白 髪 (しらかみ)
昔、奈良の方に、定道という若侍がおった。歳は十八ばかりであったが、幼くして父母に死に别れ、叔父にひきとられて暮しておった。定道は頭も良く、武芸にも勝れ、人柄も人に好かれる質であったので、誰からも可愛がられて、二人の従兄弟とも、まったく同じあつかいを受けて、楽しまぬ日はなかった。
丁度、八月の一日が、亡父の祥月命日とあって、朝一番に家を出て、広安寺の住職の朝参りに合わせようと、道を急いでいた。広安寺は一里も離れてはおらず、遠い道のりではなかったが、この日は、裏の林をぬけて近道をしておった。そこには、さほど大きくない湖があり、まだ霞も深かった。定道は清々しい朝露を踏んで急いだ。と、広安寺の塔も林の上に眺められた頃。
「もし、お侍さん、お侍さん」
という女の声が後ろから聞こえて来た。定道はとっさにも、あっけにとられて振り返って見れば、随分と見なれぬ娘が、にっこりと笑って立っておった。髪も肌も、その目の黒いのを残しては、全てが白いのであった。その娘が、くれないや
「お侍さん。花を持ってはいかないの、お寺に行くのでしょう」
と、変らず人なつこい笑顔で花と定道の顔を交互に見て言うた。その唇の小さくて、ぽっと少しばかり赤らんだのが、何ともいえず愛らしい。十三か四程に見えた。
「お侍さん。急がないと、おしょうさん、朝参り、すませてしまうのでしょ」
と娘がころころ笑うた。定道は娘が胸におしあててくる花を取ると、急いで寺へかけた。寺に入る最後の辻で、林に深んだ湖の隅を振り返ったが、娘はもういなかった。
本堂に入ると、住職がどうやら定道を待っておったらしく、
「親の命日忘れたか、たわけが」
と言うなり、お参りをはじめた。定道はわけがわけなので、少々頬が熱くなるような気がしておった。お参りがすむと、住職は珍しく、定道に
「これ、花をつんだのはお前か」
と住職が、奥へひきながら声をかけた。見ればなる程、さっきの花が、散らばって縁にある。定道は小坊主をよんで、一日生花をそなえさせてもらうから、夕方にはひいてくれるようにと、丁寧に頼んだ。帰りに少しばかり気が咎めたが、又林を通った。娘の姿は、どこにもなかった。
家へ着き、大戸口を入ると、もう中はざわついて、朝の食事の仕度が、次々に運ばれておった。奥から叔父の声がして、急いで居間に上ると、
「おお、寺に参って来たのか。それは良かった。わしも後程まいろう。さあ、早く飯にした方が良かろう」
と優しく声をかけてくれる。
その日、定道は、二つ年上の従兄である
「ふむ。そういう者の話は一度聞いたことがある。生まれた時から、黒いはずの髮は白く、肌の色は、白いというより、ついてなく、そのまま育って大きくなっても、只一面、白いうぶ毛の立つばかりのようらしい。私は話には聞くが見たことが無い。なんでも、これから、ずっと離れた村でも、それのような赤児が生まれたが、いつになっても髪の黒くなる見とおしがつかぬので、親はしのんで捨て児したらしい。可哀想だが、そんな話だったようだ」
定道は話を聞いて、急にあの娘のことが哀れに思われた。はたして、捨てられたか否かは知らず、人目をはばかるに違いはない。自分のように、親はいなくとも、このように可愛がられ、ひきたてられて、何不自由なく暮しておるものを、親がおってさえ、生まれの違うばかりに、そのような事があろうとは、思いもしなかったのである。
その夜、定道は、普段よりおそく迄、
定道の寝間は、継秀の寝間と壁ひとつの同棟で、居間や座敷に寝入る、他の者とは別棟にしつらえてあった。
月も真上に昇った頃、とんとん、とんとん、と障子の腰を叩くものがいる。身をのばして見れば、これは朝のあの娘である。定道の驚きはてていると、
「お侍さん、お部屋に入れて下さい」
と言うたかと思うと、定道の何も言う前に、するりと娘が入って立った。定道がたしなめようとすると、
「はい、お侍さん」
というて、その手に野莓のようなのを出して見せ、又、にっこりと笑った。その髪は良く見れば、他の娘と同じ様に、前は短くして、後ろはひとつにくくって長かった。眉もすんなりと、きれいな三日月に流れておった。定道がまだ、あれこれとまようているばかりの時に、娘は、もうすっかり部屋が気に入ったらしく、行燈の灯など、珍らしいものでも見るようにしている。定道が何か言おうとすると、ひどく子供のような目で見上げるので、さっぱり定道は困り果てた。
「お侍さん、私はもうすこしすれば帰るから、お仕事を続けて下さいまし」
と言って、口の程には帰る様子もない。定道は仕方なく、どうして良いのかわからぬまま経文にとりいった。もののどれ程たったか、ふと後ろを見ると娘はもういなかった。
次の朝、定道は娘のことを、忘れようはずもなかったが、今度は継秀にも昨夜のことは話さずにいた。昼の間は、すっかり娘のことも忘れ、武道に汗し、帰途に着くなり、夕食をすませ、風呂をいただき、寝間に入った。今日は道場で先生にほめてもいただき、そのことですっかり気を良くして、筆を持つ身にも力が入った。月はいつの間にか、真上に、さいさいとその珠衣をよこたえていた。その時、又障子の腰下を、こんこん、こんこんと叩く者がいる。思わず、身をのり出して見れば、案の定、娘である。又もや定道の何とも驚いている隙に、するりと身のこなしも鲜やかに部屋に入った。定道は今日こそはと、心をすえて、娘の顔を見つめると、
「どうしてこんな事をするのだ。家はどこだ」
とたずねた。すると娘は、いつもの笑顔をすっとかきけすと、急にしょんぼりとしてしまった。定道は二度たずねた。すると娘は、あっという隙に、障子戸から消えて、定道が庭を見た時には、もう姿なく、なんの音もなかった。
この様なことがあって、七日程たった。定道はすっかり娘のことなど忘れていた。また二度とは来まいと思っておった。ところが八日目の晚、音もかぼそい雨の降って、吹く風も、草原の香りをうらうらにしのばせる、月も出ぬ夜。定道は変らず灯をともし、書に読みふけっておると、閉ざした障子戸の下を、こんこん、と叩く者がある。ふっと娘のことを思い出して、急いであけると、娘が雨にひどく濡れて、ぽつんと立っている。どうせ、するりと入って来るのだろうと見ていれば、しょんぼりと下をうつ向いたまま立っている。定道も仕方なく、
「はいれ」
と言うと、娘はいつものように、にっこりと笑うと、元気よくするりと部屋に入った。入って来ると、ふところから、赤いもちをひとつ、定道にさし出した。もちは濡れておらなかった。娘は濡れたままの着物で、にこにこして行燈の灯に手をあてておる。定道は自分の長着を出してやり、後ろで着がえるように言うた。娘は大喜びで着がえた。ほっとしたところで、
「お前、家はどこだ」
と聞くと、又、急にしょんぼりとなった。外は雨、これで出すのも哀れに思い、定道は、だまって、文机に向い、書を開いた。雨でもやめば、又帰るであろう、と思った。どれ程かたって、あまり静かなので帰ったと思い、後ろを見ると、あどけない顔をして寝込んでしまっている。寒かったのか、行燈の灯をたよりにぐるりとまいた様な格好で寝人っている。危なげに思い、娘をよんでおこそうとしたが、すっかり寝入っていておきない。仕方なく娘の傍に寄り、肩をゆすると、近づいた定道の顔に、柔らかい、まだ匂ったことのない香りがほっとかがよった。定道は少しあわてて、もう一度声をたてたがいっこう目ざめない。あまり大きな声を出しては、継秀に聞かれまいかと、定道は気の咎める様な心地がしておだやかでない。その内、定道自身もねむけがさして来たので、いろいろと考えるのにもあきが来て、間を少しばかりとって、前後不覚にごろりと横になった。
どれ程たったか、まだあたりは暗かった。さわさわと葉のすれ合う音、虫の泣く声がする。雨はあがったのかと、夢とも現実とも知れぬさかいで、定道は何か柔らかいものを手に憶えた。息づくたびに、その花の香りは、
二度目に定道の目をさまして見た時には、もう娘はおらなかった。赤いもちが文机の上にのっておるばかりで、すでにたかい
その日、定道は一日、少しばかり虚ろに、ぼんやりとしておった。道の行き帰り、継秀はあれこれと詮索したが、定道は喉もとまで昨夜の娘とのことを話しかけたがやめた。継秀はいよいよあやしんだが、定道はいっこう口を開かなかった。日頃から、同僚達のいろいろと、女の話などするのを聞いてはいたが、どうも、昨夜の自分と娘の間の事はわからなかった。夢とは思えなかったが、何と話せば良いのか、皆目見当がつかぬ。おまけに、どこの娘かと聞かれても困る。よくよく思えば名も知らぬ。その上、前のあの娘だと言えば継秀はいよいよ怪しむ様に思われる。ましてや金を渡したというものではない。夢のような事だ。
その夜も、はたして娘はやって来た。定道は、今日一日、いろいろと思い悩んだこともすぐ様忘れ、娘を抱いて寝た。娘は小声で、定道の耳もとに、知っている歌など聞かせた。その声の、鈴虫かなんかのしのんで細く歌うようなのに、定道も驚いた。ほめると、
「お侍さん、明日は又、違う歌をおぼえて来ます」
と囁くのであった。定道の、お侍さんは良くないから、他の呼び方はないかと言うと、
「それでは、旦那さんと呼びます」
と言って娘は笑った。定道は、となりにいる継秀に知られはすまいかという思いが、時折頭をかすめて、耳を澄ましたが、何の物音も気配もなく、月と諸星の慕わしげな光ばかりが、
「お前の名は」
と聞くと、娘は笑って、定道の胸の褥に咎もなく、もぐりいってはぐらかせた。定道は多少ためらう様なことも楽しさの方にうちまかされ、娘の名も曖昧なのがいっこう気にもならず、かえって愉快の種となって寝入ってしまつた。娘はかならず、定道の目覚めると、もうそこにはいなかった。ぼっーと枕に白い陽がすべって、かげろうのように立つと、定道は娘の姿と見まごうて手をのべた。だが、その手の平にはいつも、朝の冷たい風が、露のようにしめるのだった。娘は毎晚同じ頃にやって来た。そのつど、どこから探し求めて来るのか、山の珍らしい食べ物などをみやげにした。一度は、
「旦那さん、何もなかったから」
と言うて、小さな榊の葉のようなのを懐から出して、囁く様に笛を吹いた。まだ少女の奏でる音曲とは思えぬ程の、豊かで、それでいて澄き透った調べは、悲しい秋をひきつれてくる風となって流れた。定道はふと耳もとに笛を聞きながら、いつまでもこうして、忍んでやって来る娘のことが心配になり、名や家の事を問い正したが、吹く草笛もばたりとやめて、急にしょんぼりとなるのであつた。娘は、そのことすら聞きもしなければ、いつもにこにこと笑って一晚中定道を楽しませた。
やがて、半年もたつころ、、、継秀が
「なあ、定道。お前とは、実の兄弟も同じ、同じどころか、弟の秀清とは、歳の五つ差が有って、私には、お前の方が、近しい弟のように思っている」
定道は嬉しさがこみあげて
「本当に、私の様な幸せ者はいない。実の兄ですら貴方の様にはとても、、、誰も持てやしない」
と答えれば、継秀は急に足をおそめて定道をながめた。
「なあ、では定道。私をそれと思ってくれるのなら、お前の身に、毎晚、何があっているのか、私に話してはくれないのか」
定道は驚いて継秀の顔を見た。
「別に私は誰に口外するつもりで言うのではない。只、不思議に思っているばかりだ、、お前のところから毎晚、人と囁くような声や、時折歌が聞こえてくる。そうして、半年近くにもなる。そうではないのか」
と、継秀は足をとめて、定道の目をのぞきこんだ。継秀の目は、弟を心配する兄のそればかりであった。定道はそれにくらべて、自分の足りなさが情けなく思えた。半年もの間、知っておりながら、何ひとつそしらぬふりで、みなし児の自分を、実の弟以上にかばっておってくれたのである。継秀はくわえて言った。
「だが、いらぬ心配なれば、そうだと言ってくれて良い。この半年、お前の体の事など心にかかったが、别にどこも悪くならねば、変らず務めも果す。いや、それどころか以前よりましてお前は元気でいる。実は、それが返って心配なのだ。仮りにお前が誰かに心を奪われて、細りでもするなれば、私は安心して、同僚にもひそかに、酒のついでにでも話したかもしれぬ。ところが、まったくお前は前にもまして元気に務め、剣の腕もますますほめられる程だ、、、なのに、定道。お前の部屋からは、私が何時に目を覚ましても、それが朝白む頃でも、囁く声や戱れる声が間こえてくる。一体、お前はいつ体を休めているのだ。もし、私がお前であったら、とっくにやつれ果てて、務めも満足でなかったろうと思うばかりだ」
継秀のただ、心配ばかりの為に、こうして一切を話してくれるのを聞いては、定道も心から打ちあけねばと、口を開いて、あの
「娘のことには、何ひとつ私の意見めいたことはない。むしろ、うらやましい程だ。只、夜も一夜として、ゆるりと寝るでもなく、日中は日長、走り回っての務めも多い。体ばかりが心配だ。」
「そのことならば、本当に貴方のおっしゃるとおり、以前より力が湧いて出てくるようなのです。それこそ疲れがあっても、たまの休みの日中、しばらく横になる程度で、何事もなく楽しいのです」
定道がそう答えると、二人は顔を見合わせて、互いに心から笑った。
「私のとんでもない思い違いだったのだろう。それならば、心から私も嬉しい」
「本当に心嬉しくって仕方のないのは私です。いよいよ貴方が、実の兄の様に思います。思い違いだなどと、とんでもないことです」
と、おくれた朝の道をとりかえす程に小走りに二人してかけ、大いに笑いあった。
「悪く思うなよ。私は又、何と思い違いしたものか、私はお前が、見たこともない、もののけにでも、とりつかれているのではないかと思っていたのだ」
定道はそれを聞くと、さらにくったくなく、
「いや、そうかもしれませんよ」
と答えて、二人はこの日、陽の昇りきる迄、くすくすと笑いがこみあげてくるのであった。
定道は、娘と、そしてこのかけがえのない兄とを思って、自分の幸せの豊かに色づくのを、秋の穂に霞の
その夜、月はしんしんと、青い夜露に冷やされて、真白き
「いや、いや、そうじゃない。今に又きっと、やって来るでしょう。貴方のせいだなどということだけは、断じて有りはしない。私が貴方に話したことも娘は知らねば、又、それを知ったとしても、貴方は心から私の実の兄、いずれ合わせよう心づもりもあったのですから」
そう継秀をとりなして、今は、こな雪のさらさらと吹き上がる夕暮れの道を、二人して帰途に着いたのであった。
やがて年も明けて、寒の立つ空には、子供達の上げる凧が、あちこちに上った。定道は今日も朝早く、寺へ参ってから勤めに上がろうと、裏林へと足を踏み入れた。少なからず湖が見えると心が痛んだ。あれから娘は一晚も来なかったのである。定道は思い出すまいと、少し下向きに足を早めようとした。すると行く手から、子供の一人二人走り来て、定道にぶつかった。又その向うには三、四人の子供が
「どうしたのだ。こんなに朝早くから」
と言うと、子供の一人が答えた。
「昨日の晚から、この穴に白蛇をとっつめてあるんだ」
見れば、子供の
「これでならとどくぞ」
と二、三人で棒を穴につっこんで蛇をあそんでおるらしい。
「見えた、見えた、まだいるぞ」
と、子供のさわぐ声に定道は身をかがめて見ると、なる程、薄暗い穴の中に、小さな白蛇が、その銀のうろこも、あちこちはがれたらしく、つつかれたらしいところからは、赤い血がしめるように流れている。定道は思わず子供をしかりつけようとした時、一人の子供が
「えい!」
といって、その竹の棒を穴にさしこんだ。子供達はわっといって飛び散った。
「目をさしたぞ!、目をさしたぞ!」
とさわいだ。定道は子供達を無性につかみちらし、
「あっちへいけ!」
と怒鳴り立てた。子供は次々に悪態をついて、坂をかけのぼっていった。定道がその穴の方を見ると、人を怖れるはずの蛇が、しゅるしゅると穴から這い出して来た。その動く様はいかにもおそく、どれ程痛められたかと思う程である。小さな白蛇は、あちこちに血をにじませて、中でもたった今、くりぬかれた左の目から、赤い血の涙を流して、ゆるゆると、定道の足もとを這って湖へゆこうとする。定道はあまりの哀れさに、今は逃げようにも逃げられまい蛇に手をさしのべた。蛇はしなりとその手にかかった。小さな目は、きずついていない右の目からも、涙が
寺に入ると、住職が
「憂かぬ顔じゃな。父上もさぞ気がかりなことじゃろうて」
と言うなり、深い息をしつらえ、変わりもせず経を読みはじめた。住職はお参りを終えると、定道を残したまま奥へ入った。定道は、ぼんやりと立って、寺を出ようとした。すると、一度奥へ入った住職が身をのり出すようにして、
「くよくよいつまでも思いを残すでない。たわけが、今夜にも、その身が知れようて」
と大声で放つと、これも大きな、つくったようなせきをして定道を追いたてた。
定道は、この日務めにもあまり気が入らず、務めを終るとともに、すぐさま走って、林の裏道を通った。湖のあたりは雪がきえず、そのこぼれ陽に白く隠れば、過ぎかけに走りよって、あの蛇を探した。が、見つかるはずもなかった。
その夜、定道は、読みもせぬ書を開いて、ぼんやりと行燈の灯をながめておった。すると、とんとん、とんとんと、障子戸の下を叩く音がする。定道は、息の音もとまらんばかりに飛びおきて、走りよった。すると、
「旦那さん、旦那さん!まって下さいまし」
と、あの懷かしい娘の声が聞こえてくる。定道は今にも戸など砕いて、娘を入れようと心はやった。だが娘は、戸をしっかりと身におさえて開かせない。
「どおしたのだ、一体今迄、なぜ来なかったのだ。早く開け」
と言えば、娘の変わらぬ声のすき透ってくる。
「旦那さん、お願いです。どうか行燈の灯をけして下さい。お願いです。しばらく旅に出ていて、とても疲れて、ひどい姿なんです。お願いです。灯をけして下さいまし、でなければ、このまま私は逃げてしまいます」
と真から切なそうに言う。定道は
「あっ!」
と言って、定道の腹のあたりで苦しそうに丸くなった。定道は驚いて、
「どうしたのだ!」
と叫ぶと、同時に、その手の平を
「お前が、もし、怪我をしているのなら、手当もしよう。お前の名を問うことも、家のことも金輪際、問い正すまい。お前がここにいたいのなれば、朝になってもお前は出てゆくこともない。誰にも知られたくなくば、知れぬ様にしよう。何も私に心配することはない。さあ怪我をしているのなら、早く治した方が良い」
定道は、娘のとりすがる手をといて、その膝元に重ねおいた。娘はいよいよ小さく見えた。いつか聞いた、細い草笛の音をして、ひゅうひゅうと泣き、頭を上げなかった。定道が手をのべて顔をすくうと、娘は観念したのか、定道のするがままになっておった。月の光は、その中に、ほつれた白髪と、つぶれた左の目とを浮き上がらせた。
定道はゆるりと立って、薬を、、と思った。娘はその定道の手をとって、
「旦那さん、大丈夫です。すぐに治ります。どうかここにいて下さい。お願いです。何もかも、お話しします」
と言って、娘は涙をふくと、はずかしそうに、左の目の上に髪を梳きおろし、いつもの笑顔を見せた。定道はなんとしてよいものか迷ったが、その笑顔にひきつけられて、ぼんやりと立ちつくした。
「旦那さん、どうかよかったら、坐って下さいまし」
娘は頭を下げて頼んだ。定道は言われるがままに坐った。娘はもう一度、にこりと笑った。
「旦那さん。とうとう私のことを、知られてしまいましたね。私は旦那さんの思われるとおり、今朝、湖の淵で助けて戴いた、あの蛇でございます」
娘がそういうと、にわかに遠い雷のとどろき、雷光は暗い部屋を白銀に照らし出した。その雷光の中に坐わる娘の姿は、一瞬白く煇き、その光の下に、陰は波のように引き重なり、白く浮かび上ってくる光ばかりが、次第にひとつの形となり、陰にひいた娘の姿の上に、はたしてあの白蛇が、くっきりと浮かび上ったのである。定道の目は、只、芒然と、そこに灼ける様にしばられた。それは娘の姿に、見事に重なり合うて、泣いておったのである。定道は思わず、うっ、と声をきしませた。と遠い雷鳴もきえ、蛇の姿もきえた。
「旦那さん、旦那さん」
娘によばれて、定道は、目が醒めた。そこには、又、娘の姿ばかりが、暗い部屋に、偲んで坐っておるのであった。娘はにこりと笑った。
「旦那さん。驚ろかせて、すみません。これが私の真の姿でございます。さっきまでは、真の姿を知られることが、只、怖ろしいばかりでございました。でも、且邪さんが、私の怪しいことをしっても、なお優しく言うて下さる言葉を聞いて、私もこれ以上、隠れておることが出来なくなり、何もかもお話しする心づもりが出来ました」
この目の前の、変らず自分の抱きつけた娘の口から出る言葉に、定道は只、うつらとして聞くのであった。はたして、察しは心の內にあったとしても、娘と蛇が同体の者であったとしても、定道の心は迷うた。
「旦那さん。今のが私の本性でございます」
「では、、この私の目の前に坐っておる、、お前の、、姿は、、」
「はい。この私は、もう随分と前のことになります。これから、いくらか離れた村に、生まれた娘でございます。けれども御覧のとおり、人にいみ嫌われる生い立ちを持って生まれ、しばらく親元に暮らしましたものの、とうとう親に捨てられました。それが、村にほど遠くないあの湖の傍に捨ておかれたのでございます。親は心のどこかに捨てきれず、あまり遠くまでは、やれなかったのでございましょう。それが、親の後返って見に来ました二日目には、すでに息も少なく、たえだえになっておりましたので、親はいよいよあきらめもつき、泣く泣く後ろも見ずに、走り去りました。その様子を、蛇の私が見ておりました。すると残された赤児から、その魂がぬけきらず、死にもきらずに泣いております。よくよく近づいて見れば、赤児の姿は、何もかもが私を移したものの姿。立ち去りがたく見ますれば、哀れに、その赤児は、何ひとつ、生まれ持った、徳となるものを持ってはおりません。只ひとつ、どうしても叶わぬ願い事を、一度だけ叶える事のできる、願い玉を、赤児は手に握っておりました。その小さな玉をかかげて、赤児は泣いておりました。蛇の私は、一度は、そのままそこを去ろうといたしました。けれども、見れば見る程、我が身にうつしの赤児でございます。その上、たったひとつの願い玉を握るその手も、はや力がつきておることが見られます。たったひとつの願い玉を、そのまま捨てさするには、心が痛み、
定道は只、話の不思議さに亜然とするばかりであった。だがこうして話される言葉も娘の姿なれば、その言葉も信じられて、ちくいち心におさめて、不思議のままに、とけいるのであつた。
「だが、なぜ、この私を」
と問う定道の言葉に娘はにこりとして、
「はい、旦那さん。それはもう、二年も前に成ります。すっかり元服されて、立派になられた旦那さんが、あの湖にそって裏林を通られる、その姿を見て、私は急に胸さわぎを憶え、日をおう程に、旦那さんに近づきたく思い出したので御座居ます。けれど私は、御覧の通りの白髪、旦那さんは誰の間に入られても一番立派で美しい方です。心もひけて、それに、もしかして、旦那さんの心が、かりにもこわいお方ならば、人のさらし者にされるかもしれません。けれど見れば見る程、優しく思われ、とうとう思いつのって、八月の朝、お父様の命日に、寺へ参りゆかれる姿を見て、花をたむけてみたので御座居ます。すると旦那さんは、この私を見られても、別にいやしい者とも思われず、花をとって下さいました。それで私は力づけられて、こうしてお部屋に入れていただいたのでございます」
娘は、それだけ言いおえると、何か、定道を懷かしいものでも見るようにながめ、静かに下を向いた。定道は長らく娘をながめた。何を考えようにも、考えよう
定道が、あっと正気に振り見た時、早や、娘の姿はそこになかった。定道は驚きも果てに、飛びのいて戸にかけよって、見れば、、真白き蛇が銀河のごとく、地を這い、凍てつくひき水に今、身をのべようとしていた。定道の思わず心によびとめれば、白蛇はぐいっと頭を上げて、定道を振り仰いだ。共に心にひきあえば、その時、遠く、一天雷鳴のとどろいて、蛇は頭を、すっと流れに身をおよがせた。定道は、我れも忘れてその姿を追ったが、早や流れを伝って去る蛇の姿は、、その目に消え去った。それから二日、娘の姿も蛇の姿も現われず、定道は湖に探し、彷徨うては、又待った。だが、それは、声すら
壁に塞がる笹や雑林をかき分けて見れば、その流れは、まるで湖には向かっていないのであった。定道は胸も
そこには、まぎれもなく、真白い髪をふりみだした者の姿があった。
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