第34話
痛みを味わったのは、本当に久方ぶりのことだった。
数百年前にこの星に漂着した時の、大気圏外から地表への落下。宇宙空間という死の世界での漂流と、断熱圧縮による炎上、硬い岩盤との衝突。
死ぬ寸前まで行った。身体の半分が死滅し、残る半分を自切し、そこから再生させた。様子を見に来た現地の神々と一戦交え、辺境の森へと逃げ延びた。あの時と同等の苦痛だった。
だが、まだ生きている。
まだ、母を呼ぶ悲願を達していない。まだ死ぬわけにはいかない。まだ、まだ!
身体の再生が遅い。かつて唯一神を名乗る蛆虫に負わされた傷と同質のものか。
体組織の約4割が抉り取られ、1割ほどしか再生していない。あの魔術、連射は効くのか? だとしたら不味い。だが、時間を稼ぎさえすれば──!!
人質に取ろうとフィリップに触手を伸ばし──光が消え、次の瞬間には腕が吹き飛んでいる。
無数にある触手の一本が切断されたところで、大した痛痒を感じない。だが、あの魔術、まさか連射ができるのか。
終わる? そんな懸念が頭を過る。
数百年をかけて準備した、存在の階梯を上がり、母に認めて頂く、そのための計画が。母の寵愛を受ける絶好の贄を手に入れ、最高の状態で儀式へ臨むはずだったのに。たかが苗床程度の価値しかないヒトの女風情に、計画が壊される?
許容できない。
そんなことがあってたまるものか──!!
「ッ!?」
「──!!」
怒号を上げようとした黒山羊が静止する。思った以上に強力な魔術に舌を巻いていたフィリップが静止する。手応えを感じ、殺意を研ぎ澄ませていたルキアが静止する。
虫の鳴き声が、鳥の囀りが、木々の騒めきが、黒山羊の気配によって沈黙していた全ての生あるモノたちが、いまこの時を祝福していた。
黒山羊が天を仰ぐ。
頂点に浮かぶ新月が、悲願達成の時を告げていた。
今だ、と、そう思ったのはフィリップか、黒山羊か。ルキアではないだろうが、この場の全員が意図していたのが時間稼ぎだというのは、中々に面白いことだった。
ルキアはフィリップを逃がすため。
フィリップと黒山羊は意を同じく、ただこの時を待っていた。
「母よ、我が貢物をお受け取りください」
黒山羊の触手が蠢き、フィリップを指向する。数秒遅れで放心状態から復帰したルキアが慌てて魔術を準備するが、遅い。
「母なる神を讃えよ。《ドミネイト》」
「ッ!?」
酩酊感と昏睡の余韻による麻痺が抜けず、地面に横たわっていたフィリップの身体がびくりと跳ねる。
以前に地下祭祀場で味わったものと同質の、しかし何倍も強烈な、身体に鎖が巻き付くような感覚がある。支配魔術に特有の感覚なのだろうが、行使した者の魔力量が段違いだからか、あるいはその存在ゆえか、不快感が大きい。
「フィリップ!? 待ってて、今──ッ!?」
解呪しようとしたルキアへ触手が振られ、行動がキャンセルされる。辛うじてガードに成功し、触手を《明けの明星》によって千切り飛ばしてはいるが、流石に同時並行で支配魔術を解除することは出来ないらしい。
いくら当代最強の魔術師とはいえ、やはり人間。所詮はその程度かと、先ほどまでの焦りを忘れて嘲りの声を漏らす。
毒が効いているのか、ほとんど抵抗も無く支配魔術に身を任せているフィリップが口を開いたのを見て、黒山羊の興奮は最高潮に達した。
「いあ──」
フィリップが唱えるのに合わせ、黒山羊自身もその名を呼び讃える。
「Shub-Niggurath」
みしり、と、世界が軋んだ。
◇
思ったより不味い、と、フィリップは横たわったまま顔を引き攣らせた。
外なる神の「外なる」が示すのは、この宇宙の外だ。外神はこの宇宙の外側にその本体を置き、化身を用いてこちら側、宇宙の内側に干渉している。ナイ神父はナイアーラトテップの化身だし、マザーはシュブ=ニグラスの化身だ。その真の姿は極めて冒涜的で名状し難く、人はたとえ視界に収めずとも、同じ空間にいるだけで精神に甚大なダメージを負う。
だが、人のいない星や宇宙空間ですら、彼らは化身を象り、決して真体を現さない。
その理由は単純で、彼らは宇宙空間に──三次元空間には収まらないからだ。
無理に顕現しようとすれば、この通り。世界が軋みを上げ、壊れることになる。
黒山羊の歓喜の声が五月蠅い。というか、山羊ならせめてメーメー鳴け。そんなしょうもないことを考えてしまうほど、現状は芳しくない。
フィリップの想定では、ここでマザーを呼んで黒山羊を(マザーが)ブチ殺し、ルキアとマザーと三人仲良くおてて繋いで森をおさんぽしておうちへ帰るはずだった。あとは騎士団なり衛士団なりにカルトの存在を告げ、フィリップの腕輪を解いてもらい、副王にヤマンソが出てきた場合の処理を頼み。満を持して、この森からカルトの肉の一片、骨の一かけらすら残さず熱消毒する。
故郷も掃除して、恨みも晴らして、すっきりした気分で魔術学院へ行く……はずだったのだが。
「どうして……」
みしり、みしり、世界が軋む。
ヨグ=ソトースが慌てて世界の構造を強化し、シュブ=ニグラスを追放しようと焦っているのが目に浮かぶようだ。
フィリップは普通にヒトの姿を象った状態で招来されると思っていたのだが、どうにもおかしい。まぁ最悪、千の仔孕みし森の黒山羊と称される化身、見るだけで精神がぐちゃぐちゃに崩れるような悍ましい姿で来るかもな、くらいの懸念はしていたが、これはそれ以上だ。
というか、何をどうやったら外神の真体を引き出せるのか聞きたいくらいだ。大昔、それこそ唯一神が存在する以前に起こった、旧神対旧支配者対外神の大戦争。あの時でさえ、彼ら外神は化身を用いて戦争に臨み、旧支配者も旧神も纏めて冷笑するだけの戦力差があった。
「どうして……」
それが何故、たかが落とし子一匹、それもこんな辺境の惑星の覇者にすらなれないような劣等個体を相手に、真体を引っ提げてきているんだ?
ヨグ=ソトースとシュブ=ニグラス。二柱の間には隔絶した力の差がある。正面衝突したとしても、難なくヨグ=ソトースが勝つだろう。
ただ、いま彼はリソースの大半を世界の保護に割いている。世界が崩れず、フィリップとその守る対象が傷付かないように細心の注意を払い、そのうえシュブ=ニグラスの存在の一欠片すらこの宇宙に入れさせないように押しとどめている。いくら何でも不利だった。
かちかちと歯の鳴る音がやけに大きく聞こえる。
それもその筈で、眼前で理解できない強大なものが顕現しようとしているルキアと、その存在の偉大さを知るが故に畏怖する黒山羊、そして予想をぶっちぎる張り切り具合を目にしたフィリップ。この場の全員が一様に身体を震わせ、歯の根が合わなくなっている。
数十秒の攻防を経て、漸くヨグ=ソトースの制止に気付いたのか、化身を送り込む方向にシフトする。
新月から一条の闇が差す。黒い光という物理的に在り得ないはずのそれは、明度がゼロでありながら、フィリップの網膜を強烈に焼く眩しさだった。
空間から粘度を持った影が滴り落ちる。
先ほどの世界を軋ませるようなものとは違う、もっと生物的で、生理的嫌悪感を催させる湿った音が耳に障る。
「く、そっ……!!」
普段のフィリップなら絶対に口にしない、品の無い罵倒。
宛先は現状と、思い通りに動かない身体だ。これから現れるものを、ルキアには決して見せてはいけない。今までの矮小な黒山羊や顕現の予兆とは訳が違う、本物の邪神だ。見れば精神がグズグズに腐り果てる。
立ち上がり、ルキアの前に立ち塞がる──のがベストだったのだが、麻痺の残る身体は言うことを聞かず、ルキアを押し倒してしまう。
仰向けに倒れ込み、困惑したようにフィリップを見つめるルキアの目を閉じさせ、耳を塞ぐ。両手の枷のせいで抱き締めるような形になったが、知覚の大部分はマスクできたはずだ。嗅覚も……まぁ、だいぶ汗臭いだろうが、我慢して貰おう。
ルキアを押し倒し、強く抱きしめたフィリップの背後で、余人には決して見せてはいけない変化が起こっていた。
爛れ、泡立ち、光を呑み込む色の雲が立ち込める。その中に無数に蠢く眼球は、全ての視線をフィリップへと注いでいた。
蠢きのたうつ黒い触手が複雑に絡み合い、翼のように、抱擁するように広がる。見上げるほどの巨大な体躯に釣り合わない、蹄のある二対の短い脚が地面を踏み締めると、芝や低木が一斉に成長し、枯れ、落ちた種が新たに萌芽する。木々は枯れて朽ち、辺りには得も言われぬ臭気が漂った。
「■■■■■?」
およそ人の、いや、この世に在ってはならない邪悪な言葉が発される。
その宛先は守護対象であるフィリップか、はたまた召喚者であり落とし子でもある黒山羊か。
ちらりと振り返り、その威容に顔を引き攣らせる。
知識として、シュブ=ニグラスの化身の一つであるこの形態を知ってはいる。だが、こうして正面から相対してみると、やはり──怖い。
知っているし、それに対する恐怖や狂気は奪われている。だが生物的な本能として、自分の何十倍も大きな存在には恐怖を感じるものだ。本性を現した落とし子が8メートルくらいなのに対して、シュブ=ニグラスはいま30~40メートルはある。その存在に対してではなく、そのサイズゆえに、普通に怖い。
「おお、母よ……!」
感涙に咽び、黒山羊がその足元に跪く。
シュブ=ニグラスが一歩を踏み出し──聞くに堪えない音を立てて、落とし子を踏み潰した。
「■■■■■?」
先ほどと同じ発音の邪悪言語が囁かれ、フィリップへと触手が伸ばされる。
その表面を滴る黒い粘液は、落ちた先の芝を変色させ、急成長させ、或いは死滅させている。触られたら即人外化するだろうと簡単に推測できる触手は、ルキアを抱き締めたままのフィリップに触れる寸前で静止する。
ヨグ=ソトースが干渉した形跡はない。
そっと触手が引かれ、その巨躯がバグを起こしたようにブレて消えた。
強大な気配が消失したことを確認し、フィリップはそっと振り返る。
人影がある。
銀髪に、銀の瞳。この世ならざる美貌をヴェールで隠し、妖艶な魅力に溢れる肢体を漆黒の喪服で包んだ女性。
ヴェール越しにも分かる、愛玩の色濃い冷笑。シュブ=ニグラスが普段フィリップに対して見せる化身、マザーが、いつも通りの風情でそこに立っていた。
「ふぅ…………」
深く、この数か月で最も深く、溜息を吐く。
終わった。終末的な意味ではなく、今回の騒動はこれで終結だという意味で。
既に痺れや不快感は無くなっていたが、緊張の緩和による脱力のせいで動きにくい。このまま眠ってしまいたい衝動に駆られるが、腕の中で窮屈そうにしている少女のことを思い出し、唇を噛んで眠気を覚ます。
ルキアを放して立ち上がると、マザーが柔和な微笑を浮かべ、抱擁するように両腕を広げていた。
「久しぶり、フィリップ君」
「……お久しぶりです、マザー」
解放感と脱力感と、その他諸々の感動によって全てがどうでもよくなっていたフィリップは、そのままふらふらとマザーの抱擁に身を任せた。
甘やかに頭を撫でられると、抱擁から感じる懐かしさと温かさにつられ、眠気が再燃する。
駄目だ。これは本当にダメなやつだ。ここで一生過ごせる、人を堕落させとろとろに溶かしてしまう楽園だ──
「フィリップ?」
背後から心配そうな声が聞こえ、慌てて唇を噛む。
痛みによる覚醒は古典的ながら効果的な方法だと何かで読んだのだが、どこぞの森歩き本とは違い、こちらは本当だった。
「……ッ!」
弾かれたようにマザーから距離を取る。
回復魔術を掛けてくれたのか、疲労感や倦怠感はすっきりと無くなっていた。マザーが名残惜しそうに眉尻を下げるのを無視して、フィリップは軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいのよ。もう痛いところはない?」
「はい。……彼女も足を怪我しているので、処置をお願いできますか?」
ルキアを示して言うと、マザーは機嫌よさそうに「えぇ、いいわよ」と頷いた。
マザーと面識のないルキアは困惑も露わにフィリップを見遣るが、フィリップが安心させるように頷くと、大人しく片足を差し出した。
フィリップが真横で見張っているからというわけではないだろうが、権能ではなく現代魔術によって治療を施す。
片足だけが獣化するとか肥大化するといったアクシデントも無く、骨折一歩手前の傷が完治する。それが儀式無しに人間一人が行使できる魔術として妥当かどうかの判断は、現代魔術の知識に乏しいフィリップには下せない。
だがまぁ、納得したように頷くルキアの態度から見て、そう大それたものでは無いのだろう。
フィリップはそう楽観し──
「貴女は神なのですね?」
と、そう問いかけたルキアに、そんな楽観をぶち壊された。
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