誤算

 黄色く色づいた銀杏並木が中心を通り抜ける公園を見下ろしながら、大畑恵介は七十年間の自分の人生を振り返っていた。

 分不相応とまでは言わなくても、十分以上に満足できる人生だったなというのが、率直な恵介の感想だった。

 自分自身でもよく覚えていないほど、平凡な幼少時代を過ごした。地元の和歌山の高校から、東京の実力以上の大学に進学できたのは、その学校の指定校推薦枠に応募したのが恵介だけだったという極めて単純な理由だった。

 推薦が決まったときに、担任が半ば苦笑いを浮かべながらお祝いを言ってくれたところを見る限り、それは誰がどう見ても立派なラッキーパンチだったのだろう。

 大学が人生を決めるわけではない。ただ、大学が人生の選択肢を広げてくれることは事実だろう。大学を卒業した恵介が、一部上場の医療機器メーカーに就職できたのもそうだ。

 恵介が配属されたのは、法人営業を担当する部署だった。

 人間関係に神経質で押しが決して強くない自分は、営業には向いていないと思っていた恵介は、配属先を告げられた瞬間、どこか他人事のように自分の行く末を案じたことを、恵介は今でもはっきりと覚えている。

 実際、不安は杞憂ではなかった。営業マンとしての恵介の毎日は、苦労の連続だった。プレッシャーと気疲れ。端的に言えば、そんな日々だった。

 だがその一方で、営業マンとして、恵介は予想外に評価された。プレッシャーと気疲れは、それだけ自分の仕事に責任感を持って臨み、得意先との関係に気配りをしていることの表れだったからだ。

 評価は恵介の仕事を楽にはしてくれなかった。ただ、何とかやっていけるんじゃないかという、一服の安心感を恵介に与えてくれた。恵介が康子と出会ったのは、そんな矢先だった。

 康子は、得意先で事務の仕事をしていた。やっかいなので有名な調達課長がいる医療機器代理店だった。他の営業マンも迷惑を掛けられていたが、恵介が一番迷惑していた。販売金額が担当の得意先の中で一番大きかった。そして何より、恵介にはついていないことに、厄介者と苦労性という意味で相性が良かった。

 ただ、恵介は誰に対しても気疲れをする分、営業マンとしての毎日を通じてある種の耐性が出来上がっていた。厄介者課長に食らいついていった。食らいついていくしかなかったからだ。そうしたら気に入られた。そして康子を紹介された。

 二年間の交際期間を経て、二人は結婚した。康子との結婚は、恵介の人生を大きく変えた。恵介とは好対照に活発で社交的な康子は、恵介の人生を明るく照らしてくれた。

 子宝には恵まれなかった。だが、充実した家庭生活を送った。康子の支えもあって、それまで以上に仕事も頑張れた。康子を紹介し、仲人まで務めてくれた迷惑調達課長が、その後、迷惑調達取締役にまで上り詰めたのも、恵介にとっては決して小さくない追い風になった。

 57歳の時に、恵介は会社の早期退職制度に手を挙げた。順調な会社員生活を送れていた。ただ、それでもやはり根本的な部分では無理をしていた。そしてそれ以上に、康子と第二の人生を楽しもうと考えた。子供がいなかったので、経済的にも余裕があった。

 会社を退職して、最初にしたのは終の住処探しだった。

 料理やインテリア好きな康子は、昔から自分の理想の住居を持つのが夢だった。それまでにも、何度か家探しをしたことがあった。だがその度に、仕事が忙しくなったり、転勤したりで中断された。

 だが今回は時間があった。住宅情報誌を読んだり、不動産会社の前を通れば窓に貼られたチラシをチェックした。気になった物件があれば二人で現地を訪れて、その町での生活を想像して、あれやこれやと意見を言い合った。

 それは楽しい時間だった。正直、物件が見つかったときには、それが自分たちの条件をすべて満たした完璧な物件であったにも関わらず、恵介も康子も少し寂しい気がしたほどだった。

 見つけたのは公園に面した6階建ての低層マンションの5階だった。建物は築30年の中古物件だったが、作りがしっかりしていたし、新築物件と違って実際の眺望を確認することが出来た。元々は3LDKの間取りを2LDKにリノベーションして、康子の理想通りの広々としたオープンキッチン・リビングダイニングの設計にした。

 この空間で、二人での毎日の食事を満喫し、昔からの友人たちや、この町で新しくできるだろう友人たちを招いて、団らんの時間を持つ。それは、遠い夢などではなく、近い将来に予定された日々であるはずだった。

 誤算だったのは、康子が病魔に冒されてしまったことだった。

 人間ドックで腫瘍が見つかったときには、まだ若く、普段から運動をして体力もある康子だから、病気にも打ち勝つことができると恵介は信じていた。だが、まだ若く、そして体力があったが故に、病気の進行も早かった。

 康子が逝ったのは、マンションのリノベーションが完了する一か月前のことだった。

 葬儀の手配と、新居への引っ越し。悲しみに打ちひしがれる時間もなかった。あまりに多くのことが一度に起きたせいで、恵介にはこの時期の記憶がない。

 気が付けば、二人の終の住処になるはずだった場所で、康子が選んだ家具に囲まれ恵介は一人ぼっちになっていた。二人にはちょうど良いサイズだった間取りは恵介一人で住むには広すぎて、キッチンの引き出しや収納は、恵介が決して使うことのない調理器具で一杯だった。

 恵介の心境を、絶望のどん底に突き落とされたと表現すれば、劇的に過ぎるだろう。ただ寂しく、ただ残念だった。心の真ん中に、ぽっかりと大きな穴が一つ空いてしまったような感じだった。

 それでも恵介は、その町で規則正しい日々を送り始めた。

 朝起きると、公園を散歩した。散歩の途中にパンを買って家に帰る。天気が良い日はベランダで、多めの朝食をゆっくりと時間をかけて取った。朝食が終わると、近所の図書館に行き、お腹が空くまで本を読んだ。

 家に戻ると、窓辺近くのソファで午睡した。夕食は、毎日、一流のレストランからデリバリーしてもらった。食事をしながら高級なワインを飲み、食後は眠気が訪れるまで、ホームシアターで昔の映画を観た。

 誰一人とも交流はなかった。部屋まで配達してもらったことがある、パン屋のアルバイトの女子大生とあいさつを交わすくらいで、康子の亡霊と暮らすような毎日だった。だけど規則正しい、傍から見れば充実しているようにさえ見えるかもしれない日々だった。

 すさんだ生活を送るようになってもおかしくなかった。だが、そうするには恵介は歳を取りすぎていた。康子の分まで、セカンドライフを満喫してやりたいという気持ちもあった。そして何より、康子を失い、この部屋の住人になった時点で恵介には明確なプランがあった。

 お金のことを気にせずに贅沢な生活を送る。そして、お金が尽きれば、康子の後を追う。それが恵介のプランだった。

 大した趣味もなければ、贅沢も知らない恵介には、人生を賭けて蓄えた貯金を使い果たすのに10年という時間が必要だった。それでも、遂にその時が来た。このマンションを担保に借りたお金も含め、銀行の口座は空っぽだった。

 空気の澄んだ早朝のベランダに立ち、振り返ってしまえばあっという間の人生を振り返り終えると、恵介はワインセラーに残っていた最後の一本を開けて、ワイングラスになみなみと注いだ。

 睡眠薬を口に含む前に、一口飲んだ。ワインの渋みと果実味が、生を、そして康子との日々を想起させた。

 それから睡眠薬をワインで飲み干すと、恵介はお気に入りだったベランダの椅子に腰をかけ、読みかけていた単行本を読み始めた。単行本が恵介の手から滑り落ちた音を、恵介が耳にすることはなかった。


 目を開けたときに恵介の目の前に立っていたのは、康子ではなく、「熊先生」というあだ名に違いない、大柄でたっぷりの顎髭を貯えた、白衣に身を包んだ40代前半くらいの男性だった。

 ここが天国でも地獄でもないことは確かだった。恵介には、死ねなかったんだという気持ちも、生きているという実感もなかった。ただ、身体が思うように動かなかった。

 もちろん熊先生は恵介が病院に運ばれてきた事情を知っているはずだった。だけど、そのことについて何かを言うつもりはなさそうだった。ただ、見る人をどこか安心させる風貌に、悪戯っぽい笑みを浮かべて熊先生は言った。

「言葉が正しいかどうかは分かりませんが、あなたついてますね。治療後の検査で、胃がんが見つかったんです。ステージゼロの。この病院の最短早期発見記録ですよ」

 熊先生の言葉を噛みしめるように目を閉じた恵介の口から、力なく言葉が漏れた。

「また、誤算だ・・・」

 そんな恵介の様子を見届けると、熊先生は少し首を傾けて言った。

「大畑さん、あなたの誤算は病気に気付かずに、自殺しようとしたことじゃありませんよ」

 意味を図りかねるように熊先生を見返した恵介の耳元に顔を寄せ、そして熊先生は、種明かしするように小さな声で語りかけた。

「あなたの誤算は、あなたがご自身のことを一人ぼっちだと考えたことです。あなたがどうやってこの病院に運ばれてきたか分かりますか?店に来ないことを心配に思ったアルバイトの女の子が、部屋を訪れてあなたを発見したんです」

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