第四章 日常の瓦解
一 看護
己を呼ぶ声が聞こえた。
その、どこかぼんやりとした声の切なさが気にかかって、藤は重い瞼をゆっくりと押し上げる。見慣れた家の天井が視界に入る。朝の穏やかな光が、障子越しに差し込んできているのを感じた。
呼吸をすると、熱い息が乾いた鼻腔と喉を抜けていく。気道が焼けるように感じて、軽く身じろぐ。視線を横に移せば、浄が布団の脇に座って、自身の立てた膝に軽く凭れるようにして眠っていた。
家には他に誰もいないことを確かめて、藤はすぐに、己の名を呼んでいたのは浄の寝言だったのだろうと察する。それは浄らしからぬ振る舞いだとは感じたものの、それ以外に考えられない。
浄の長い睫毛がふるえ、彼もまた目覚めた。数回のまばたきの後に、藤と視線が合う。浄の目が見開かれた。
「藤、目が覚めたのか」
今までになく切羽詰まった声で、浄が藤へと問いかけた。藤は返事をしようとして、声が出ないことに気づく。乾ききった喉が痛み、咳が漏れた。
咳によって体が動いたことで、今度は全身が痛みだす。
「無理しなくていい。水は飲めるか? 待っていろ」
浄は慌てて立ち上がり、土間の方へと向かっていった。藤の額には、すっかり温まった、濡れた手ぬぐいが置かれている。
椀に水を汲んで持ってきた浄は、藤を起き上がらせようとはしなかった。椀に自ら唇をつけ、水を含むと、そのまま藤に口づける。
藤は、浄の唇から与えられる生暖かい水を飲む。嫌だという感情は微塵も浮かんでこなかった。ただ、生き返るような心地がした。乾ききった喉が、潤っていく。
藤がなおも欲しがっているのを察して、浄は二度、三度とその行為を繰り返す。その間、浄の優しい指先が、藤の髪をそっと撫でていた。
「丸三日眠っていた」
藤の喉の乾きが収まったところで、浄が話し出す。この段になって、藤はようやく袁、号と繰り広げた死闘を思い出し、状況を理解した。
「迷惑をかけた」
声を発したが、藤が自身で思っているよりも弱々しい声が出た。未だに頭がはっきりしないのは、傷が原因で出ている熱のせいだ。視界の一部も欠けているような感覚がする。
手ぬぐいを再度水で冷まして藤の額の上に乗せ直し、浄は曖昧に笑う。
「粥も食えそうか?」
「作れるのか?」
「馬鹿にするな」
短い会話を交わし、浄は立ち上がると土間の方へと向かっていった。一人部屋に残され、藤はゆっくりと大きく息を吐きだす。
目が覚めてしまえば、全身が痛い。激痛だ。これならばまだ気を失っていた方が良かったと思うほど。しかしどちらかと言えば、藤自身、己が生きている方が不思議だった。号に腹部を貫かれた時「ああ、これは死んだな」と、ある種諦めがついたからだ。
痛む体を何とか動かし、そっと腹部を撫でてみれば、完璧な手当が施されている形跡を感じる。加えて、額に乗せられた手ぬぐいに、先程の浄の様子。藤は困惑した。
土間の方からは、浄が作業をする音が聞こえてくる。浄が竈の前に立つなど、この家にやってきてから一度もなかったことだ。
そして、米を炊く良い香りが漂ってきた。その匂いを吸い込めば、ようやく生き延びたのだという実感が湧いた。深い安堵が体を包んでいく。己が生きられるという喜びよりも、まだ浄のことを引き止めておけるという感情の方が強い。
しばらく後に、浄は粥を椀に入れて戻ってきた。
「もう米以外の食材がないんだが」
などと言いながら、藤の頭の下に布を足し、軽く頭をあげさせるに留める。そうしてから、浄は竹の匙でひと掬いひと掬い、優しい塩味を感じる粥を、藤の口元へせっせと運ぶ。
浄の顔を伺い見ると、怪我も負っていない彼の方も、どこかやつれていた。だが今は、その疲労の色が浮かんだ顔に、ひどく幸せそうな表情を浮かべている。
何故こんなことをしてくれるのかと、直接問いはしない。しかし、藤の困惑は深まるばかりだった。
藤が粥を食べ終わり、浄もまた残った粥で朝餉を済ませると、浄は己の身支度を整え、短く「村へ行ってくる」と言った。
その言葉に、藤は慌てる。
「待て、駄目だ」
「食糧ももうないし、何より、お前の熱がずっと下がらない。薬を買って来なければ」
「それなら俺が買ってくる」
「できもしないことを言うな」
浄は一笑に付した。
いっぽう、真剣な藤は息を喘がせる。手を伸ばし、必死になって浄の着物の裾を掴んだ。それだけでも全身に走る激痛。これでは馬に乗るどころか、起き上がることさえもできない。
浄はしゃがみ込むと、裾を掴む藤の手に手を重ねて、裾から離させる。
「俺だって童ではないのだぞ。心配するな」
藤は浄を他の人と会わせないようにすることに必死だ。だが浄のほうは、藤は置いていかれるのは心細いのだろうと思っている。浄は持ち上げた藤の、生々しい傷跡が残る手の甲に、そっと唇を触れさせた。
「大丈夫だ、買い物を終えたらすぐに帰ってくる」
その言葉に、藤はため息を吐き出した。引き止めることは不可能だ。買い出しにはいずれ行かねばならないし、自分の体がそれに耐えられないことを、藤も理解している。
ならば、と。
藤は眉根を寄せ、言葉を喉から絞り出すようにして話す。
「村の薬問屋に知り合いがいる。優という名の男だ。この間、ここに姿を現した者を憶えているか?」
「ああ、ずっと平伏していた奴か。お前に会いに来たという」
「そうだ。あいつも組を抜けてきた身。事情を話せば、必要なものは全て揃えてくれる。白虎からの追手が来るのも、松柏の者に事情が漏れるのも、御免こうむる。誰に話しかけられても、口をきくのは優だけにしてくれ……頼む」
藤の必死の懇願を、浄は変わらぬ表情で聞いていた。数拍の間の後「わかった」と浄は頷き、「とんだやきもち焼きだな」と茶化す。
ふっと息を漏らし、藤はようやく笑った。
「そうとも。お前は、わたしの男だ」
珍しい藤の笑顔を目にした浄もまた、どこか安堵するように笑っていた。藤の手を布団の中にしまい込むと、浄は心配そうに振り返りながら出かけていく。
藤は、浄の姿が戸口から消えた瞬間、叫びだしたくなった衝動を必死に堪える。
鹿毛の遠ざかる蹄の音を、祈るような気持ちで聞いていた。
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