第二章

1.非日常の朝

 その日もランサム伯爵家の使用人たちの朝は、いつもと変わり映えはしなかった。昨日より風が強いから、洗濯物を干す時は落ちてしまわぬよう気を付けるように……程度の変化はあったが。

 しかしそれはメイドのマリーが当主の寝室を開けるまでの話である。


 いつもと同じ時間に起床の挨拶に寝室を訪れたマリー。


「旦那様、奥様、起床のお時間でございます」


 ノックのあと、そう扉の外から声を掛ける。しかし返事はない。一拍の後もう一度ノックをして声を掛けた。

「……起きている」

「おはようございます。奥様の身支度を整えさせていただきます」

 温度のない返事が返って来るが、気にもせずいつものようにマリーも返す。


 ここまではよくあることだった。

 いつも人の手を借りたくないフレッドが、身支度を整えて部屋を出ると同時にマリーが入室し、寝ぼけ眼のチェルシーを起して支度を手伝うのだ。


 しかし扉を開けた先の光景は未だかつてなかったもので。


「え……」

 マリーは暫し目に映るものが現実であると意識するのに数秒要した。


 そこには当主であるフレッドが、使用人よろしくチェルシーの髪を梳かしているところであった。衣装は既に夜着から着替えている。そのデザインのドレスは、チェルシー一人では着られないものであったから、推して知るべし。


「彼女の支度はもうすぐ終わるから、君は次の仕事をしているといい」


 マリーの方は見ず、鏡越しにチェルシーを見つめるその表情は蕩けきっている。そんな表情、今まで見たこともない……こともないが、これほどまでではなかった。要するにマリーが今まで仕えてきた中で、一番蕩けた表情をしていた。それはもう、とろっとろに。

 もちろんチェルシーもうっとりと、鏡越しに夫を見つめている。


「……は、はい!かしこまりました」


 フレッドの言葉が耳から入って脳に伝わるまでいつもより時間を要してしまったが、何とかグルリと周れ右をした。その瞬間、目が合ったチェルシーが恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに頬を染めていたのを見て胸が温かくなる。


(お茶の時間にでも、どんな変化があったのか話してくださらないかしら)

 そう思いながら廊下を歩き出したマリーであった。


 * * *


「あら?いつもと感じが違うわね?」


 常日頃と同じ時刻に朝食の席に着くなり、前伯爵夫人であるフレッドの実母、サマンサは声を上げた。それに対してチェルシーはモジモジと手を遊ばせながら、恥ずかしそうに口を開く。

「あの、実はですね。フレッド様が身支度を整えて下さいましたの」

「え……?」


 サマンサはまさかの返事に、手元を止めて目を真ん丸に見開いた。それから彼女の隣に座っている息子を見て、再びチェルシーへと戻すを2回ほど繰り返す。


「え……?」


 そうしてもう一度同じ声を出した。しかしサマンサの驚きは尤もだとチェルシーは思った。チェルシーだってそう思っているのだから。


「いつものようにマリーを呼ぼうとしたら、フレッド様がしたいと仰るのでお願いしたのです」

「え?したい、ですって?」

 些か語弊がありそうな呟きを落としたサマンサは、わかりやすく動揺している。そりゃそうだろう。誰よりもチェルシーを想っている息子ではあるが、それは哀しいかな行動や表情には一切現れてなかった。サマンサ自身や使用人たちで何とかチェルシーを繋ぎ止めておかねば、とすら思っていたくらいだ。


 ここ最近は見つめ合ったり、一緒に街に出掛けたりなどしているようで小さいながらも二人の進歩に喜んでいたというのに。


 それがどうしていきなり?


「……私がチェルシーに服を買ったのですから」


「それは分かるけど……」


 無口な息子からの説明を早々に諦めたのか、サマンサは困った表情でチェルシーに視線を寄越した。

「フレッド様はマリーの手を借りずとも着れる、今レディの間で流行りのドレスを買って下さったのですわ」


「……あー、なるほど」


 それは流行に乗ったわけではなく、自分がチェルシーに着せたいがために買ったのね。とはサマンサは言わなかった。彼女は息子夫婦の円満な生活を応援している第一人者でもある。対するチェルシーが嬉しそうであれば何も言うことはない。そして息子も無表情ながらも、とても満足そうだ。


「ではいただきましょうか」


 仲が良いことに越したことはない。気になることは多々あるが、そういうことにしておいた。

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