4.んんっ
「奥様、何かいいことがありましたか?」
「ふふ、ちょっとね。……そうだわ」
カップを下げに来たマリーというメイドに声を掛けられて、はたと気づく。
「ちょっと聞いてもいいかしら」
「なんでしょうか?」
キョトンと首を傾げるマリーは愛らしいが、チェルシーよりも10歳は年上だったはずだ。そして既婚者の彼女ならば望む答えをくれるだろうと期待する。
「あのね、可愛すぎてつらいってどういう状況かしら?」
「え?」
斜め上の質問だったのだろう、マリーはカップをトレイの上に乗せて固まってしまった。
「可愛すぎてつらいってどういう気持ちなのか知りたくて。知ってたら教えて欲しいの」
「可愛すぎて……つらい、ですか。そうですね……」
戸惑いを見せながらもトレイをワゴンに乗せつつ、考える様子のマリーに期待の眼差しを向ける。小さい声で「どう表現したら……」と呟いているのだから尚更だ。彼女は知っているのだと確信する。
急かさず大人しく待つことにした。
「奥様は動物を飼ったことがおありですか?犬とか猫とか……」
ややあって話し始めたマリーの言葉に、チェルシーは丸い目を更に丸くしてパチパチと瞬かせた。男性が出てくるかと思いきや、犬猫とは一体どういうことなのか?
「ええっと、ないわね。おばあ様が動物が苦手で」
「そうですか……。私の経験ですと、子供が愛らしいときに可愛すぎて胸がキュンと締め付けられて、それが『可愛すぎてつらい』と表現できるかなと思います」
「胸がキュン……?」
「奥歯を噛みしめたくなるというか……」
母の顔をして話すマリーは既婚者で子供がいる。娘のエリサにはチェルシーも何度も会ったことがあるが天真爛漫で確かに愛らしい。
「確かにエリサは愛らしいわ。胸とか奥歯のはよく分からないけれど……」
目から鱗が落ちた。つらいというのは胸が締め付けられて苦しいからということらしい。確かに恋愛小説でも、恋人を想うと胸が苦しいといった類の表現がしてある。けれどそれは悪い感情ではない。
「もしかして好きすぎて、その人のことを思うあまりにつらいのかしら」
「そうですよ。愛していなければ、そこまで想うわけないですから。可愛すぎて気持ちが昂ってやり場のない愛しさが膨れ上がってつらいのです」
「んんっ」
「奥様?どうされました?」
マリーの言う通りであれば、フレッドはチェルシーが可愛くて愛しくてどうしようもない、ということになるのではないだろうか。思わず変な声が出てしまった。いやいや、まさか。
「大丈夫、よ。マリー。それより大好きな相手じゃないとそんな気持ちにはならない?」
「ふふ、そうですね。好きな相手を想う切なさは苦しくも甘いものですわ」
「うーん、難しいわ。甘いなんてお菓子しか知らないもの」
「奥様には旦那様がいらっしゃるではないですか」
「確かに距離が近いとドキドキはします。けれどそういう結婚ではないから難しいわね」
「し、失礼しました!」
「気にしていないから大丈夫よ。私たちなんてそんなものだから」
慌てて謝罪するマリーにチェルシーは軽く返す。気を遣っているわけでもなく、本当に気にしていないのだ。そういうふうに育ったし、周りもそのような意識を持っている者が多い。だから夢物語としての恋愛ものの劇や小説が流行っているのである。対してマリーは貴族ではない。自由に恋愛をして結婚をしたのだろう。
確かに愛し愛されるのは羨ましいが、違う世界のように思えてしまう。
けれど、このフレッドの紙に書かれていることが事実であれば、彼はチェルシーを可愛いと思って胸が苦しくなっている?
信じられない思いの方が強いが、嫌われるよりはよっぽど嬉しい。温度のないフレッドの目にチェルシーは可愛く映っているらしい。それも苦しいほどに。
じわじわと胸に言い知れぬ何かが込み上げる。それはちっとも嫌なものではなく。
「奥様、熱いですか?」
「え?」
「頬が赤くなっていますけど」
マリーにそう言われて頬に手を当てるが、確かにすこし熱を持っているようだ。
「紅茶で身体が温まったのかしらね。体調は悪くないから気にしないで。いつもありがとう」
「さようでございますか。何かありましたら直ぐにお呼びください」
言葉を締めたチェルシーに、マリーはそう言って部屋を辞していった。
誰も居なくなった部屋で、再び拾った紙を広げる。フレッドはチェルシーのどこを可愛いと思ってくれているのだろう。しかしそれを問う勇気はなかなか持てそうにない。
(いくらなんでも私のこと可愛いと思ってらっしゃる?と聞けるはずもないわ!)
想像しただけで部屋の端から端までゴロゴロ転がりたくなる衝動に駆られる。しないけど。それに冷めた瞳で見降ろされたら、もう二度と立ち直れないかもしれない。
とりあえず今夜フレッドが帰ったら観察してみよう。
あとは紙の捜索だ。このような紙が他にも落ちていないか探してみたい。そこには新しい情報があるかもしれないのだから。
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