一 優

 てぬぐいで体を拭き、夏物の着物をまとう。さらりとした麻布が爽やかだ。

 藤は帯を締めると、最後に竹の腕輪を左手に嵌めた。藤よりも先に支度を済ませ、浄の背を追う。彼はすでに家の方へと歩き出していた。

 水浴びで冷えた体も、竹林の中を歩いているとあっという間に汗ばんでしまう。

 藤は頭上を見た。天を目指し、まっすぐに育つ竹の合間から、だいぶ日の傾いてきた空が見える。それでもまだ明るく、昼間と形容できる空模様なのが、気分を明るくしてくれる。暑いのは面倒だが、夏は嫌いではないと藤は思う。

 と、上を見たまま歩いていた藤は、先を行っていた浄の背中にぶつかった。浄が不意に足を止めたのだ。

 いったい何事かと、浄の肩口から視線を前へ向けた藤は目を見開いた。

 家の前に人がいた。こちらを向いて、地面に両手をついて深々と伏せている。顔は見えないが、身なりと体つきからいって若い男だ。彼がとっている姿勢から、二人を出迎えているのだということは分かる。

 その人物が誰か見当もつかないが、藤は全身が総毛立つのを感じた。もし浄が自ら世俗に戻ろうとしたら、藤にはそれを止める術はない。己の身を差し出してでも、浄を世間から隔離し続けることが、藤の唯一の意地である。この瞬間、その意地が脅かされていた。

 藤は咄嗟に浄の前に出た。

 今、二人とも刀は携えてきていない。もし腰にさしていたら、藤は男を問答無用で斬り捨てていた。それができない代わりに、男と浄の間に割って立つようにして促す。

「浄、家に入っていてくれ」

「知り合いか?」

 いっぽう、久しく藤以外の人を見ていなかった浄には、僅かに好奇心が湧いた。

 藤は焦る。男が何か依頼を口にする前に、この場から浄を遠ざけたい。表情は真剣そのものだ。

「分からん。わたしが聞いておく。いいから早く……」

 浄の腕を掴み、力で押しやろうとするが、藤の腕力では浄を動かせない。

 藤の緊張した様子を見て、浄がこの時考えていたのは、もしこの男が危険な人物なら、藤に任せず自分が対処してやろう、などというものだった。

 思惑はすれ違い、浄はこの場を離れようとしない。

 藤は顔を上げ、浄の瞳を覗き込む。

「浄、頼む」

 その必死な様子と珍しい言葉に、浄はとまどいながらも、ようやく頷いた。

 男は二人のこの押し問答を前にしても、いまだ伏せたまま顔を上げない。男の様子を気にしながらも、浄は彼の横を抜けて家の中へと入っていく。

 戸が閉められた音を聞き、藤の体から力が抜けた。

「いったい何者だ。用事は何だ、顔を上げろ」

 先ほどとは打って変わって、落ち着いた声音で問う。浄に何事か依頼される危険が過ぎ去ってしまえば、大抵のものごとは藤の力でどうとでもなる。

 藤の言葉に従うように、男がゆっくりと体を起こした。そうして露わになった男の顔に、藤は息を呑む。

「優……?」

 男の正体は、白虎に残してきたはずの、優だった。

 三年会っていないだけだが、すっかり背が伸び、体格もしっかりしている。ひと目見ただけで優と分かる程に面影はある。だが、成長した面立ちは、受ける印象がまったく違った。三年前はまだまだ子供だったが、今ではもう青年と形容できる。意思の強さを表すような眉は凛々しさを増し、可愛らしかった大きな瞳は、美男としての一部位になっている。長々と頭を下げていたせいで、額に土がついていた。

「お久しぶりです、藤さん。急に押しかける形になってしまい、申し訳ありません」

 発された声も、記憶にあるものとは違う。声変わりも済んだ様子だ。

「どうして、ここに」

 藤は問いながら、あわてて優の手を取り、立ち上がるように促した。素直に立ち上がった優は、僅かだが藤よりも背が高かった。上方向へ視線を移動させねばならない事実に、藤はまた衝撃を受ける。

「号さんに聞きました」

 優の返答に、藤はすぅっと目を細めた。それだけの変化で、静かな苛立ちが露わになる。腹立たしさは優へ向けたものではなく、号へ。

 しかし藤の機嫌が悪くなったのを察知して、優は慌てた様子で言葉を重ねる。

「あ、号さんが悪いんじゃないんです。僕が勝手に、ずっと藤さんのことを探してしまっていて。そんな僕の存在を知って、号さんは哀れに思い、こっそり教えてくれたんです」

 続いて、「他の誰にも情報は漏らしていません」との宣言。

「わたしのことを、探していた?」

 藤は驚きに目を瞬いた。

「藤さんが僕のことを良く思っていないことは分かっています。でも、藤さんにどう思われていても、僕にとっては、藤さんは兄のような存在なんです。兄が急にいなくなって、探さない弟はいません」

 必死に紡がれる言葉に、藤は瞳を揺らす。

「良く思っていないなど。そんなこと、あるわけがないだろう」

 優は切なげに眉を寄せ、淡く微笑む。その表情の理由を、藤は知っている。最後に優と別れた夜。優の寄せてくれた想いに、藤は応えることができなかった。

 拳を握り、藤は口を開く。

「わたしは、白虎の人間ではない」

「知っています。藤さんの過去も、号さんが教えてくれました。どうして藤さんが帰ってこないのかも、今、藤さんが目指しているものも」

 優はまっすぐに藤を見つめていた。真実を知っても、その憧憬が混ざったような瞳の色に、昔と違うところはない。藤は手を伸ばすと、優の額についた汚れを軽く拭う。

「優は何を求めてわたしを探した。わたしに会えた今、どうするつもりだ」

「わかりません。ただ、どうしても会いたくて……僕は、藤さんのそばにいたいんです」

 飾らない言葉に、藤は妙な気恥ずかしさを覚えて、軽く眉を寄せた。

「号に聞いたのならば分かると思うが、わたしはもう、白虎には帰らない。優のその望みを叶えてやることはできないのだ」

「わかっています。僕もここに、白虎には戻らない覚悟で来ました」

 優がさらりと言い、藤は目を瞬いた。「なんだと?」と勢い込んで問いかける。組というのは一方的に抜けると言って、簡単に抜けられるようなものではない。

「いなくなったのを知られたら、お前まで白虎から追われるぞ」

「承知の上です」

「わたしは、優をここに匿ってやることはできない」

「藤さんにご迷惑はおかけしません。まずは松柏ホで家と仕事を見つけるつもりです」

「お前が近くにいること自体が迷惑だ。今すぐ白虎に帰れ」

「決して、藤さんの所在が白虎に伝わるようなヘマはしません。それに、僕は藤さんに許可をもらいに来た訳ではありませんから」

 あえて強く突き放した藤だったが、優のはっきりとした口調から、彼の決意がいかに堅いかが伺い知れる。藤はため息をつきながら、額に手をあてた。

 優が一度何かを言い出したら、梃子てこでも動かない性格なのはよく分かっている。

「勝手にしろ。ひとまずは優を信じる。だが、とにかく、浄には近づかないでくれ」

 藤がそう言葉を漏らすと、優は僅かに表情を緩めて、嬉しそうに頷いた。

「今日のように、浄に姿を見られるのも困る」

「すみません。本当は、藤さんにだけ伝わるように来るつもりだったんですが……」

 言いかけて、優は思い出したように耳まで頬を赤らめる。その表情を目にして、藤は察した。同時に、優の赤面がうつったように顔が熱くなる。

「その……家にいらっしゃらなかったので、近くを探していて……」

「もういい、なにも言うな」

 しどろもどろで続ける優の言葉を、藤は遮る。つまり、優は湖で藤と浄がしていることを目撃して、気が動転した結果、ここでただ伏して待っていたということだ。

 しばらく言葉もなく、藤は片手で口元を覆って黙り込む。

 藤は、あの日号に、嬌声を聞かせて構わない気持ちで罠を仕掛けて待ち構えていた。だが、優に浄との行為を見られることなど、完全に予想外だ。

 長く細い息を吐き出し、気持ちを切り替える。

「わたしは通常、五日に一度松柏ホへ買い出しに行く。次は二日後だ。およそ巳刻には村につくから、その時にまた会おう……聞きたいこともある」

 藤が提案すると、優は、たまらなく嬉しそうに瞳を輝かせる。

 幾度も頷く子供っぽい仕草を見て、藤もまた、思わず口元を緩めていた。

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