拾壱話 異界




 私は東京駅構内にある四番線プラットホームのベンチに座っていた。

 すでに終電も走っていない深夜である。

 しかしプラットホームには私以外にも人がいた。

 ――彼等は待っている。

 間もなく到着する、運行表に載っていない幻の列車を。

 本来、この時間にプラットホームへ立ち入れば、即座に鉄道警察隊が現れて連行される。

 そうならないのは監視カメラに映っている私たちを鉄道警察隊が見ていないからだ。

 彼らの職務怠慢というわけではない。

 私たちを認識できないのである。

 そして彼らは後日、知るのだ。

 見知らぬ列車を待つ乗客たちがいたのだと。

 神隠しなどはこのような段階を踏んで起こる。

 唐突に人が消えたように見えるが実は他人からは見えていないだけで、邪悪なアヤカシが被害者の手を引き攫っていく。

 神隠しの現場が異界化し、遡行者以外にはアヤカシと被害者を視認できないのである。

 奇妙なのは人間の目には見えなくてもデジタル機器――監視カメラにはしっかりとその痕跡が記録されている場合もある。

 先代がそうであった。

 先代がここで”幻の列車”に乗りこむ監視カメラの映像データを私は何度も見返している。 

「やっぱ、ここにきてた」

 宮内庁の土御門由奈はブレザーの制服姿で私の隣に腰かけた。

「あなたの指図は受けない。私は特殊対策室の調査員としてここに来ているんじゃないもの」

「知ってる。あの列車に乗るため、特殊対策室を辞めたのよね。あんた、あたしの想像以上に狂ってる」

 私は先代が消えた、この東京駅の調査をしたいと上司の安土に頼んだが却下された。

 その足取りを追うため、調査を上申したのだ。

『あの列車は危険です。あなたを行かせるわけにはいきません』

 上司に警告された私は『特殊対策室を辞めます』と答えた。

 そうすれば上司の命令を聞かずとも調査できると考えたのだが、まさか由奈がくるとは思っていなかった。

「安土って人にあんたがここにいるから説得してきてほしいって言われた。公務に必要だからって嘘ついて、ここが異界化するのがいつかをあたしに探らせていたんだから、あんたも無茶苦茶よね」

「ごめんなさい。もし異界から還ってこれたら、私はあなたになんでもするから!」

 セーラー服のスカーフを右手で握り、由奈に身を乗り出した。

 私のただならない意気込みのせいか彼女は座ったまま、体を後ろに引く。

「ごめんなさいはあたしの方ね。宮内庁でも東京駅の異界化は近いうちに封印する計画があった。何年も前から行方不明者が続出してるし。だけど多くの行方不明者たちがどうなっているかわからないから、封じていいものなのか判断がつかない。誰かが、あの列車に乗って異界の様子を見てくる……それしか確かめる方法がない」

「じゃあ、私が列車に乗るのをわかってたうえで情報を流していたの?」

「そういうこと。むしろあたしが列車に乗りたいんだけど、理由があって乗れないの。それについては還ってきたら教えてあげる」

「私が異界から現世に還ってこれる可能性ってどれくらいだと思う?」

「九割は無理ね。残りの一割はもっと無理。あの列車に乗って還ってきた人はいまのとこゼロよ。先代の伏宮遥を追って、死ににいくようなもんだわ」

「先代を現世に連れて還る。それが先代との約束だから」

「その機会は今回がラスト。一般人の犠牲も無視できない数になっている。あんたが還ってこようが、還ってこなかろうがここを封じる」

「私が異界に行くのを止めないのね」

「止めてもどうせ行くんでしょ。あんたはそういうタイプよ。綺麗な顔して無表情なくせに、自分の感情には忠実……そんなの最初に会ったときからわかってた。それに姉が消えたとき、あたしも異界に行きたかったから気持ちは理解できる」

 由奈は諦めたようにつぶやいた。

「あんた、異界になにがあるか知ってる?」

 列車を待っている私に由奈は質問する。

「まるで知ってるような口ぶりね」

「そりゃそうよ。あたしの先祖の安倍あべの晴明せいめいは京都の一条戻橋から異界に行って還ってきてるし、うちの家系は子供のころから異界について学ぶ。深入りしない方がいいって言ったのも、その根拠があるから」

 一年前、喫茶店で由奈と会ったとき、異界に近づくなと忠告されていたのを思い出した。

「もう一度、私から聞くわ。異界にはなにがあるの?」

「今なら話してもいいかもね。どうせ列車に乗って異界に行くんだから」

 由奈は肩にかかったツインテールの髪を片手で払い、溜息まじりに言った。

「異界にはすべてがある――それが異界から還ってきた人たちの共通認識。その言葉がなにを指すかはあんたが実際に行ってみて感じ取るしかない」

 含みのある言葉で異界を説明した由奈だが、その先を語ろうとはしなかった。

 異界の本質はまさに彼女が語ろうとしない部分にあるのかもしれず、私は内心でその得体の知れないとこかくりとも呼ばれる世界に怯えた。

 特殊対策室で過ごしたこの三年間、私は異界の入り口までしか足を踏み入れていない。

 あの濃霧の向こうになにがあるのか。

 先代は生きているのか。

 アヤカシと異界は切っても切り離せないものであるが、結局のところ私はそのどちらも表層しか触れていない。

「異界にあるものって、もしかしたら人の根源的な何かなのかしら」

 思考は言葉となって私の口から紡がれる。

「それについては行ってみるのが手っ取り早いわ」

 闇の奥から列車のやってくる音がした。

 やがて列車は停まり、他の人々は中に入っていく。

 外観は普通の電車だが、すでに異界の気配が漂っている。

 私はベンチから立ち上がって、風になびいた制服のスカートを直した。

 プラットホームから電車に乗り込もうと歩き始めると、私は後ろから左手をつかまれる。

「待って。おまじないをしてあげる」

 由奈は自分の左手の小指と私の左手の小指に赤い糸を結んだ。

「これは思念の赤い糸。恋人同士がこれで結ばれている伝説があるけど、アヤカシを遠ざける魔除けの意味もある。生命力が低くなると見えなくなるから気を付けて。嘘ついて調査させたお詫びにになんでもしてくれるって言ったの、忘れないで。だから、なんていうか、その……ちゃんと還ってきて」

 由奈の頬がかすかに紅揚しているように私には見えた。

「ありがとう」

 絶対に還ってくる――そこまで保証できないので由奈にはそれを言わず、私は列車に乗った。



 車内は対面シートになっており、私は老いた男性のいる席に向かい合うようにして座った。

「お嬢ちゃんも、この電車の噂を聞いてきたのかい?」

 白髪のその老人はまるで孫と接するような気軽さで話しかけてきた。

「はい。あなたはどういった目的でこの列車に?」

「目的ってほどでもないんだがね。この電車に乗れば失くしたなにかがもどってくるなんて聞いてな。その話をどこで聞いたんだっけなぁ、忘れてしもうた」

 見た目は高齢だが滑舌がよくて聞き取りやすかった。

「それにしてもお嬢ちゃんなんて人生これからだろうに。おいらのように生い先短い爺さんが乗るぶんにはいいがね。なぜかしらんが、さっきの東京駅には戻れる気がせんからな」

 なにが作用しているかは謎だが、この老人は異界から現世に還れる可能性が著しく低いのを察していた。

 車窓の奥は真っ白な霧で覆われ、電車がどこを走っているのかまったくわからない。

 私は老人と会話を続けた。

 鉄工所で職人をしていた話や数年前に奥さんに先立たれ、さらに息子夫婦が海外の飛行機事故で亡くなっている話を彼から聞いた。

「気づいたら自分だけになってしもうてな」

 車窓の霧が晴れると列車の内装が一気に変わる。

 車内のすべてが木造になり、シートの座り心地も硬質なものになった。

「こりゃまるで汽車だな。集団就職で青森から初めて東京にやってきたころのようだ。世の中、不思議なこともあるわい」

 車内が完全に異界化した。

 というよりも列車そのものが異界の深部に突入したというべきだろう。

 ――あそこに見える星は北十字星だろうか。

 車窓には星が見え、まるで列車は夜空を走っているようだ。

 満点の星空の中、列車は私を異界の奥へと運んでいく。

 老人のいる席を立ち、列車の通路を移動した。

 通路を進むと二十代後半らしき女性が物憂げな顔で車窓を眺めている。

 私は彼女の前に座り、再び星空を見た。

「こんなに星を見たのは初めてね。都内だと星なんて見えないから」

 彼女はそう言って、私のほうを向いた。

「どうして、この列車に乗ったの?」

「誰かから聞いたの。夜中、東京駅の四番線に幻の列車がきて、それに乗れば失くしたものがもどってくると」

 彼女の左手の薬指には指輪が光っていた。

 私の視線に気づいた彼女は愛しむようにそれを右手で撫でる。

「これ、二年前に婚約者の彼氏が病死してしまって、ずっとつけたまんま。……ごめんね、変な話をしちゃって」

 私は首を振り、黙りこんだ。

 調査員になってから、複雑な事情を抱えた人々を見てきた。

 高校生になったばかりのとき、大人は過去と上手く折り合いをつけているのだと私の目には映っていた。

 しかしそうではなく、思い出という忘れがたいおもりを心の水底に沈めているだけだと知る。

 錘はふとしたきっかけで軽くなって心の水面に浮上し、失くしたものがなんだったのかを当人に再認識させ、昏い水底にゆっくりともどっていく。

 ――過去からは誰も逃げられない。

 そう語ったアヤカシと二年前に出会ったのを私は今でも覚えている。

「この列車はどこに停まるのかな。もしかして月に停まったりしてね」

 彼女は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、案外そうなのかもしれないと私は思った。

 車窓から星空が消え、列車は川にかかった鉄橋を渡っていた。

 川の奥でなにかが緑色の燐光を発している。

 それは暗闇で蛍が光るような幻想的な光景だ。

 眺めているうちに列車は川を渡りきる。

 窓枠に頬杖をついていると左手の小指に巻かれている赤い糸が薄くなっているのに気づく。

 現世に戻れないかもしれないと肚をくくったつもりだが、五日後にひかえた高校の卒業式に参加できるのか不安になった。

 学校にほとんど登校しなかったことに後悔はない。

 入学式の日、私は同年代の生徒たちが鬱陶しかった。

 表情のない私からすれば、彼等に苦悩などないと感じたからだ。

 だが、実際はどうだろう。

 誰にも相談できない悩みを笑顔で隠し、なにかしらの葛藤を制服の内側に押し込めていたクラスメイトもいたのではないか。

 そうした他人の微細な心理を洞察できていないあたり、入学当時の私には調査員としての資質が欠けていたのだ。

 私は席を立ち、誰もいない席に座った。

 乗客たちに探りを入れてみたがアヤカシに操られているわけではなく、自分たちの意思でこの列車に乗っている。

 深夜、東京駅の四番線にやってくる列車に乗れば、失ったものがかえってくる――何年も前から都内を中心にその噂は根強く残っていた。

 全国には”幻の列車”や”幻の駅”の噂話が無数にあり、乗る場所は地域によって様々だが列車の向かう場所は異界と決まっている。

 私は先代の消えたこの列車に乗るため、東京駅が異界化する機会を伺ってきた。

 宮内庁の陰陽師である由奈から連絡が入ったのは四日前である。

 由奈も数年前から半分は公務として東京駅の調査をしていたといっていい。

 いや、私が依頼せずとも、彼女は東京駅を調査していたはずだ。

 そこへ丁度、異界に行こうとしている私が声をかけたというのが実情のようである。

 彼女の掌の上で踊らされていたのは癪だが、情報を流してくれたのはありがたかった。

 おそらく私を一番理解しているのは彼女だ。

 だからこの列車に乗る私を止めなかったのだろう。

 彼女と出会って三年が経つ。

 一年に数回しか会わないのに奇妙な信頼関係が生まれていたのは確かだ。

 もしかしたら、この関係を友人というのかもしれない。

 もしも――。

 もしも生きて異界から還れたら、彼女に今度どこかに遊びに行こうと誘ってみようかしら。

 何気なく見た小指の赤い糸はさらに薄くなってきているが、まだ見えている。

 やがて闇をひた走る列車は速度を落として停車した。



 そこは列車が出発したはずの東京駅だった。

 降りてきた他の乗客たちはどよめいている。

 乗車したときの外観は電車だったが、下車したときは汽車になっているのも妙だった。

 ここは異界だ。

 現世の常識では起こらない現象がいくらでも起こる。

 プラットホームにいても仕方がないので駅の外に出た。

 駅前には何人かの人たちが歓声をあげていた。

 私には、この場でなにが起きているのかよくわからない。

「ひさしぶりね、綾乃。元気だった?」

 私の前に立ったショートカットの少女の姿に私は声を失った。

「……先代…………なんですか?」

「もしかしてわたしの顔、忘れちゃった? その制服、綾乃も高校は央苑女子校にしたんだ。お揃いだね!」

 あまりにあっさりした邂逅かいこうに私は言葉が出てこない。

 たしかに先代は私と同じ高校の制服を着ているし、いつもの前髪の髪留めも付けているが、そんな話題どころではなかった。

「今日は綾乃がくるんじゃないかって気がして駅まで来た甲斐があった。他の人たちも現世を去った人たちと再会して嬉しそうね」

「現世を去った?」

「ここは思い出が集まる場所。アヤカシはここから発生して現世へと姿を現す。異界はその源泉ともいうべき場所よ」

 近くを見ると列車で会話した結婚指輪の女性が号泣しながら、男性に抱きついている。

 まさか、あの男性は彼女の言っていた――

「あの人は亡くなった彼氏に会いに来たのね」

 先代はなんで断言できるのかしら。

 当たっているだけに薄気味悪かった。

「びっくりしたときに瞬きの回数が増える綾乃の癖、変わってない。どうしてあの男女の関係がわかったのか不思議だったんでしょ。単純な話しよ、同じ指輪をしているから。でも結婚している男女ではなく、恋人同士のような雰囲気もある。夫婦だと、もっとしっとりした喜び方になるっていうか。あの二人は婚約していたのかもしれないわ」

 先代は他人の変化に鋭敏で相手の思考を読むことに長けている。

 それはいまでも鈍っていないらしい。

 アヤカシの調査能力で言えば先代は桁外れの部類になる。

 彼女は私のように先代がいたわけではなく、独学で遡行者としての能力を高めた。

 上司である安土の評価によれば、『彼女は最初から調査員として完成されていた』というものになる。

 その彼女から調査員としての研修を受けた。

 私が内調の特殊対策室へ所属した直後に先代は失踪する。

 その様子は東京駅の監視カメラに記録として残っており、その映像データは最重要機密保管庫に保存されていた。

「聞かせてください。先代はどうしてここに……」

「遠見調査員はせっかちさんねぇ」

 芝居がかった動きで右手の人差し指を私の唇の前に置いた。

 私が言葉を呑み込むのを確認した先代は『それでよし』と言わんばかりに頷く。

「調査には手順がある。綾乃も調査を三年やってきたんだから、わかるよね。まず調査対象を自由に泳がせてみるのもいいんじゃない?」

 言い終えた先代の綺麗な瞳が私をじっと見つめた。

 先代の自信に満ちた、きらきらきらしたあの目が大好きだ。

 陰鬱とした私とは正反対の太陽みたいに明るい先代。

 彼女の背中を必死に追ってきた三年間だった。

 先代にとってのこの三年間を本題に移る前に知っておくべきなのだろう。

「ここがわたしの家よ」

 一瞬にして東京駅前から民家の玄関内まで転移していた。

 異界だけあって、現世の物理法則をまったく無視したことが起こる。

 奥の廊下から見知らぬ男女がやってきた。

「わたしの両親よ。現世では会えないけどここだと毎日会える。ふふふ、母さんたらまたそんなこと言って。父さんもはしゃぎすぎよ。さぁ、綾乃も食事していって。母さんの手料理、とても美味しいの」

 リビングの食卓上にはタレで肉を焼いたものとサラダ、そしてご飯と味噌汁が置かれている。

 先代はそれを食べている。

 私はそれらの料理を一切口にしなかった。

 ――黄泉よもつ戸喫へぐい

 黄泉の国の物を食べると現世に還れなくなる伝承であるが、ギリシャ神話にも酷似したものが存在する。 

 私は先代の両親を見た。

 私と同じように無表情なまま、直立不動で突っ立ているだけだ。

 先代は勝手にしゃべっているだけで、両親は服屋のマネキンのように静止したままである。

 ――先代、どうしてこんなことになってしまったの。

 憐憫という感情が私に芽生えていた。

 もしかしたら、すでに先代は私の知っている先代ではないのかもしれない。

 椅子に座っている私の横で先代はしゃべらない両親と会話を続けている。

 私はまるで一人芝居の観客になったようだ。

「ねぇ、綾乃もそう思うでしょ?」

「…………」

 私は話しかけられても無言だった。

 先代は「やだぁ、お父さんたら」とか「お母さん、それ無理だから」と愉快そうに言った。

 もう、いいでしょ先代。

 もう、いい。

 先代のこんな姿、私は見たくない。

「私と一緒に現世へ還りましょう!」

 私は先代の手を引いた。

「見えるはずよ。あなたにも失くした人たちが」

 先代の瞳にはいつもの輝きなどなく、黒く塗りつぶされた虚無しかなかった。

 先代と目が合った途端、激しい眩暈に襲われる。

 これはアヤカシと同調した際に起こるようしょうだ。

 人によっては頭痛や発熱などの症状が出ることもあり、一般的に”かれる”という状態も重度の妖障である。

 陽炎のようにゆらめく視界が徐々に像を結び始め、私はそこにあり得ないものを見た。

「お父さん……お母さん……」

 死んだはずの両親が私の近くに立っていた。

『ようやく会えたね。綾乃がくるのをずっと待っていたんだよ』

 父に話しかけられ、私はリビングの椅子から立ち上がる。

『あなたがいなくて寂しかったわ。これでずっと綾乃といられるわね。さぁ、一緒に行きましょう』

 母は私の左手をつかんだ

 これが先代の見ているものなのかもしれない。

 思考が朧げになり、頭の中が空っぽになりそうだ。

「お父さん、お母さん……私も連れて行って」

 失くしたものがかえってくるなら、私はどこにだって行くわ。

 私は母につかまれた左手の小指になにかが巻き付いているのが見えた。

 あれ、なんだっけ。

 赤くて……頼りなく揺れている細い糸。

 あの糸ってどこにつながっているのかしら。

 ここじゃないどこか。

 どこかって、どこなの。

 私がやってきた場所。

 ここじゃない場所。

 両親を失った場所。

 表情を失った場所。

 なにを失ったのかさえ忘れてしまう場所。

 嗚呼。

 このまま夢から醒めなければよかったのに。

 そうすればここでなにも失わずにいられる。

 私は思い出してしまった。

 この赤い糸がどこに繋がっているのかを。

 それは還るべき場所。

 すべてが過ぎ去り、ときという大きな波が人々を水に浮かぶ落葉のように押し流す世界。

 そう、それが私の還るべき現世。

 ――私は我に返った。

 強烈な眩暈でふらふらになりながら、私は先代の腕を引っ張って家の玄関を開けた。

 その先に広がっていたのは闇だった。

 さっきまでいた背後の家は消えている。

 闇のせいで私には先代の姿は見えない。

 しかし先代をつかんでいる左手には、その感触がはっきりと伝わってくる。

「先代、正気にもどりましたか?」

「とりあえず、大丈夫みたい」

 私は話しかけながら、先代と手をつないで歩きだした。

 すると淡い光を放つ一帯が遠くに見えたので、私はそこに向かって進むことにした。

「どうして異界にきたんですか」

 能力の高い遡行者は異界に取り込まれやすいというのは知っている。

 だが先代は自分の意志で異界へやってきたようにしか感じなかった。

 それは列車に乗っていた人々もそうだった。

「異界にきたのは両親と会うのが目的だった。でも、ここで亡くなった両親と会ってから現世に戻れなくなってしまったの。ここにいればなにも失わずに済む。現世に戻っても、またなにかを失うだけだもの」

 闇の中で応えた先代はすすり泣く。

 先代の泣き声を初めて聞いた。

 やがて光源に私たちはやってきた。

 そこは大きな川になっていて、あるものが浮いている。

 ――人。

 異界で抜け殻となった無数の肉体が丸太のように川下へと流れていく。

 列車の中から見えた燐光はこれだったようだ。

 浮いている肉体の中に列車で会った孤独な老人と結婚指輪の女性のものがあった。

 二人はすでに過去と同化し、体を捨ててしまった。

「もう、ここから動きたくない……」

 先代の泣き顔が川に浮かんだ肉体の放つ緑の光によって照らされた。

「先代、私と現世に還りましょう」

「還るって、どうやって。こんな暗闇ではどうにもならない。綾乃、わたしを置いていきなさい。いまなら、あなただけでも現世に還れるかもしれない」

「嫌です……そんなの絶対に嫌!」

 先代は驚いたらしく私の顔を見つめた。

 私が先代の命令を無視したのは初めてだからだ。

「なんとかなります」

 私は左手の小指の赤い糸が一定の方向を指しているのに気づいた。

 つまり糸は現世の方向を指しているのだ。

「きっと二人で現世に還れます。だから私を信じて!」

 私はしゃがみこんでいる先代に手を差し伸べる。

 最初はためらいがちだった彼女の手が私の手を握った。

「綾乃はこの三年で強くなったのね」

 涙を指で払った先代は笑みを浮かべた。

「私なんかよりも強い人たちと、たくさん出会ってきましたから」

 先代と再び手をつなぎ、赤い糸をたよりに歩き始めた。

 しかし私の命も異界でかなり消耗しているようで赤い糸はすぐに見えなくなる。

 なにも見えない暗黒の中、歩みを止めようとすると前からなにかがやってきた。

 それは人の形をしており、提灯を持っている。

『おひさしぶりですね。綾乃様が異界でお困りのようなのでやってきました』

 彼女の巫女装束に見覚えがあった。

「あなた廻巫女ね。いえ、結巫女だった少女というべき?」

『綾乃様に助けられたときはそうでした。いまは廻巫女の一部であり全てになりましたが』

「再会できて嬉しいけど、道がわからないの」

『承知しております。現世へ還る駅はこちらです』

 廻巫女は読心できるため、私の焦燥を感じ取ってすぐに駅までの道案内をしてくれた。

「綾乃は廻巫女と会っていたのね。こんな珍しいアヤカシと会えたなんてすごい」

 先代に感心され、私はなんだか恥ずかしくなった。

「前に会ったときは結巫女だったんだけど、いまは廻巫女として人を助けているみたいです」

『わたくしがここにきたのは廻巫女としての義務ではありません。わたくし自身が綾乃様を助けたいと思ったからです。そして、綾乃様の助けたアヤカシたちの総意でもあります』

「……どういうこと?」

 私は理解できなかったので聞いた。

『古来より、我らアヤカシたちには伝承があります。それは人でありながら、我らの声を正しく聴き、我らと同じ言葉で語り、我らを心のまなこる……それがえっきょうしゃ。綾乃様にはその素質がある。しかし、今となっては綾乃様だけでは越境者には成れませぬ。それがなにを言っているのか、そこにいる遥様ならご理解頂けると思います』

 私と先代は名前を教えていないのに廻巫女は以前から知っているように名を呼び掛けてきた。

 それにしても越境者ってなにかしら。

 そういえば以前に人形のアヤカシも同じような話しをしていたような……。

『人形神とわたくしの言っている越境者の話しは同様のものです』

 私の心を読んだ廻巫女はそう言った。

「その越境者ってなんで私なの? 先代の方がふさわしい」

『遥様はすでに別の役割を担っていると自覚しています』

「本当に心を読めるんだ。アヤカシの報告書で廻巫女については読んではいたけど、実物と話すとやっぱり違う」

 先代は読心に驚いているけど、私は廻巫女の言う”別の役割”というのが引っかかった。

『影水たちが騒々しいですね。綾乃様と遥様が現世に還ろうとしていることに感づいたようです。お急ぎください。これより黄泉よもつ比良ひらさかをのぼります。現世の駅に着くまで、決して振り向いてはなりません。振り向けば過去に囚われ、肉体をうしなってしまいます』

 廻巫女は歩いている動作なのに、まるで全力疾走しているような速度だ。

「影水たちは人間の記憶と肉体を好む。わたしたちが異界から出ていくのを止めようとしているのよ」

 先代は、私にそう言った。

 廻巫女の忠告に従い、黄泉比良坂を振り返らずに私は走る。

 途中、後ろを少しだけなら見ても……そんな誘惑に駆られた。

 きっと楽しい過去ばかりが私を包み込んでくれる。

 そんな確信がどういうわけかあった。

「綾乃、後ろに未来はない!」

 先代は前を走りながら言って、私の右手を引く。

 やはり先代は私の先を行く人なのだ。

 この人がいるから、私はこれからも走り続けられる。 

 やがて下り坂になり、しばらくして駅が見えた。

 私が異界にやってきた東京駅ではなく、閑散とした小さな駅舎である。

『わたくしはここまでしか見送れません。あの駅は現世の気配があまりに強く、中に入れないのです』

「ここまで連れてきてくれてありがとう」

『礼には及びません。以前、綾乃様から頂いた飲み物で焼けるように熱い喉が潤いました。遥様、綾乃様を現世にもどせるのはあなた様だけです。よろしくお願いいたします』

「わかったわ。責任をもって、わたしが無事に綾乃を現世に還す」

 先代はなにかを強く決意するように言った。

 安堵したのも束の間、駅の改札までやってきたところで私は足を引っ張られて転ぶ。

 足首には黒い影のようなものが鎖のように巻き付いていた。

 それは先代の影から湧き上がり、私の背丈ほどの人型になった。

 先代は影水に憑かれていた。

 先代の家で私に両親を見せたのも、この影水だったのだ。

 駅舎内まで侵入できたのは、先代の肉体と強く同化していたからであろう。

「離れなさい!!」

 先代が影水を私から引きはがそうとするがどうにもならなかった。

 私の体は黒いゼリー状の影水の内部へと取り込まれていく。

 現世への列車はすぐそこなのに。

 悔しいがこうなってはどうにもならない。

 私の体が影水に侵食される直前、変化が起きた。

 影水は内側から膨張して、地面に落とした水風船のように弾ける。

 私は自分を助けてくれた人たちを見て呆然とした。

『綾乃たちを還らせないように、記憶の水たちが駅ごと水没させようとしている。早く列車に乗るんだ!』

『こうして少しだけでも綾乃と会えて嬉しいわ』

 私を助けたのは両親だった。

 ――でも、どうして!?

「行くわよ、綾乃!」

 先代は私の手を引いて、停車している汽車に乗る。

 闇夜を裂くような汽笛がプラットホームに鳴り響き、車輪とレールの擦れる重い音が徐々に速くなっていく。

 車窓から、両親が見える。

 その顔は優しく笑みを浮かべ、私を見送ってくれていた。

「お父さん、お母さんっ!!」

 私は列車の窓を明け、長い髪を振り乱して叫ぶ。

 やがて後方で小さくなった駅舎は人々の過去と記憶による津波に呑まれ、水しぶきとともに崩れ去る。

 列車は現世に向かって進む。

「なんだったのかしら、あれ。影水とは違う、もっと生きたなにかだった。あんなの会ったことない」

 私は座席に腰をおろし、さっきの両親がどのような存在だったのかを考える。

「影水は記憶を映すだけで、あんなふうに笑ったりなんかしない。影水と同化しそうになった綾乃の心がなんらかの反応を起こし、あるものと結合してあれになった。そういう仮説は成り立つけど……それでもよくわからない」

「あるものって、なんですか?」

 私の問いに先代は戸惑った表情になった。

 彼女があの顔になるのを私は過去に一度も見ておらず、とてつもなく不可解なことが起きたらしい。

「影水の内部から顕れたのは記憶のオリジナル……あなたの両親の魂魄よ。我ながら論理的ではない結論だけど、それくらいしか思いつかない。影水と魂魄が結合することはある。でもそれは死者の肉体という依代があってこそ成立するもの。今回のように影水を呪媒として出現する魂魄なんて見たこともない。わたしたちが異界と呼ぶあの場所は、すべての魂魄さえも保存している巨大なアカシックレコードのような場所なのかもしれないわね」

 アカシックレコードとは現世のすべてを記録しているという概念的存在であるが、先代も私の両親がどのような原理で出現したのかよくわからないようだった。

「それよりも綾乃、顔の変化に気づいてる?」

「変化?」

「表情がでてる。異界にいたときはぜんぜん顔が動いてなかった。だけどいまはすごく表情が豊かよ」

 指摘され私は自分の顔を両手で触った。

 感情に合わせて口角が上下しているし、眉毛も動いている。

 その変化の原因に心当たりはある。

 駅で両親の笑みを列車内から見たときだ。

 自分のなかで長年、固まっていた冷たい氷のようなものが溶けていく感じがした。

 私は両親から表情を返してもらったのかもしれない。

 車窓は星空に変わっていた。

 遠くには南十字星が見えた。

 私と先代は向かい合った座席でこの三年間の話しをする。

 調査で失敗した話し。

 先代がいなくて寂しかった話し。

 おもしろいアヤカシと会った話し。

 先代は私の話しを楽しそうに聞いていた。

 車窓の外には北十字星が見え始めている。

「先代、もうすぐ現世です。あの北十字星は異界へ向かうときも見ました。還ったら先代と一緒に調査できますね」

 先代は私の言葉に頭を振った。

「それはできない。わたしには綾乃を無事に還す役目があるから」

「なに言ってるんですか、先代……もうすぐ現世なのに」

「よく聞いて。わたしも綾乃も異界で命をすり減らした。このままだと現世に着く前に二人とも消えてしまう……だからわたしの命を使ってでも綾乃は絶対に送り届けようって」

「なんですか…それ。先代も一緒に現世へ……」

 まさか――私は別れ際の廻巫女と先代のやりとりの意味をそこで理解した。

『遥様はすでに別の役割を担っていると自覚しています』

 廻巫女は先代の心を読んでいた。

 そして先代はこうなるのをわかって列車に乗ったのだ。

「嘘……嘘ですよね…………先代とあの日、約束したじゃないですか! 先代がいなくなったら絶対に探し出して会いに行くって! 私、約束を守りました! だから先代も……!」

「内調の特殊対策室にくれば自分が何者なのかわかるかもしれない……そう言ったのを覚えている? いまこそ綾乃は自分が何者か知るときよ。わたしはあなたに未来を託す者、綾乃は託される者。廻巫女が言っていた伝承の越境者になるべきは綾乃、あなたなのよ」

 先代は髪留めを外し、私の右手に握らせた。

「とても眠くなってきたわ」

 先代は座席にもたれかかって半眼になる。

「先代、先代……私は先代がいないと駄目なんです!! だから目を開けてっ!!」

「これで過去の悪夢から醒めて本当の醒めない夢が見られる。綾乃、振り返らずに前だけ向いて生きなさい。それが最期に教える調査員としての心得……さようなら。そして、ありがとう」

 先代は完全に目を閉じる。

「やだ、やだよ……遥さん……ねぇ、目を覚ましてっ!!」

 車窓の星々たちのようにきらめいて、先代は列車から消えていった。



 目を開けると私は現世にある東京駅の四番線プラットホームに立っていた。

 右手に硬いものを握っていたので、開いてみると先代の髪留めがあった。

 私は喪失感で立っていられず、その場で膝をつき大声で泣く。

 東京駅で待っていた由奈が私の肩を揺さぶってなにかを言っているが聞こえなかった。

 どうしていつも私の大事なものは失われてしまうんだろう。

 お父さん。

 お母さん。

 先代。

 みんな、会えたと思ったのに。

 両親を失ってからの七年、すべての感情を解き放つように私は慟哭した。

 それは先代から命を託された、二度目の産声なのかもしれなかった。



 高校の卒業式が終わり、帰宅しようとしていると一人の女子に声をかけられた。

「遠見さん、こっち! 早く!!」

 なにかと思って近づいていくと、クラスメイトたちが各々でスマホ撮影していた。

「遠見さんも、ほら入って!」

 私はその女子に背中を押され、卒業記念の写真に入った。

「遠見さんとようやく写真が撮れた」

「あの……私なんかが写真に入ってよかったの?」

「なに言ってんの。遠見さんは美人でミステリアスだから、みんな話したがってたんだよ。でも、たまにしか学校こないんだもん」

「ごめんなさい。私もみんなともっと仲良くなりたかった」

 ごく自然にその言葉がでてきて、私は胸のつかえが取れた気がした。

「謝まらなくていいよ。わたしは地方の大学に通うから、明日には東京を離れるの。遠見さんも元気でね」

 名も知らぬ女子は軽やかな足取りで校舎の方に行ってしまった。

 私にもっと心の余裕があれば、この三年間で友人の一人でもできていたかもしれないが過ぎ去った時間はもどらない。

 校門をこえると腕組みしたブレザー制服の少女が立っていた。

「内調の新人さん、なんてもう言えないわね。三年前、あなたが異界から生還して越境者になるなんて考えもしなかった」

「また私を怒らせて幻でも見せるのかしら。それとも、口付け?」

「まだ根に持ってるのね」

「当たり前でしょ……というのは冗談よ。恨んでなんていないわ。今日はなにしにきたの。もう東京駅の異界ホームは封印したでしょうし、都内で目立ったアヤカシ事件もないわ」

「内調にもどったって聞いたけど」

 内調に復帰させてくださいと言った私に後ろ手を組んだ安土は、「数日の休暇を取りたいと言っていましたね。ご自由に復帰してください」とだけ告げた。

 内調を辞めると言った私を見逃したのだ。

 私は安土に頭を下げた。

「今後は全国のアヤカシに会いに行く。そう決めたの」

 私は大学で民俗学を専攻し、特殊対策室に属したまま各地をまわる予定だ。

「それが越境者としての責務ってことかしら」

 由奈には異界での出来事をすべて話しており、宮内庁では私が現世に還ってきて大騒ぎだったらしい。

「今日はあなたを試しにきた。越境者としての実力ってやつを。入学式のときみたいに手加減やヒントなしよ」

「私も知りたい。私がどんな能力を持っているのか」

 異界から還ってきて、自分の身に変化が生じているのは認識していた。

 それがなにかわからなかっただけに、これは絶好の機会だ。

「この式神は本物よ。ちゃんと避けないと火傷するから!」

 由奈が放った呪符は途中から炎を纏った鳥に変わった。

 十羽ほどのそれが私めがけて、矢のごとく飛んでくる。

 ――怒り。

 頭の中でその単語が浮かぶ。

 こんなことは今までにない。

 そう……そうなっているのね。

 この鳥たちは由奈の怒りという感情を呪媒にしているのだ。

「あなたたちは怒る必要なんかない。さぁ、あるべき姿にもどるといいわ」

 白い鳥たちから凶暴な鳴き声がやみ、全身を包んでいた炎が消える。

 そして彼等は私の肩や手にとまって、さえずりを始めた。

「なっ……!? なによ、これ!!」

「たとえ仮初めの命であっても自由を求めている。私にはそれがわかる……いいえ、わかるようになってしまった」

 私にとまっていた鳥たちは一斉に空へ向かって羽ばたき、そして呪符となってひらひらと落ちてきた。

「あの子たちは一度でいいから大空を飛んでみたかったんですって」

「あたしの呪符を乗っ取れるの!?」

「違う。彼らが望むものがわかるのよ。前にわからなかったものが、いまはわかるようになった。越境者なんてそれだけのものらしい。拍子抜けよね」

「じゃあ、あたしがどこにいるかわかる?」

 これは入学式の日にどうしても解けなかった問題だ。

 声の位置が移動していて、あらゆる方法を使っても由奈を発見できなかった。

 ――でも、いまはわかる。

「どうりで解けなかったわけね。私はこれも陰陽師の呪符によるものかと考えていたんだもの。力の出どころが人間とは根本的に違う」

 私は振り返り、誰もいないはずの空間をつかんだ。

「どうしてわかったの!?」

 私の前には姿を現した由奈が立っていた。

「なにもないはずの場が人型に緑色で縁取られていたの。これも越境者の力のようね。そして、その色で視覚に反応するのはおそらくアヤカシ。あなたは体のほとんど、もしくは全部がアヤカシじゃないかしら。呪符のように心理的錯誤で消えているのではなく、アヤカシのように人間の目には映らないんだわ。こんなの三年前じゃ、わかるわけない」

 私は由奈の手をにぎりながら言った。

「越境者ってとんでもない力を持ってるのね。あなたの言う通り、あたしは体のほとんどがアヤカシなの。あたしが異界に行けなかったのは人としての魂が希薄なせいで、行ってもすぐに死んでしまうから」

 由奈は私を見つめ、話しを続けた。

「あたしの姉が異界で行方不明になったのを知ってるでしょ。あれの続きなんだけど」

 瞳に暗鬱な色を湛え、彼女は語る。

「姉が異界に行って、しばらく経ったころに京都で連続通り魔事件が起きた。警察の発表では六人の男女がナイフで惨殺されたということになっていたけど事実は違う。被害者全員は内臓を貪り喰われ、ひどいものになると肋骨の一部と血痕しか見当たらなかった。祖父は姉が還ってきたと言ったわ。あんたみたいに人のまま還ってこれるのだけが異界ってわけじゃないの。異界でアヤカシとも人間ともつかない黄泉よみびとになって現世に還ってしまう、そういう場合もあるわけ。あたしが捜査に参加して数日、姉が七人目の被害者を喰っているとこに出くわした。とどめを刺そうとしたとき、前歯で長い腸を引きずり出していた姉が正気にもどったのよ。その隙をつかれた私は姉に体の半分を喰われた。祖父がかけつけたころには、生きているのが不思議な状態だったって。祖父は自分の命を呪媒にして依代にあたしの命を吹き込んだ。そうやって出来たのが今のあたし。姉はきっとどこかで息をひそめ、また人間を喰おうとしてるはずよ。嫌になるわ、あたしも、姉も。たくさんの人を巻き込んで……ほんと、最低」

「苦しかったのね」

「別に憐れんでほしいわけじゃないから!」

 由奈は手を振りほどこうとするが、私は離さなかった。 

「憐れんでいるわけではない。私も現世ここに還ってくるときにいろいろあったから」

 先代の命によって私は現世に還れたのだ。

 由奈と似たようなものである。

「ねえ、東京駅であたしのためになんでもしてくれるって言ったの覚えてる?」

「覚えてる」

「あの……友達になって。あたし公務とかで忙しくて、子供のころから友達いないの」

 由奈の頬が赤い。

「うん、いいよ」

「あ、綾乃って呼んでいい?」

「うん」

「綾乃……遊園地に行ってみたい。あと、水族館。一回も行ったことなくて」

 顔を真っ赤にした由奈はぼそぼそと言った。

「今から行きましょう」

「今から!? ちょっと……え、本気!?」

「私もあなたと仲良くなりたいの」

 由奈の手を引いて歩き出す。

 先代、聞いてますか。

 越境者になっても新人らしさは抜けそうにないです。

 これからが調査員としての第一歩な気さえしています。

 お父さん、お母さん、聞いてますか。

 高校生としての最終日にたった一人だけ友人ができました。

 とても長い付き合いになる――そんな予感がします。

「どうしたの綾乃、なんか考えこんでた?」

「ええ、ちょっとね」

 見上げると、どこまでも広がる青空だった。

 私の遡行者としての過去が終わり、越境者としての未来が始まろうとしていた。



 ――了――

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