その朝の業

「ちょっとなにすんのよ!!」

 険のある女の声が車内に響き渡ったとき、ドキッとしたのは私だけではなかったはずだ。すぐにあたりを見回すと、少し離れた場所で騒ぎが起きていた。とりあえずは、非難の矛先が自分に向けられたものでなかったことを確認して、ほっとした。

 痴漢の摘発。それはある意味で、私のような中年会社員が日常生活の中で直面する可能性が最も高いリスクだ。

 痴漢が犯罪だということは分かっている。か弱い相手を標的に、声を上げることが難しい状況を利用して、ただ自分の欲求を満たすために犯行に及ぶなど卑劣極まりないと思う。その被害がただ単にその瞬間限りのものでなく、後遺症が続くような精神的な傷を負わすことがあることも理解している。

 私には年頃の娘がいるので、痴漢に対する怒りと恐れは頭の理解だけではなく、リアルな恐怖でもある。実際、娘の高校入学が決まった時には、問題がないか、怪しいやつがいないかを確認するために、年休をとって通学路の電車にラッシュアワー時に乗車したほどだ。

 それでも私が痴漢を男性側のリスクと表現したのは、痴漢が冤罪を生みやすい犯罪であるからだ。もし、自分に身の覚えがなくても、満員電車の中で自分の目の前に立つ女性に痴漢をしたと告発されたら、自分の無実を証明する術はない。そして、痴漢が卑劣な犯罪だからこそ、刑事的な罪が課されることはもちろん、一度痴漢のレッテルを張られてしまうと社会的に抹殺されてしまうことになる。

 家族にも迷惑をかけることになるし、軽蔑されるだろう。最悪だ。実際、私が無実の痴漢の罪で刑務所に入れられ、父親が痴漢の罪で逮捕されたことで学校にも入れなくなったと泣き叫ばれながら娘に面会室のアクリル板越しに絶縁を言い渡されるという夢を見て、嗚咽を漏らしながら夜中に目を覚ましたことがあるほどだ。

 と、それくらい痴漢には真剣に向かい合ってきた私だ、自分に累が及ばないことが分かると、今度は事の成り行きが気になって、人ごみをかき分け現場に近づいていった。満員電車ではあったけれど、当事者の二人を中心に少し距離を取るように円状の空間が出来上がっていて、ことのいきさつをはっきりと見守ることが出来た。そして女を一目見て、私はこれはどちらが被害者か分からない系の痴漢だなと確信した。痴漢を受けたと主張する女が、痴漢を受けるようなタイプには見えなかったのだ。

 三十代前半だろうか女の容姿は客観的に言って魅力的ではなかった。細い目をはじめとして顔のパーツが全体に小さく、小太りな丸顔にそれらのパーツが埋もれていた。髪はボサボサとまではいかずとも、キチンとセットされておらず、そのくせ化粧はやたらと濃かった。服のサイズも合っておらず、紺色のスーツと薄緑のヒールもちぐはぐだった。

 だが、私はそう言った女の容姿を見て、冤罪の烙印を押したのではない。私がその結論に達した理由は、女の雰囲気だ。先ほども言ったが痴漢は卑劣な犯罪だ。そしてそんな卑劣な痴漢犯は抵抗することがなさそうな、あるいは声を上げることが出来なさそうな獲物を物色するものだろう。

 ところが私の視線の先で大声をあげている女は、一目でとてもそんな弱いタイプに見えなかった。とても強そうに見えた。もっとはっきり言えば、どこにでもたまにいるトラブルメーカーに見えたのだ。ある意味で神経質になっているだろう、痴漢犯がそんな女に触手を伸ばすだろうか?

 もちろん、それは私の偏見に満ちた私見だ。だけどそれが、女を一目見て私が感じた正直な感想だった。そして、次にもう一方の当事者である男性に目をやって、私は同情の念を禁じずにはいられなかった。

 女性の糾弾を受けそこに立ち尽くしていたのは、いかにも真面目そうな大学を卒業したばかりくらいの若者だった。彼の容姿についても述べれば、あまり特徴がない顔、中肉中背だったが、髪の毛はきちんと短くまとめられていた。まだ着慣れていない感じがするスーツも、全くおしゃれな感じではなかったけれど、とにかく清潔だった。

 ところで、私が彼に同情したのは、別に彼がまじめできちんとしていて清潔な感じだったから、痴漢をしそうにないと思ったからではない。エリート官僚や近所でも評判の家族思いのお父さんが痴漢で捕まり罪を認めることだってある。痴漢は性癖の一つなのだろうから、それを見た目の印象で判断することなんてできないのは分かっている。

 私が彼に同情したポイントは二つ。まず一つ目は先述した通り、被害を申し立てている女のトラブルメーカーの雰囲気だ。そして二つ目は、一つ目のそれと見事に一対なくらいに、彼からはトラブルに巻き込まれるオーラが醸し出されていたのだ。

 世の中にはトラブルに巻きもまれやすい人というのがいる。それは外見や性格や社会的なステータスとは関係なく、いわば業のようなものだ。そういった人はわざわざ自分からトラブルの方に寄っていく。いや、トラブルを呼び寄せさえする。そして同時に、トラブルメーカーはそんな彼らの匂いを嗅ぎつける。

 一度トラブルメーカーに遭遇してしまうと、彼らは、蛇ににらまれたカエルのように、抵抗する術もなく捕食されてしまう。ただ単に食されるだけではなく、なぶり食される。彼らは自らの業で捕食者であるトラブルメーカーの腹と業を満たすのだ。

 私は女と若者を一目見て理解したのだ。私が目にしているのは、新たな捕食の場面なのだと。

 実際、女の顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいた。それは、どうみても勇気を振り絞って痴漢を告発した女のそれではなく、格好の獲物を見つけた禽獣のそれだった。

「あんた、私のお尻をずっと触ってたでしょっ!?」

「いえ・・、触ってません」

 二人ともに声が震えてた。だが恐怖の故に声が震えていたのは若者の方で、女性の声はまるで歓喜で震えているように私には聞こえた。

「嘘言わないで!!破廉恥なだけじゃなくて、卑怯な男ね。痴漢が証明するのが難しいからって、逃げ切ろうったって、そうは行かないわよ」

「いえ、同じように、僕がやっていないということを証明するのも難しいですが、僕は本当にやっていません」

 若者は真っ青な顔をして、それでもきちんと女の目を見て話をした。私は感心した。若者は私が一目見て感じたよりもずっとしっかりしていた。だが、そんなある意味の反撃も、女からするといたぶりがいがある玩具を見つけたくらいの感じだったのだろう。女は笑い皺を深めて叫んだ。

「じゃああんた、私が嘘付きだっていうの!!なんで、私が恥ずかしい目にあって、こんな大騒ぎしないといけないのよ!!理由がないでしょ、理由が!!」

 何だか知らないけど鬱憤を晴らしたいからだろ。矛先がこっちに向けられるのが怖くて声には出さなかったが、おそらくその場に居合わせた少なくとも十人が心の中で同じ突っ込みを入れた。

「それは僕には分かりません。でも僕じゃありません」

「分かったわ。そこまで言うなら、出るところに出て決着つけましょうよ」

 出た!出るところに出て決着をつける。一般的な揉め事であれば、それは有効な手段かもしれないが、こと痴漢案件に関しては、出るところに出た時点で男性側は負けなのだ。もちろん、女はそのことが分かってるし、若者がそのことを理解していることも分かっている。ただ、困らせようとしているのだ。

「・・・分かりました。そこまでおっしゃるのなら、僕がどうしてあなたに手を出すことが決してないか、その理由をお話しします」

 そのとき私は、若者が女の容姿を悪く言うと思った。言葉を選ばずに言えば「誰が、お前なんかに手を出すか」だ。だが、それはこのシチュエーションで一番言ってはいけない言葉だった。そしてある意味で、女が若者に言わせようとしている言葉だった。

 止めないといけない。頭ではそう分かっていても身体が動かなかった。そして無情にも若者が口を開いた。

「僕が、あなたに手を出さない理由・・・、それは僕があなたのことを好きだからです。この通勤電車で毎日あなたのことを見かけて、ずっと前からあなたのことが好きでした。だから、だから僕にはあなたを傷つけるような真似だけはできないんです」

「え?」

 え!!?

 若者の言葉に車内が静まり返った。奇策だと思った。女も予想だにしていなかった奇策で来たと。一瞬、あっけにとられた。だがすぐに、そんな奇策が女に通じるわけがない、逆に「馬鹿にしないでよ」と火に油を注ぐようなことになると不安になった。

 で、恐る恐る女を見た。怒りに震えているはずの女を。

 ところがそこにいたのは、先ほどまでとは打って変わって、頬を赤らめてもじもじと下を向く女の姿だった。それはまるで、トラブルメーカーの憑き物が落ちたような豹変ぶりだった。

 そうなってくると、若者の対応が違ったものに見えてきた。さっきは、追い込まれてとっさに口にしてしまった場当たり的な良くない反応と思えていたものが、陰陽師の術のように思えてきた。言われもなき痴漢を疑われた際の唯一の正しい対処法なんじゃないかとさえ思った。

 やるなお主、感嘆の思いで若者に目を向けた。

 ところがそこにいたのは、予定していなかった場面で告白する羽目になり、顔を真っ赤にしてそれでもちらちらと女の反応を気にする、ただの恋する若者の姿だった。

 え?え?どういうこと?本当に好きだったってこと?

 車内にうずまく乗客たちの無数のクエスチョンマークなんてまるでお構いなしに、二人は自分たちだけの世界に入っていった。見つめあい、おずおずと伸ばした若者の手を、恥ずかしそうにでもしっかりと女が握り返した。そして二人は、それぞれの指を絡み合わせた恋人つなぎで、次の駅で電車から降りて行った。

 扉が閉まってから、そこが自分も降りるべき駅だったことに気が付いた。遅刻して部長に怒られた。

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