう。例え本意ではなくとも」

「…………」

「そういうのが、もう嫌だったんです。イオス様の意思を、いつも私が奪ってしまう。イオス様が自分の意見を言った事がありましたか? いつも構わない構わないってばっかり! 私の事を気遣って、私の喜ぶ発言ばかりしてくれるイオス様が、優しすぎて嫌いですっ!」


 ぶち撒けてしまった。イオスの三年間を否定するような発言に、もう彼も黙ってはいないだろう。イオスの顔を直視出来ない。思わず顔を逸らしてしまった。

 きっと罵倒される。こんなにダニエラを気遣ってきたのに酷い言い草をする、と。離婚できて清々すると言われるに違いないと、ダニエラは思った。しかし。


「愛する者の喜ぶ顔が見たいと思うことが、そんなにおかしな事か?」


 この後に及んでこの男は、まだダニエラの欲しい言葉をくれるつもりだ。それが腹立たしいと伝えたばかりだというのに。


「もういいんです、やめて下さい! 心にも無い事を言うのは!」

「そうだな。もう心にも無い事を言うのはよそう。ダニエラが離婚の話を出した時、本当は嫌だと言いたかった」

「……はい? イオス様、何を」

「結婚生活を続けたいかと聞かれた時、続けたいと答えたかった」

「…………」


 イオスが何を言っているか分からない。これも優しさゆえの嘘だろうか。


「だが、私に選択の権利はない。ダニエラの望む事を支援するくらいが関の山だ」

「だからまた、そんな嬉しい事を言ってくれるんですね。どれだけ責任感が強いんですか? 私の為を思うなら、もう嘘はやめて下さい」

「私がダニエラを愛していると言った言葉に、嘘はない」

「もうやめてっ!!」


 ダニエラは自分の耳を塞いでへたり込んだ。居心地の良い言葉を聞いてしまうと、決心が鈍りそうだ。ようやく、ようやくイオスを自由にさせてあげられる時が来たと言うのに。

 またイオスを苦しませることはしたくないのに、彼に甘えてしまいそうな自分が嫌になる。


「どう言えば信じてくれる?」


 イオスはダニエラの前に座り込み、耳に当てられた手をそっと外した。ダニエラが俯いたまま顔を上げずにいると、イオスの温かい手がダニエラの頭に置かれる。


「イオス様は私を利用して結婚しただけではないですか……」

「あの時は利用せざるを得なかった。許して欲しい」

「もう許しました。充分によくして下さいましたし。だから、自由にしてあげるんです」

「私の自由にしていいというなら、私はダニエラとの結婚生活の継続を望む」

「もうお腹に子供はいないんですよ?! 気を遣わないで下さい!」

「子供がいてもいなくても、気持ちは変わらない。離婚はやめてくれ」


 ダニエラは顔をそっと上げた。本気だろうか。本当なのだろうか。

 イオスの顔は真剣そのもので、悪どい笑みなど浮かべてはいなかった。


「なん、で……」


 不意に流れ出る涙。このまま元の鞘に収まってしまっては、赤ちゃんが浮かばれないではないか。一体、何の為の堕胎だったというのか。


「赤ちゃん……私が、殺しちゃったのに……っ戻れるわけ、ない!」


 うわあああ、と声を上げて泣き出したダニエラを、イオスは優しく包み込む。


「あのな、ダニエラ……魔術師が堕胎出来るという話……」

「ひっく、う、ううう」

「あれは、眉唾だ」

「ひっく、びえぇええ……え?」


 マユツバ。その意味をぐちゃぐちゃになった頭で考える。


「まゆ、つば……ウソってことですか?」

「平たく言えばそうだ」

「でも、女の人なら大抵知ってる話ですよ?」

「全くの嘘ではないからな。実際に魔術師に魔法で腹を貫かれて流産した者はいる。ダニエラは腹を貫かれたか?」

「……いいえ。でも、お腹の子は死んだはずだって……」

「こう言われなかったか?『成功したかどうかは、翌月に月の物が来るかどうかでしか判断できない』と」

「……はい、アンナ様にそう言われました」

「アンナ殿もお人が悪い」


 イオスは可笑しそうにクックと笑った。


「どういう……事ですか?」

「とある貴族……元は商人だが、そいつが金儲けの為に流した噂だ。そのグループは我々騎士団が、アンナ殿にも助力頂いて潰したから、もう存在しない。だが噂だけが一人歩きしていてな」

「そんな噂だけが残るものでしょうか……」

「実際に流れてしまった者もいるんだろう。妊娠初期は流産しやすいと言うしな。ただの偶然に過ぎない」

「じゃあ、まだ私のお腹には赤ちゃんが……?」

「ああ、いる」


 ダニエラから安堵の溜め息が漏れる。良かった、と唇が自然に形作っていた。


「でも、本当に影響無いんでしょうか。あの時私、ビリっと来て……」

「そんなものは静電気と変わりない。あの男のやる事だ。静電気以下の力しか出してないだろう」


 それを聞いて再度安堵する。どうやら、本当に大丈夫そうだ。


「申し訳ありません、イオス様……私、本当に勝手な事を……」

「私に、その子の父親役をやらせて貰えるな? いや、役ではなく、本当の父親になりたい。ダニエラにとっても、本当の夫となりたいのだ」


 この言葉は、優しい嘘ではない。……そう、信じたい。


「イオス様……私、信じます。イオス様の言葉を」


 そう言うとイオスは嬉しそうに破顔し、ダニエラをその手の中に包み込んで優しく抱きしめていた。

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