雨の日の蝉の声

 電車に乗った時には降っていなかった雨が、会社の最寄り駅に着いた時には本降りになっていた。

 天気予報では夕方まで続く曇天のはずだった。不意を衝かれたのは、俺だけではなかったのだろう。鞄から折り畳み傘を取り出したり、取り出した傘を開いたりする人たちで改札を抜けた駅の入口はごった返し、ただでさえ不快度指数の高い月曜日の朝の湿気と熱気が倍増しされていた。

 もちろん俺も嫌だった。ただ、俺の嫌気は別にこの雨に始まったことじゃなかった。むしろ、その場に居合わせた老若男女が一様に、俺のここ数年のユニフォームともいうべき不平面を着用していることが愉快に思えた。

 だからというわけでもないが、集団が移動し、改札口に風が通るようになるまで、少し離れた場所からその様子を眺めていた。俺一人(あるいは俺二十人)が、五分遅く会社に着いたところで、世界はおろか現金立替精算の処理にだって大きな影響はないはずだった。

 ゆっくり改札を抜けたせいで、駅前の赤信号待ちは俺一人だった。

 雨が傘を打った。先週、風の強い日に折り畳み傘が壊れてしまい、週末に新しい傘を買ったばかりだった。前の使い古した折り畳み傘とは、張りが違うのかそれとも素材が違うのか、雨が傘を打つ音がとてもリズミカルで、少し心が弾んだ。傘で視界の遮られた俺の隣で、巨大な熊的な生き物がさらに巨大で猫的なバスを待っているんじゃないかと、そんなことさえ考えた。

 信号が青に変わって、歩き始めた。駅前の信号から国道までは、毎日、とりとめのないことを考えるタイムだ。国道を渡ると自然に仕事モードがオンになり、優秀社員を目指せもしないが、不良社員にもなり切れない俺の新しいワーキングデイが始まることになる。

 毎日のとりとめのないことのテーマには、統一性も気づきもない。国道を渡りきるころには、それどころか横断歩道の二本目の白線を踏むころには、覚えてすらいないことがほとんどだ。真にとりとめがないというのはそういうことなのだろう。あるいは、小学校の三年生の時に、誰に命ぜられたわけでもないのに自分で自分に勝手にかけた、横断歩道は白線しか踏まないという呪縛に精神を集中しすぎているせいなのかもしれない。

 というわけで、その日とりとめ無く何かを考えながら歩いていた時の記憶がない。記憶が戻るのは、国道の少し手前にある神社の前を通りかかったときだ。雨の中に浮かぶ赤い鳥居を目にしたのは、そのきっかけではなく結果だった。きっかけは蝉の鳴き声だった。

 蝉の鳴き声が聞こえた。蝉の鳴き声が聞こえたことで、浅いというか浅はかな思考の底から我に返った。雨の中に浮かぶ赤い鳥居を目にした。それと同時に、雨が傘を打つ音も帰ってきた。雨が傘を打つ音をバックに、蝉の鳴き声を聞くのは、まるでドラムとピアノの即興を聞いているようだった。

 その時、二つの異なる感情を覚えた。

 一つは、強い酒が飲みたいなという願望。そしてもう一つは、雨の日も蝉は鳴くんだという驚きだった。

 前者は多分、雨音との蝉の鳴き声のセッションが、たまに通うジャズバーを思い出させたからだ。あるいは、ただ単に、それが月曜日の朝だったからかもしれない。

 後者が、雨音と蝉の鳴き声のセッションによってもたされたことは間違いなかった。四十歳を過ぎて三年ほどたったその日、その瞬間まで、雨の日に蝉は鳴かないと勝手に思い込んでいた。どうしてだろう?俺が蝉に対して乾燥したイメージを持っているから、無意識のうちに蝉の声と雨音を切り離していたのだろうか?

 理由ははっきりとしなかった。だが、新品の傘の下で雨音と蝉の声に包まれていると、雨の日にセミが鳴いていることが、至極当然のことのように思えてきた。

 自分の当たり前を問われる場面。以前にもあった似たような場面を思い出してしまいそうな、嫌な予感がした。というか、嫌な予感がした時点で厳密には、すでに思い出しているのだ。ほら、あの抑え込んでいると言うより感情を失ったような口調も、俺を責めているわけではないのに、俺が不幸にしてしまったことを体現しているようなあの表情も。

「あなたは、当たり前のことに気付かず、当たり前でないことを当たり前だと考える」

 十年近く二人で一緒に暮らした部屋で、使い古された食卓を挟み、離婚する最後の日に嫁さんが言った言葉。その短い一文の中には俺の独善的な性格や、夫婦生活を続けていく上で不可欠な感謝の気持ちの決定的な不足が極めて端的に指摘されていたが、それ以上に俺という人間の本質的な欠陥が言い表されているように思えて、その謎は俺がいつの日か向き合わなければならない俺のタブーになっていた。

 そんな重苦しいネタを、月曜日の朝から思い出した。小学校三年生以来三十年近く(結局あの日の俺はそのルールと引き換えにどんな願いや呪いをかけたのかさっぱり思い出せなくても)、頑なに回避してきた横断歩道の黒線も踏んだ(はずだ、全く意識せずに横断歩道を渡ったのだから)。

 会社に着くと、いつもなら間違って持って帰られるのが嫌で事務所の傘立てを使っているのに、忌々しい傘を入口のところの共用傘立てに乱暴に突っ込んだ。こんな傘、無くなってしまえばいい。帰りの雨でずぶ濡れになれば、このクソのような気持も少しは洗い流されるだろう。そんな、やけくそな気分だった。

 いつもと変わらない平坦な挨拶を交わしながら自分の席に着くと、PCを立ち上げて仕事を開始した。仕事の開始が5分遅れた分、いつもよりやることが多かった。それも何故か、5分分以上に多かった。煩わしさを感じるかと思ったら、何故かほっとした。

 結局、いつも通りのペースに戻ったのは昼休みの少し前だった。次の仕事を始めるには中途半端な時間だった。インターネットのブラウザーを立ち上げ、「雨の日の蝉」と打ち込んだ。正確には「雨の日の蝉は鳴く?」と打とうとした。検索候補に「雨の日の蝉は鳴かない」が出た。慌てて、カーソルをそっちに移動させクリックした。

 すると、雨の日に蝉が鳴かない理由についていくつものサイトが表示された。いくつかのサイトを開いた。何個かの説が紹介されていたが、要は蝉の鳴き声のツールである羽が濡れることで、飛べなくなったり求愛行動が出来なくなることを恐れて、雨に日に蝉は鳴かないということだった。

 実際さっきの神社では雨の日に蝉が鳴いていたわけだから、もちろん状況にはよるのだろうけれど、今まで俺が蝉の鳴き声に気が付かなかったのもある意味、俺のセンサーの不備にだけよるものではないようだった。

 なんか嬉しかった。凹みが大きかった分、その反動で気持ちが大きくなった。

 気が付けば、別れた嫁さんに、今まで出したことのないメールを出していた。時候の挨拶を除けば、ほとんど一行だけのメールに俺はこう書いた。

「今朝、たまたま雨の中で蝉が鳴いているのを聞き、あなたのことを思い出しました」

 メールとは何かを伝えたかったり、何らかの返信を期待して出すものだ。でも、そのどっちもないメールだった。いや、ひょっとしたらあったのかもしれないが、俺自身がそれが何なのか分からなかった。

 クーラーのきいた事務所の中からは、雨の音も蝉の鳴き声も聞こえず、あの神社の前の出来事が本当に起こったことなのかすらはっきりしなかった。外に飛び出してそれを確認したい衝動にかられたが、その衝動は抑えられたというより、自然に俺の中のどこかに飲み込まれていった。そして俺はそのまま食堂に向かい、ほうれんそうのお浸しとカレーライスを食べた。

 それから二週間が経ち、蝉の季節は終わろうとしている。

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