第6話 忘れ鬼

 大きな事典を膝に乗せたまま、うとうとしていた角無し鬼はフッと目を覚ました。

 相変わらず、ふたつの扉とふたつのソファに黒テーブルしか置かれていない白い部屋だが、なにかいつもと違う気配があった。

 角無し鬼は首を伸ばし、ソファの背もたれ越しに冥界側めいかいがわの扉を見た。

「あれ?」

 小さな存在が、冥界側の扉から近付いている。

 黒テーブルを中央に、同じ形のソファがふたつ。左右の壁にも同じ形の、絵のない額縁が飾られている。寝ぼけてソファを間違えたろうか。

 前後の扉を見比べながら、

「うん。やっぱりこっちは冥界側だ」

 と、頷き、角無し鬼は立ち上がった。

 近付く気配は次第に駆け足になっていた。

「いっ、入れて下さい」

 小さな声が聞こえた。

 角無し鬼が冥界側の扉を開けると、青色の少年が懺悔室ざんげしつの中へ飛び込んで来た。

 目をパチパチさせる角無し鬼に顔も向けず、少年はすぐに扉を閉めた。背中で扉を押さえるように向き直り、少年は角無し鬼を見上げた。

 なにかに怯えたような面持ちの少年に、角無し鬼はにっこりと笑みを見せた。

「こっちの扉が開くのは珍しいな」

「すみません……」

 白い大きなかぼちゃパンツだけを身に付けた少年だ。

 青と水色が斑になった肌の色をしている。額の上部にある小さな白いつのが、青い前髪を左右に分けている。角無し鬼も小さな鬼だが、青色の少年は角無し鬼よりも頭ふたつ分小柄だった。

「――君はもしかして、地獄の刑鬼けいき?」

 と、角無し鬼が尋ねると、少年は小さく頷き、

「僕はわすおにです。追われているんです。匿ってもらえませんか」

 と、息を切らせて言う。ずいぶんと消耗している様子で、角無し鬼にすがり付いてくる。

 すぐに懺悔室へ近付くもうひとつの気配を感じ取り、角無し鬼は、

「いいよ。こっちへ」

 と、忘れ鬼という少年の手を引いた。

 先ほどまで額縁の掛けられていた横壁に、小さな木戸が現れていた。木戸を開けるとベッドの置かれた小部屋がある。

「大人しくしておいで」

 すぐに戸を閉めると、木戸は消えて元の白壁に戻った。念のため、事典のたっぷりと詰まった書棚を左右の壁に敷き詰めた。

 これでひと安心と角無し鬼がひと息吐いた時、ゴツゴツと、冥界側の扉から硬いノックが聞こえた。

 ごくりと息を飲み、なんでもない顔を作ってから角無し鬼は冥界側の扉を開けた。

「こっちの扉が開くのは珍しいな」

 と、先程と同じセリフを言った。

 扉の向こうには、岩のようにゴツゴツした真っ黒い大鬼おおおにが立っていた。

 忘れ鬼を追って来たらしい鬼は、地獄の理を守る囚獄鬼ひとえおにだ。扉よりもずっと大きな鬼だが、体を縮めて入って来た。

 人の顔とは違い、頭の左右に大きな目が飛び出すように付いている。顔の中央には大きな鷲鼻と裂けた口があり、左右の眼はギョロギョロと部屋の中を見回している。頭が天井に届き、身を屈めながら左右の目で角無し鬼を見下ろした。

「この近くを子鬼が通らなかったか」

 裂けた口を薄く開け、野太い声が言った。

 角無し鬼も鬼なのだが、囚獄鬼の恐ろしい形相に足がすくみそうになる。必死に平静を繕い、

「ここは冥界に向かう死人しびとが通る場所です。それに、誰かが近くを通っても僕にはわからないんです」

 と、答えた。

「そうか。この辺りへ向かったと思ったんだが」

「どんな子鬼を探しているんですか」

「死んだことを忘れさせて生きてるつもりにさせた人間に、他人への悪行をその身に同じように与えるって場所がある。そこで、死人から死んだことを忘れさせる忘れ鬼ってぇ刑鬼がいるんだけどな。一匹、ふらりと逃げ出しちまったんだ」

 言いながら囚獄鬼はわずかに横を向き、半球のように突き出た右目で角無し鬼を見下ろした。スープカップよりも大きな黒い瞳は、角無し鬼の頭の中を見透かしてしまいそうだった。

「刑鬼って、たくさん居るんじゃないんですか?」

 声が震えそうになりながらも、角無し鬼は聞いてみる。

「忘れ鬼は死人ひとりに一匹付くもんなんだが、数が足りねぇんだよ」

「それは、困りましたね」

「この辺りには、ここの他に何がある?」

人界じんかいへ繋がる空間ならたくさんあります。冥界や獄界ごくかいに繋がる道も近くに何カ所かありますが、他には何もありません」

 角無し鬼が答えると、囚獄鬼は大きな溜息を吐き出した。重苦しく生温かい息が角無し鬼に覆い被さった。

「人界を探し回るのは嫌だな。人界へ繋がる空間が開くのはわかるのか?」

「通るのが死人ならわかりますが、刑鬼だとどうかな。あまり小さいとわからないかも知れません」

「そうか……わかった。邪魔したな。もし刑鬼が人界への空間を通るのがわかったら知らせてくれ」

「わかりました」

 もう一度、窮屈そうに扉を潜り、囚獄鬼は懺悔室から離れて行った。

 すぐに扉を閉めると、腰が抜けそうになるのを我慢して角無し鬼はソファに座り込んだ。

「あぁ、怖かった……行ってしまったよ」

 左右の壁から書棚は消えていた。小さな木戸が現れ、忘れ鬼が顔を出す。

「……嘘を吐かせて、ごめんなさい」

 小さな忘れ鬼は、頬を濡らして泣いてしまっていた。角無し鬼は立って行き、

「良いんだよ。おいで。話を聞かせて」

 と、忘れ鬼の背を撫でた。

 いつも自分が座っているソファに、忘れ鬼と並んで腰掛けた。

 黒テーブルが柔らかな綿のハンカチを出してくれた。角無し鬼は忘れ鬼にハンカチを持たせてやり、

「僕は、この懺悔室の角無し鬼だよ。どうして地獄を抜けだして来たの?」

 と、聞いた。数度しゃくり上げてから忘れ鬼は、

「大切なことを、忘れてしまったんです」

 と、答えた。

「大切なこと?」

「大切なことがあったのだけは覚えているんです。でも囚人から死の記憶を忘れさせる時に、勢い余って……」

「自分の大切なことまで忘れてしまったの?」

 忘れ鬼は大粒の涙を落して何度も頷いた。小さな両手にハンカチを握り締めて、

「僕たちは、新しい囚人が来るまで休めるんです。その時、大切なことが出来たんです。僕の役目は一時的に忘れさせるだけだから、人間から忘れさせた記憶はちゃんと取ってあります……だから僕の大切なことの記憶も、どこかに落っこちてしまったんじゃないかと思って」

 と、話す。

「それで探しに来たんだね」

 青い髪を撫でてやりながら、角無し鬼は優しく言った。

 忘れ鬼は、ハンカチで涙を擦った。

「あちこち探したんです。でも、刑を執行しながらだとあんまり探せなくて、何かを忘れてしまってることすら忘れてしまいそうで……逃げて来ちゃったんです」

「人間の記憶は、どうやって取っておくの?」

「記憶は体から出しちゃうと形を保てないんです。だから小さい壺に入れておくんです。でも僕の記憶はどの壺にも無くて……穴や窪みも探したんですけど」

「穴や窪みかぁ」

「まさか、消えちゃったのかな……」

 と、顔をくしゃくしゃにして、拭った涙がまた溢れ出してしまう。

 角無し鬼は指先でそっと、涙の流れる忘れ鬼の頬を撫でてやった。

 少し考えてから角無し鬼は、

「君にとって大切な記憶なら、記憶にとっても君が大切なんじゃないかな」

 と、言った。

「記憶にとっても……?」

 泣き腫れて青黒くなってしまった目元で、忘れ鬼は角無し鬼を見詰めた。

「間違って落っこちちゃったとしても、君から遠くへは行かないと思うんだよ」

「近くも探したけど――」

「君の中は探した?」

「僕の中?」

「僕にはね、忘れられた記憶も見抜く目がある。君の中には、とっても大切なものがあるみたいだよ?」

 角無し鬼が言うと、忘れ鬼は胸やお腹を撫でてみながら、

「えっ、どこにあるんですか?」

 と、目をきょときょとさせる。

 角無し鬼はソファから下りて膝をつき、忘れ鬼の体を見上げた。

「うーん、場所までは……君に心臓はある?」

「――はい。お腹の真ん中に」

 角無し鬼は手を伸ばして、忘れ鬼の腹部に手の平を当てた。

「あ。見付けたよ、小さな記憶」

 手を当ててすぐに、角無し鬼が言った。

「えっ、心臓の中に?」

 目を丸くして忘れ鬼は、自分の腹部と角無し鬼の顔を交互に見下ろした。

 角無し鬼は優しい笑みを見せ、忘れ鬼の腹部に当てた手をゆっくりとずらした。

 その手は胸の中央を通り、首の横を通り、忘れ鬼の後頭部へ移動した。

「どうかな」

 不安げに角無し鬼を見詰めていた忘れ鬼は、なにか気付いたように目をパチパチさせた。

「あ……あっ!」

 忘れ鬼は、両手を頭に当てた。

「見付かった?」

「見付かった――思い出せた!」

 忘れ鬼は立ち上がり、跳び上がった。角無し鬼も腰を浮かせ、ソファに座り直す。

「凄いっ! 凄いです、角無し鬼さん」

「はずみで落っこちちゃったんだね。君の心臓を壺の代わりにしていたんだよ」

 ぴょこぴょこと跳ねてから、忘れ鬼はポンとソファへ戻った。

「友だちと、僕たちだけの合言葉を決めたんです」

「合言葉?」

「僕たちは名前を持っていないから。見れば相手がどの忘れ鬼なのかはわかるけど、それを伝い合える何かが欲しかったんです」

「そっか」

「良かった……消えてなかったんだ」

 青い瞳をキラキラさせ、忘れ鬼は幼い笑顔で腹部を撫でている。角無し鬼は、忘れ鬼の頬に残った涙を撫でてやった。

「人間はね、頭が忘れても心は覚えてるなんて言うんだよ。大切な記憶は、記憶自身が大切だと思うなら、記憶の持ち主が忘れても決して消えたりはしないと思うんだ」

「記憶自身が意識をもっているの?」

「そんな大層なものじゃないよ。消えるべきか残るべきか、ちゃんとわかってるってことだよ」

「そっか。僕が大切なことは記憶も大切に思うくらい、本当に大切なことなんですね」

「そうだよ。ちゃんと、ここに残っていたからね」

 と、角無し鬼は忘れ鬼の腹部を指差した。

 にこにこっと笑って、忘れ鬼はソファから下りた。

「ありがとう、角無し鬼さん。ここは人間の場所なのに……」

「そんなことはないんだよ。見付かって良かったね。あとは、囚獄鬼に怒られないと良いけど」

 角無し鬼も立ち上がり、忘れ鬼の背を促した。

「はい。囚獄鬼さんに謝りに行って来ます」

「うん。僕も一緒に行ってあげたいけど、ここからは出られないんだ」

「大丈夫です。本当に、ありがとうございました」

「どういたしまして。気を付けて行くんだよ」

「はい!」

 ペコっとお辞儀をして、忘れ鬼は冥界側の扉を開けた。白い空間を見回すと、すぐに帰り道を見付けて地獄へと戻って行った。


 忘れ鬼が去ってから、逝き悩む死者がふたり懺悔室を通って行った。

 死者の話を聞いている間も、角無し鬼は今にも囚獄鬼が乗り込んで来るのではないかと気が気でなかったのだ。

「あの子は怒られなかったかな……怒られたろうなぁ。あんなに小さいんだから、ぶたれたりしてないと良いけど」

 落ち着けない角無し鬼に、黒テーブルがホットココアやキャンディを出してくれている。

 カラフルなキャンディの山に、忘れ鬼の瞳に似た青い包み紙のキャンディがあった。

 角無し鬼は青い包みのキャンディを摘んだ。手の上に転がして眺めていると、キラキラとした忘れ鬼の瞳を思い出す。

 やっと角無し鬼は笑顔になったが、どこからかゴツゴツとした足音が聞こえてしまった。

「――来た」

 横壁に現れた木戸へ駆け寄ったが、寸分早く、冥界側の扉が開け放たれた。

 扉の向こうは白い空間のはずが真っ黒に覆われている。ぎゅっと体を縮めて、黒い岩肌の囚獄鬼が入って来た。

「あっ、あの――」

 後ずさる角無し鬼の腕を捕まえてしまい、囚獄鬼は懺悔室の中でむくむくと体を膨らませた。天井近くから大きな目で角無し鬼を見下ろし、

「おめぇ、囚獄鬼に嘘を吐くってのがどういうことか、わかってるのかぇ?」

 と、ガラガラ声を響かせた。

「ごっ、ごめんなさいっ」

 囚獄鬼は片腕を振り上げた。

 角無し鬼はぎょっとして身をすくめた。片腕を掴まれ、もう片方の腕で顔を覆う。

「……」

 しかし、少々間を置いても衝撃はない。

 角無し鬼は、ぎゅっと閉じていた目を片方だけ薄く開けてみた。

 囚獄鬼は目が合うと苦笑して見せ、腕を降ろして角無し鬼の頭を撫でた。

「え……」

 不覚にも、目に涙が溜まっている。

「刑鬼共が何事も無く、役目を果たせるようにしといてやるのも俺の役目なんだが、忘れ鬼の悩みとやらには力不足だったようだな。んなもん、滅多にねぇからよ」

「……すみません」

 どうやら、ぶたれずに済むらしい。

 囚獄鬼は掴んでいた腕を離し、角無し鬼の頭を撫でる。

 いや、このままギュッとされたら、頭が潰れてしまうのではないか?

 プルプルと震えてしまう角無し鬼の頭を、囚獄鬼はポンポンと軽く撫でている。

「借りが出来ちまったが、お前も俺に嘘を吐いたからチャラだな」

 野太い声に笑いが含まれた。恐る恐る大きな瞳を見上げ、

「すみません」

 と、角無し鬼は、もう一度謝った。

 岩肌の太い指が、柔らかい物にでも触れるように角無し鬼の頭を捕まえている。

「便利な部屋だな。忘れ鬼が隠れてたっつう、小部屋を見せてみろよ」

 少々楽しげに囚獄鬼が言うと、横壁はすぐに木戸を開けた。懺悔室よりも小さく、子どもサイズのベッドがひとつ置かれている。

 囚獄鬼は腰を曲げて小部屋を覗き、

「他の囚獄鬼には黙っててやる。これは、お前の寝床か?」

 と、なにか面白そうに聞いてきた。

「僕の手に負えないような、強い死人が来てしまった時に逃げ込む部屋です」

「なるほど」

 ぐりぐりと角無し鬼の頭を撫で、

「本当に角がねぇな」

 と、囚獄鬼が言う。

「角無し鬼ですから」

「そうだな」

 もう一度撫で回し、囚獄鬼は角無し鬼の頭から手を離した。

 やっと軽くなった顔を上げ、角無し鬼は、

「あの子は、どうしてます?」

 と、聞いてみた。

「元気に仕事してるぜ」

 と、囚獄鬼が言うので、角無し鬼は安心して笑みを見せた。

「それは良かった。逃げ出した罰は?」

「しばらく第一走者だ」

「第一走者?」

「順番に仕事を回されるんじゃなくて、ひとつの刑が終わったら次に来た囚人はあいつが受ける。休み無く働くってことだ」

「疲れちゃいますね」

「気張って仕事してるから、良いんじゃねぇか」

「そうですか」

 角無し鬼の笑顔に、囚獄鬼の裂けた口もにんまりと笑い、

「世話掛けたな」

 と、冥界側の扉に顔を向けた。

「いえ……嘘を吐いて、すみませんでした」

 ぎゅーっと体を押し込んで扉を潜り抜けてから、

「いや。もし、また刑鬼が逃げて来たら話を聞いてやってくれ。でも居るんなら正直に言えよ。話をさせる間くらい待ってやれる」

 と、囚獄鬼は言った。

「わかりました」

 苦笑する角無し鬼に、囚獄鬼は鋭い牙を見せてニヤリと笑い、

「追って来た囚獄鬼が短気な奴だったら、お前も喰われちまうからな」

 と、言って、脅かしてきた。角無し鬼は口をすぼめ、

「はい……」

 と、頷いておいた。

「邪魔したな」

 そう言って白い空間へ飛び出し、大きな黒い体は白色の宙へと消えて行った。

 ゆっくりと扉を閉めた角無し鬼は、ドアノブにすがりつくようにへなへなと膝を落としていた。

「良かった、ぶたれなかった……でも、怖かった……怖かったぁ」

 ココアの香りを膨らませ、黒テーブルが呼んでいる。

「怖かったんだもん」

 もう一度呟いてから、角無し鬼はぺたぺたと四つん這いでソファに戻った。ソファの中へ沈むように縮こまってしまい、

「嫌な囚獄鬼じゃなくて良かった。でも、大きくて強くて真っ黒で、威圧がすごく怖かった――」

 と、足先をバタバタさせる。

 黒テーブルの上のキャンディは、全て青い包み紙に変わっていた。

 角無し鬼はキャンディをひと粒摘み、

「たくさん居る刑鬼の中のひとりだって、大切なことや忘れたくないことがあるよ。僕だって同じだもの」

 そう言って包みを開き、キャンディを口に入れた。

 ソーダ味のキャンディだ。口の中で転がしながら、

「美味しい。あの子の大切なことが守れて良かった」

 と、呟いた。

「でも、やっぱり地獄の人たちは怖いね。僕は死人相手が合ってるよ」

 安心から震えだす角無し鬼を、灰色のソファが抱き込むように支えてくれていた。

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